第239話 初恋
「ほんと…久しぶりよね」
昼下がりの街角。メインストリートから二本離れた道は、人が過ごすのにちょうどよかった。
カフェのオープンテラスに座り、グラスの中の氷をストローで一度…かき混ぜると、少女は微笑んだ。
いや…もう少女とはいえないが、幼い顔があどけなさを引き立てていた。
「元気にしてたの?」
「ええ」
目の前に座る女の微笑みに、沢村明菜は思わず見とれてしまった。
「クスッ」
ストローから手を離すと、また違う笑顔を見せた女の名は、矢崎絵里。
2人は、同じ高校の同じ演劇部に所属していた。
どちらも演者であったが、どっちかというと裏方もやるオールラウンドプレーヤーだった明菜と違い、つねに主役クラスを任されていた絵里は、演劇部のスターであった。
だから、卒業しても、演劇関係を続けると思っていたが、まったく何もやっていないらしい。
逆に時間はかかったが、明菜の方が演劇に関わっていることが、不思議だった。
「中山部長とまた一緒にやってるなんて、夢みたいな話よね。うらやましい」
少し睨むように明菜を見た絵里の表情に、動揺してしまった。
「えっ!で、でも…まだ入ったばっかりだし、役もいつ貰えるかわからないし…」
「そりゃ〜あ、そうでしょ」
絵里はもう一度、ストローを回してから、
「演劇は、そんなに甘くない」
ぴしっと言った。
「絵里…」
その口調に、未だに消えていない演劇への愛情を感じ、明菜は嬉しくなった。
2人は見つめ合った後、嬉しさから笑い合った。
絵里の屈託のない笑顔を見ていると、明菜は自然に次の言葉が出かけた。
「絵里…。あんたもよかったら…」
「明菜…」
突然、絵里の口調が変わった。
笑顔が消え、明菜から視線を外すと、グラスの中の溶け始めた氷に目をやった。
「最近よく…あの頃を思い出すの。一番、楽しかった…演劇部にいた頃を」
「絵里…」
いきなり絵里の表情に影ができたことに、明菜は気付いた。
「後悔って…人は、するんだね」
悲しげに、絵里は微笑んだ。
「絵里…」
学生時代も、見せたことのない絵里の表情に 、明菜は何も言えなくなった。
「わたしも続けたら、よかったかな」
視線を町並みに向き、絵里は遠くを見つめた。
「だ、大丈夫だよ。まだできるよ」
明菜は笑顔をつくり、
「そうだよ。絵里もさ…」
「わたし…就職決まったの」
絵里は無理矢理、明菜の言葉を遮った。
「そ、そうなんだ…」
明菜は、それ以上何も言えなくなった。
「ちょっと町から…離れているの。だから、演劇はできない」
「!」
絵里の視線が、明菜に向けられた。その瞳に、突然浮かんだ決意の強さに、明菜は息を飲んだ。
(何!?)
それは、殺気に似ていた。
「ど、どんな仕事なの?」
おかしいと心の中で思いながらも、明菜は何とか…会話を続けようとした。
「あまり言いたくないんだけど…」
テーブルに頬杖をついた絵里の目が、今度は悪戯っぽく探るような色に変わった。
「ど、どこなの?」
あんまり聞きたくなくなったけど、話の流れで…明菜は訊いた。
「原子力発電所」
「え?」
この答えは、演劇部のスターだった絵里からも想像もできないことだった。
「あまり…いいイメージはないでしょ?だから、他の人には、内緒にしててね」
「わ、わかった」
明菜が頷くと、絵里ははにかんだように笑い、
「ところでさ…。話変わるんだけど、いい?」
「う、うん」
明菜はまた、頷いた。
どうもぎこちないなと、自分でも思うけど、なかなか変えれない。
少し落ち着こうと、明菜は紅茶の入ったカップに手に取り、口へと持っていく。
しかし、その中身を…明菜は飲むことができなかった。
絵里の口から出した言葉によって…。
「赤星浩一君って、元気かな?」
「え」
明菜は口の前で、カップを止めた。
「ほらあ〜!同じ高校の…って言うより、あんたの幼なじみでしょ?」
少し身を乗り出した絵里の瞳が、近い。
カップの向こうから、こちらをじっと見て、明菜の言葉を待つ絵里から、カップを置くと、視線を逸らしてしまった。
「知らない…。もう五年は、会ってないから」
少し間を開けてから、絵里は体を元の位置に戻すと、
「やっぱり…そうなんだ」
残念そうに肩を落とし、再びストローで氷をかき混ぜた。
「高校も途中で来なくなったから…。先生も何も言わなかったし…どうしたんだろうって、ずっと気になっていたんだ」
「そ、そう…なんだ…」
赤星浩一が、異世界に旅立ったことは…誰も知らない。
そして、最初のきっかけになったのが…。
「そう言えば…高校の時、あんたも…二度程、長期に休んだことがあったわね」
絵里はまたテーブルに頬杖をつくと、明菜を真っ直ぐに見据えた。
「そうだったかな?わ、忘れちゃった」
惚けてみせたが、白々しかった。
「…」
絵里は、無言になった。
明菜は慌ててカップを取り、液体を流し込んだ。
どんな味かもわからない。
我ながら…何て下手な演技なのだろうかと、嫌になったが、仕方がない。押しきるしかないのだ。
明菜はカップを置くと、深呼吸した。
高校の時の二度の長期休みは、すべて…異世界に行っていた。
最初は精神だけだから、覚えていない。 脱け殻の体は、家にずっとあり…原因不明の奇病とされた。
次の失踪事件は、覚えていた。その時は、精神も肉体も異世界にいたからだ。
それに、ほば同時期…5人の生徒も、校内から消えていた。
彼らもまた…異世界に呼ばれたのだ。
結局、異世界から戻ってこれたのは…明菜1人。
他の生徒達が、どうなったのかは知らない。
そして、異世界に迷い込んだ二度とも…赤星浩一に助けられたのだ。
二度目の時、浩一は…自らの体ごと異世界に向かい、明菜を助けた後…こちらの世界に戻っては来なかった。
少なくとも、五年間は…。
そう…明菜はつい最近、浩一を見たのだ。
スクランブル交差点で…高校生のままの浩一と。
まったく変わらない浩一を見たのだ。
その姿を思い出していた明菜に、絵里が話しかけた。
「そっか…知らないのか…残念!」
と言うと、絵里は左肩を上げ、
「別は…高校の時から、気になっていたんだ。赤星君のことだから、気になって」
「え!」
思わず声を荒げてしまった明菜。
「そ、そうなんだ…」
「意外かな?彼って…最初は頼りなかったけど、いなくなる前は結構…凛々しくなって…。何があったんだろうって、気になったんだよね」
「そ、そうだったかな」
明菜は、俯いてしまった。
「だから、明菜なら…今何してるのか…知っているかと思って」
絵里は、俯いている明菜の髪の毛を見つめ、
「幼なじみだから」
目を細めた。
「ご、ごめん!知らないんだ…」
明菜は、テーブルを見つめながら謝った。
「いいのよ。ただ気になっただけだから…。ありがとう」
その時、2人の間で携帯が鳴った。
「あっ!メールだわ」
絵里は、横にある椅子に置いた鞄から携帯を取りだし、誰からかチェックした。
そして、携帯を閉じると…にやりと笑った。
「ごめん!明菜!ちょっと人と待ち合わせしてて…もう時間だから行くね」
財布を取りだし、お金を出すと、伝票の上に置いた。
「また、連絡するね」
鞄を持つと、席から離れようとする絵里の背中に、慌てて顔を上げた明菜が言った。
「でも、あいつが聞いたら…喜ぶと思うよ。あいつ…多分…絵里のことを…」
その言葉に足を止めた絵里は、口元を緩めた。
「――わたしもさ」
振り返ることなく、絵里はこたえた。
「好きだった。多分…初恋」
「そう…なんだ」
声のトーンが下がる明菜に、一呼吸置いてから、絵里は振り返った。
「またね。明菜」
「う、うん」
頷く明菜に、笑顔で手を振ると…絵里はカフェを後にした。
「またね…絵里」
見送った後、明菜はテーブルにうつぶせになった。
女の勘だけど…浩一は確かに、絵里に淡い恋心を抱いていたことを感じていた。
それは、憧れに近いだろう。
だけど、今の浩一…いや、今は知らないけど、別れた時の浩一には、本当に好きな人がいたはずである。
異世界に残り、命をかけるくらいに好きな人が…。
「とっくに…諦めたはずなのに」
明菜はため息をついた。
絵里が好きと言ったから動揺して、昔のつまらないことを告げてしまった。
「駄目な…女だな」
そんな時は、自分が本当に嫌になる。
「あとで…絵里に電話しょう」
でも、わざわざ…好きな人がいるよと電話するのも、おかしい。
五年で、浩一の気持ちも変わっているかもしれないのに…。
(いや…)
それはないと、明菜は確信していた。
だから、諦めたはずなのに…。
「はあ〜」
深いため息をついて、さらに明菜は落ち込んだ。
そんな明菜とは違い、絵里はカフェを出てから、笑みが口元から消えなかった。
携帯がまた鳴った。
ディスプレイを見て、絵里はすぐには出なかった。
かけてきた相手は、山根。
無視しょうかと思ったが、それは不味いと思い直した。
一呼吸すると、完全に笑みが消え…落ち着きを取り戻した。
「はい」
あくまでも、事務的に絵里は対応した。
相手の話を聞いてから、こたえた。
「沢村明菜と、赤星浩一の接触はないと思います。しかし、可能性は残っているかと…」
絵里の言葉に、電話の向こうの山根が言った。
「わかった。見張りをつけよう。君は…時が来るまで、現場で待機してくれたまえ。数日後に、同士達を多量にそちらに投入する予定だ」
「はい。了解しました」
電話を切った後、絵里の顔に笑みが戻った。
そして、携帯を操作して、先程来たメールに返事を返した。
「楽しみにしてるわ。赤星君…。あなたに会えることを」
メールを送って来たのは、噂のブロンドの女神であり…赤星浩一とは名乗ってはいない。
だが、絵里は知っていた。
なぜならば、彼女は…。
人ならざるものに関わった人を救う女神。
その女神が、誰かも知っていた。
仲間である彩香が、接触しているはずだ。
彩香は山根に報告したが、絵里はしなかった。
その理由は、明菜から…浩一が、自分のことが好きだったと聞いたからだ。
(わたしにも…チャンスがある)
自分の体に、変化が現れた時…絵里はすべてに絶望した。
だから、演劇の道も捨てた。
山根達の命令にも、従っていた。
(でも…彼と結ばれたら…)
絵里の未来は、明るくなった。
この世界を支配できるかもしれない。
ほくそ笑む…絵里は知らない。
浩一と女神の関係を…。
「彼とわたしがいれば…その女神も何とかできるわ」
絵里は数年ぶりに、本当の笑顔をつくることができた。