第241話 誘惑
「赤星君」
僕の名を呼んで、少し濡れた目で僕を見つめる絵里。
(違う…)
僕は心の中で思った。
学生の頃と同じ…あどけなさが残っている訳ではない。
やはり…彼女は少女じゃない。
大人の女特有の蒸せた臭いに、混ざる妖気。
(フェロモン…いや、媚薬か!)
頭の奥がとろけるような感覚に、全身が麻痺していく。
(だがな!)
僕は、痺れだした腕を何とか動かすと…爪で自分の肌を引っ掻いた。
傷口から、血が滲み出す。
バンパイアにとっての媚薬は、女の匂いではない。
血だ。
自らの血の匂いを嗅いだ瞬間、僕の瞳は赤く光った。
口許に笑みを浮かべて、絵里を見た。
「!」
赤き瞳に射ぬかれた瞬間、絵里の全身に恐怖が走った。
圧倒的な魔力に、飲み込まれそうになった。
「ああ…」
瞳が赤くなっただけなのに、さっきとはまったく別の存在に変わったことを…絵里は理解した。
だけど、絵里は恐怖を感じなかった。
ただ…嬉しかったのだ。
同じように、人間ではなくなった…知り合いがいたことに。
「あ、赤星君…」
絵里が、僕に向かって手を伸ばした時には…もうそこにはいなかった。
「君に…訊きたい。どうして僕が、同じだと思った?」
いきなり、背後に現れた僕に、絵里は驚いた。
「!?」
絵里は慌てて、振り向こうとしたが、動けなかった。
僕の手が、絵里の腕を取り…さらに体を密着することで、動きを封じていた。
「誰かにきいたのか?だとしたら、そいつらは一体…」
問いただそうとした時、突然…絵里の肌の質感が変わった。
柔らかく、ぬめりを感じる肌は、腕を取っていた僕の手を滑らし、飛び出すように僕から離れた。
「こ、これは…」
ベタついた透明の物体が、手についていた。
「最初の変化は…高校二年の終わりだった」
五メートル程、離れたところに絵里は立っていた。
その姿は、人間ではなくなっていた。
「肌から…変な液体が染みだし…着ていた衣服を、びしょびしょになったわ」
半魚人…ウーパールーパーにも似たその姿は、先程の絵里との落差がありすぎた。
顔だけは、ほぼ同じであるが、エラが張っていた。
身に付けていた衣服は、僕から飛び出した時に脱げたようで、2人の間に落ちていた。
「この姿になっても、部屋に引きこもっていたら…最初のうちは、いつのまにか元に戻っていた。だけど…高3になると、戻らない部分がでてきた!」
絵里は絶叫した。
「こんな体じゃ!何もできない!演技だけじゃない!好きな人といっしょになることも!」
「矢崎さん…」
僕の瞳の色が、もとに戻った。
「絶望したわ!どうしてなのかと!死ぬことも考えたわ!だけど…だけど!そんな時…あの方に会ったの」
泣き叫んでいた絵里の目に、よどんだ光が見えた。
「あの方?」
僕は一歩前に出た。
「そうよ!あの方は、わたしの変化の理由を教えてくれた。それは、人類の進化!人類をさらに別の次元まで、押し上げる進化だと!」
「進化だって?あり得ない…。なぜなら!」
「あなたには、わからないわ!」
絵里の叫びが、僕の言葉を遮った。
「あなたは、この世界を捨てたから!」
「僕が、この世界を捨てた?」
意味がわからなかった。
舌打ちすると、絵里を気にしながらも周りに、人がいないことを確かめていた。
メールが来た人物と会う場合…人目のない場所を選んでいた。
気を探り、誰もいないことを確かめると、僕はさらに前に出た。
「興味深いな…その話。詳しく訊きたい」
僕の言葉に、絵里は目を丸くした。
しばし…会話が止まった。
(仕方がない…。頭に直接きくか)
手を伸ばし、絵里の頭に触れようとしたら、絵里の胸から白い液体が飛び出して来た。
「な!」
よけることができずに、服に液体がつくと…繊維を溶けた。
と同時に、先程よりは百倍も凄い匂いが立ち込め、下から直接…鼻腔を刺激した。
がくと膝を落とした僕の頬を、冷たくひんやりとした絵里の手が触った。
「気持ちいいでしょ。男の人はみんな…そう言ったわ」
絵里は微笑んだ。
「矢崎さん…」
僕の意識が飛びそうだ。
歯を食いぼり、必死にたえていた。
矢崎は、僕の頬から指を立てると、ゆっくりと体をなぞっていった。
特に、服が溶け…素肌が露になっている部分は、念入りに触る。
絵里から出る体液は、まるでローションのようであった。
「でもね。あたし…進化なんてしなくて、よかったのに…。人間のままがよかった」
今度は、顔が下がっていく。
「みんな…この匂いで、気持ちよくなっても…はてるとね。もとに戻るみたいなの。正気になった男はみんな…同じ言葉を口にするのよ」
股間の辺りまで下がった顔が、僕を見上げた。
「化け物ってね」
絵里は微笑むと、這っていた指で、学生服のチャックを降ろそうとした。
「――で、その時…。お前は何て言うんだ?」
「え?」
突然、上からした聞き覚えのない女の声がして、絵里はチャックを降ろしかけたまま…顔を上げた。
僕は何も話していなかったが、耳についたピアスから声がしていた。
「化け物と言われて、どうした?」
「な」
ピアスからの声に、絶句する絵里に、さらに言葉を浴びせた。
「教えてやろう?」
ピアスの声が、にやりと笑ったことに、僕は気付いた。
「お前は、殺したんだ。その男達をな」
「違う!」
絵里は立ち上がり、ピアスを睨んだ。
「殺しては…いないから!」
「だったら〜」
声はさらに笑い、核心をついた。
「食べたな!」
「!」
「人間を食べたな!」
「いやああああ!」
絵里は悲鳴に似た絶叫を上げると、ピアスに手を伸ばし取ろうとした。
「赤星!」
ピアスが叫んだ。
「モード・チェンジ!」
ほぼ同時に、僕が叫ぶと、左手の指輪が輝き、光が全身を包んだ。
光は結界となり、絵里の体をふっ飛ばした。
「ビーナス!光臨!」
光が消えると、中からアルテミアが現れた。
「まったく!昔の女か知らないが!デレデレしやがって!」
アルテミアは登場と同時に、機嫌が悪い。
「別に、デレデレは…」
今度は、ピアスから僕の声がした。
「赤星君?」
状況が理解できない絵里は、尻餅をつきながらも、僕を探した。
「あたしが止めなければ、何をされるつもりだった!」
「え!な、何って」
口ごもってしまった僕に、アルテミアはキレた。
「気色悪い!この体は、あたしも使ってるんだからな!別々だったら、消毒がてらに、消滅させてやるのにな!」
「死ぬよ…僕…」
「むしろ、死ね!」
一言そう言った後、アルテミアは絵里を睨んだ。
「てめえ!あたしの体を傷物にしやがって!どうなるか〜あ!わかってんだろうな!」
手を組み合わせ、ぼきぼきと鳴らした。
その仕草や口調は、明らかにチンピラだが…絵里は、目を見張っていた。
「天空の女神…」
この世のものとは思えない美貌が、口調と仕草を切り離し…まるで、別々のように思わさせた。
「あ〜!」
怒りで顔も歪んでいるのだが…不細工にはならない。
それがかえって…怖いと、ブルーワールドでは評判だった。
だけど、絵里の反応を見ると違うらしい。
「ブロンドの女神…」
絵里は立ち上がると、アルテミアを見て、
「ネットで話題になる訳だわ。でも、わたしにはどうでもいい」
そう言うと、周りをキョロキョロと見回し、
「赤星君!赤星君は、どこに言ったの!」
僕を必死で探し出した。
その様子に、顔をしかめたアルテミアがピアスを指差しながら、
「赤星なら、ここだ。厳密には、ここではないが…意識を分ける為に、今はこの中だ。あたしが、体を使っているときはな」
「え」
アルテミアの言葉に、絵里の動きが止まった。
唖然としながら、ゆっくりとアルテミアの方へ顔を向け、
「体を使っている?」
おもむろに訊いた。
「ああ〜!そうだ!あたしは、赤星と体を共有している」
「共有って…共有って…」
絵里は、同じ言葉を繰り返した後、きゃああと悲鳴を上げた。
頭をかきむしり、
「わ、わたしの赤星君が!いやああっ!」
狂ったように叫び出した。
「あたしの赤星って…。てめえ!明菜以外も、女が!赤星の分際で!」
アルテミアの怒りにも、火がついた。
「違う!この子は違う!いや、明菜も違う!」
あまり女性関係で悩んだことのない僕は、パニックになった。
「フン!」
アルテミアは鼻を鳴らすと、右手を横に突きだした。
回転する2つの物体がどこからか飛んできて、アルテミアが掴む寸前に合体し、槍となった。
「まあ〜いい。こいつを始末してから、後でゆっくりてめえの処分を決めてやる!」
槍を一振りするアルテミア。
恐怖で、震え上がってしまっている僕だが、今はこらえなければいけない。
「やめてくれ!アルテミア!この子は!」
「うるさい!女たらし!」
アルテミアは一喝すると、
「こいつは、人間を喰った!その味を覚えたやつが、まともになれるはずがない!」
「だ、だけど!」
「お前だってわかるはずだ!バンパイアとして、血を吸ったことがあるなら!」
「あ…」
僕は何も言えなくなった。
脳裏に、僕を庇って死んだメロメロの言葉を思い出した。
(バンパイアに血を吸われた者は…そのバンパイアの中で生きることができる。これからは、兄貴の中で生きるメロ)
僕は思い出していた。
(そうだ。その覚悟がないと…人ではいれない)
黙り込んだ僕に、アルテミアは言った。
「こいつには、無理だ」
「返してよ!」
絵里は、アルテミアにすがりついた。
「返してよ!返してよ!わたしに、彼を!」
アルテミアの白いドレスに、絵里の体液がまとわりつく。
「あなたは、女神なんでしょ!力もある!美貌もある!だけど!あたしは…」
絵里の目から、涙が流れた。
「彼しかいないの!彼となら…その姿でも一緒にいれる!」
絵里は嬉しそうに目を輝かせ、
「だって…彼も化け物だから」
その言葉を聞いた瞬間、アルテミアは絵里を蹴り離した。
「きゃあ!」
また尻餅をつく絵里を、アルテミアは見下ろし、
「人間が、姿形で差別する動物であることは…理解している!だけどな!共にいようとする相手を、化け物だと言うな!」
睨み付けた。
「な、何よ!」
絵里は立ち上がると、アルテミアを指差し、
「あんたも化け物じゃない!どんなに綺麗でも!そ、それに!わたしにも、女神のような力があれば!生きていけるわ!こんな姿になってもね!」
「力が…あれば…だと?」
アルテミアは眉を寄せた。
「そうよ!だけど、わたしにはない!だから、赤星君が必要なの!生きる為に!」
「クズが…」
絵里の言葉を噛み締めた後、アルテミアは小声で唸るように言った。
「え」
アルテミアから立ち昇る魔力に、絵里は言葉を止めた。
「や、やめろ!アルテミア!」
ヤバいと思い、止めようと声に出したが、アルテミアは止めなかった。
槍の一撃が、雷鳴とともに…絵里の体に叩き込まれた。
一瞬だった。
全身の体液が蒸発した絵里が、地面に転がっていた。
「赤星君…」
アルテミアから変わった僕が、そばに立っていた。
絵里は、僕に笑顔を向け、
「ありがとう…」
お礼を言った。
「え」
意味がわからなかった。
僕は片膝を地面につけ、絵里に顔を近づけた。
笑顔の絵里は、あの頃の絵里だった。
「あなたが去ってから…世界は…新しい神をつくったの。その神は、人間を見捨てた。自分も見捨てられた深い…悲しみから」
「見捨てられた…悲しみ?」
僕の言葉に、絵里はとても悲しげな目を向け、
「…だから、神は…次にこの世界を生きる新しい人間に代わるものとして…わたしのような人間が持っている遺伝子を…」
「そ、それって!」
「…」
絵里は、無言で頷いた。
もう話すのが、辛くなったようで…頷いた後、絵里はただ…笑顔だけを向けていた。
あの頃の笑顔。
それが、絵里の最後の演技だったかもしれない。
「気をつけて」
震える唇で、言葉にならない声を出すと…絵里は息を引き取った。
「赤星」
ピアスからのアルテミアの声に頷くと、僕は絵里の遺体に向けて、手のひらを広げた。
すると、遺体は燃え上がり…一瞬で灰となった。
その灰が風に乗って、すべてなくなるまで…僕は見つめていた。
「その女神を探すぞ」
「うん」
アルテミアの言葉に、僕は頷いた。
その女神の正体が…自分の妹であることを知らずに。