第236話 困惑
「兜博士がいなくなった?」
南館の一番奥にある理事長室に通された結城哲也の耳に、飛び込んで来たのは、衝撃的な事実だった。
「そうです。まるで神隠しにあったかのように」
木目調の美しい机の向こうで、ため息をついた黒谷は、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたもご存知のように、彼は月影の研究をする為に、特別校舎の地下にこもり、ここしばらくは誰に会うこともなく過ごしていました」
「月影…」
哲也は背広の上着の内ポケットから、ダイヤモンドでできた眼鏡ケースを見つめた。
「彼によると、この世界は月の女神が、人間の為につくったのだと言っていましたね」
「はい」
黒谷の言葉に、哲也は頷いた。
「確か…人間の天敵がいない世界と」
哲也は、ダイヤモンドのケースを内ポケットにしまいながら、眉を寄せた。
「しかし、女神が元々いた世界をコピーした時、バクが発生したと」
「そうです。世界は、神を求めたのです!」
黒谷は机の前から出ると、哲也の横を通った。
「月の女神は、愛する男と結ばれる為に、神であることを放棄した。故に、世界は独自に神を創造した」
「世界が神を創るのですか?」
哲也の問いに、黒谷は扉の上に飾られた学園の紋章を見つめ、
「ええ…。この世界の番人として」
呟くように言った。
「だとすれば…その神は、どこにいるのですか?」
哲也は振り返り、黒谷の背中に問いかけた。
「この世界にはいない」
三日月をモチーフにした学園の紋章は、刃にも見えた。
「どこにいったのですか?」
「恐らく…神々のいる世界」
黒谷は紋章から、目を離した。
「だから…世界は、新たな神を創造された」
ゆっくりと、哲也のように振り向き、
「それが、兜博士の研究の結果で出た答えです。そして、その世界は、私達の世界と共鳴していると」
「共鳴?」
「はい」
黒谷は頷き、
「だから…あなたに似た人もいるかもしれませんよ」
「ご冗談を」
哲也は肩をすくめると、
「私は私ですよ」
「そうでしょうか?」
黒谷は、じっと哲也を見つめた。
その視線の強さに、哲也は少し戸惑ったが…フッと笑うと、黒谷の横を通り過ぎた。
「とにかく、兜博士は私が探します。彼には、きかなければいけないことがありますから」
哲也は、扉のノブに手を伸ばした。
そして、ぎゅっと握り締め、
「乙女シルバーの在りかをね」
と言うと、ノブを回し…外に出た。
バタンと音を立てて閉まった扉を見つめていた黒谷は、深呼吸すると、後ろを振り返った。
「もう1人の自分が、違う世界にいる…。そんな空想事を、私だって信じられなかった。あなたに会うまでは…」
「クスッ」
机の前に腰かけている女を、黒谷は睨んだ。
いつのまにかそこにいた女は笑いながら、黒谷を見て、
「どうして…真実を告げなかったの?さっきの話のほとんどが、あたしから聞いたって」
「九鬼真弓…。生徒会長」
強がっても、黒谷は足が震えていることをわかっていた。
「言ったはずよ!」
九鬼そっくりの女の眼光が、黒谷を貫いた。
「うっ!」
息が詰まる黒谷。
苦しむ姿を見つめながら、女は言った。
「そんな人間がつけた名を呼ぶな!あたしの名は、デスパラード。闇の女神よ」
デスパラードは机から降りると、手を伸ばし、黒谷の顎を掴んだ。
「心配しなくても、あなたがあたしに協力してくれるなら…この世界には、手を出さないわ」
「ほ、ほ、本当なのか?」
「ええ」
デスパラードは、頷いた。
「あたしがほしいのは、こんな世界ではなく、あたしの体!神話の時代になくした…あたしの肉体よ」
デスパラードは、掴んだ顎を指で弾いた。
黒谷の体が宙を舞い、扉の横にかけてある額縁にぶつかった。
「それに…この世界の新たな神には、神よりも恐ろしい存在が目をつけている。あたしは、そいつと揉める気はさらさらない」
「か、神よりも恐ろしい…存在?」
黒谷は顎をさすりながら、きいた。
「お前に、こたえる義務はない」
腕を組んだデスパラードの瞳が、赤く輝いた。
――トントン。
その時、外から扉を叩く音がした。
「理事長?」
理事長室の前に立つのは、相原理香子である。
「チッ」
その声に舌打ちすると、デスパラードは消えた。
ほおっと胸を撫で下ろすと、黒谷は扉に向かって、声をかけた。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開け、一礼した理香子に背を向けると、机の向こうに戻った。
「頼まれていました。全生徒のアンケート用紙の回収が終わりましたので」
書類の束を抱えていた理香子は、机の上に置いた。
「ごめんなさいね。本当は、生徒会の仕事なのに」
黒谷の言葉に、理香子は笑顔をつくった。
「大丈夫ですよ。これくらい」
スタイルはモデル並み、そして佇まいは至ってクール。それなのに、話かけると誰でも気さくに接する理香子は、密かに姫と呼ばれ、男女とわず人気があった。
確かに、こういう仕事は向いてるかもしれない。
黒谷も自然と笑顔になっていた。
理香子と話していると、先程の恐怖を忘れてしまう。
「それに…生徒会長は、忙しいみたいですし…。詳しくは知りませんけど」
理香子は、首を捻った。
生徒会長である九鬼が、月影の1人であることを、理香子は知らない。
そして、理香子の正体を彼女達は知らない。
「では、失礼しました」
頭を下げ、理事長室ら出ていこうとする理香子を、黒谷は呼び止めた。
「相原さん」
「はい」
扉のノブを掴んだ理香子は、振り返った。
その屈託のない笑顔に、黒谷は息を飲んだ。
すぐに、言葉がでなかった。
「?」
理香子は首を傾げた。
「あ、あのですね」
軽く咳払いをした後、改めて黒谷は言った。
「最近、物騒な事件が多いですから、くれぐれも気を付けて下さいね」
「わかりました。気を付けます」
扉を閉める前に、理香子は頭を下げ、ありがとうございますと言った。
「ふぅ〜」
理香子が去った後、黒谷は息を吐いた。
「闇の女神に…月の女神」
こめかみを指で揉むと、
「そして…テラ。その世界は、どうなるのかしら…」
深々と椅子にもたれかかった。