第225話 焼ける魂
「追いかけるか?」
リンネが去った方を見つめながら、九鬼は一瞬迷ったが…諦めた。
そこに誰か…捕らわれの者がいるならば、九鬼は迷わず行ったであろう。
しかし、誰も捕らわれてはいない。
今行けば、確実に死ぬ。
それは、犬死である。
無謀であり、愚かだ。
この世界で戦い、人々を守っていくならば、一時の感情に流されてはいけない。
九鬼は、胸元を握り締めた。
どこか…相手の強さを確かめたい。
強き者と戦いたいという気持ちがあった。
それは、単なる戦士ならば…許されただろう。
しかし、人々を守ると誓った者には不要であった。
(突きだす拳よりも、払う腕を!)
それが、九鬼の基本であった。
「フゥ」
深いため息をつくと、九鬼は前を向いて歩き出した。
(まずは、乙女ケースを取り戻す)
九鬼は、誰もいない前方を睨んだ。
「生徒会長」
突然後ろから声がした。
「!?」
驚くよりも速く…反射的に回し蹴りを、後ろに叩き込んだ。
普段ならば、学校である為、間合いを取り、相手を確認するのだが、リンネの姿が脳裏に残っていたからか…すぐに攻撃に転じてしまった。
(くそ!)
その攻撃を悔いた。
しかし、声をかけるまで、まったく気配を感じさせなかった相手である。
この行動は、仕方がない部分もあった。
「どうなさいましたか?」
九鬼の蹴りは、トンファーで受け止められていた。
「初めて…後ろを取れましたよ。何か悩んでいらっしゃるのかな?」
「…何でもありません」
九鬼は安堵のため息をつくと、蹴り足を下ろした。
蹴りを受け止めたのは、ある意味普通の生徒ではなかった。
学園情報倶楽部の服部。
暗躍のエキスパートであった。
「何か用かしら?わざわざ後ろまで取って…」
九鬼の責めるような目に、服部は苦笑した。
「大した用ではないのですが…」
蹴りを防御したトンファーが折れて、廊下の床に落ちた。
「命懸けでしたね」
折れたトンファーを見つめ、
「やはり…あなたの背中は危険でしたな」
感心した。
「すまない。折るつもりはなかったんだが」
いつも以上に、しならせた蹴りを放ってしまったことに懺悔していると、服部がため息をつき、
「こちらも折らす気など…ありゃせんでしたよ」
折れたトンファーを学生服の内側にしまった。
「大将が呼んでます」
服部は、新しいトンファーをどこからか取り出すと一振りして、感触を確かめた。
「高坂先輩が!?」
「はい」
服部は頷き、
「何でも、怪しいやつを片っ端から、すべて調べるようで…」
「怪しいやつ?」
九鬼は眉を寄せた。
「俺は、今の女教師でして…」
「え!?」
「距離を取って、つけているですが…隙だらけなんですよ。無防備。それなのに、これ以上接近することを…足が拒むんですよ」
「…」
九鬼には、わかる気がした。
勿論、服部はわかっている。
しかし、だからこそ…やらなければならないのだ。
「そんなプレッシャーを与える相手をほったらしにゃ〜あできません」
服部は、トンファーを構えた。
「あの教師の正体暴いて見せますよ」
「無理はしない方がいい」
九鬼は止めようと、腕を伸ばしたが、服部は後ろに下がった。
「心配いりませんよ。何も戦おうって、訳じゃない。ただ…探るだけですよ」
そう言うと、服部の姿が消えた。
「あ!そうだった。大将は、西校舎の裏にいますんで」
声だけが、どこからか聞こえた。
「服部くん!」
もう九鬼の声にも、答えなかった。
そして、それが…服部を見た最後の時となった。
一方…屋上では、カレンと緑が対峙していた。
いや、正確には…もう終わっていた。
緑の手にあった木刀は、コンクリートの床に転がり…緑は、その場で崩れ落ちた。
「あたしが…瞬殺」
腫れ上がった手の甲を見つめ、緑は絶句していた。
手が痺れている為、しばらく木刀を握れない。
「この学園に、あたし以上の剣の達人がいたなんて…」
項垂れる緑に、カレンが突っ込んだ。
「剣使ってないし」
その言葉に、さらに落ち込む緑に、カレンは頭をかいた。
(このあたしが…学生如きの剣術に不覚を取ってどうする)
「あり得ない」
まだ現実を認めたくない緑の様子に、カレンが落ち込んできた。
(そんなに、あたしは…大したことなく見えるのか?)
ため息をついたカレンに、緑はさらに肩を落とすと、
「単なる山本さんに負けるなんて…そんなありふれた名字に!」
「は?」
カレンは、顔をしかめた。
「そうだ!」
突然、緑は立ち上がると、カレンを指差し、
「日本地区でも、ありふれた名字の人間に、あたしが負けるはずがない!」
「どんな理屈だ?それよりも、全国の山本さんに謝れ!」
「そうか!そうなんだな!」
緑の目が光る。
「というか!お前の名字は、なんだよ!」
「あたしの名字は、中小路!だけど、そんなことはどうでもいい!あなた!」
カレンを指差す指に、力が込もる。
「山本さんではないわね!」
「!」
カレンは心の中で、ギクッとした。
確かに、山本は育ての親の名字である。
カレンの姓は、アートウッド。
かつては、優れた身体能力と頭脳を兼ね備え、最高の一族と言われた名家である。
しかし、今は…もう存在しない。
「図星でしょ!」
鋭い緑の視線に、カレンは肩をすくめて見せた。
「くだらない」
カレンは、緑に背を向けた。
「あたしは、山本の姓にも誇りを持っている」
そう言うと横を向き、カレンは声をかけた。
「帰るぞ。浩也!」
「は!そうだわ!」
カレンの声に、緑ははっとした。
「輝は…どうなったのかしら!」
緑も横を見た。
屋上の一番奥では、情報倶楽部の犬上輝と、浩也の戦いが繰り広げられているはずだったが……。
「え…」
緑は、唖然とした。
「あう〜ん!」
甘えた声を出して、浩也の足にスリスリしている輝がいた。
「犬って…人間に似てるんだね」
笑顔を浮かべながら、カレンを見た浩也に、
「違う…。そいつは、犬じゃない。た、多分…人間」
カレンは否定したが、半分どうでもよくなってきた。
輝は浩也から離れると、仰向けになり、お腹を見せた。
「よしよし」
お腹を撫でてやる浩也。
「あの馬鹿!」
緑は痺れが取れた手で、木刀を拾い上げた。
「敵わない相手と思ったら…すぐに服従するんだから」
トランス状態になると、野生動物の能力を使えるという特殊能力を持つ輝は、この状態の時、人としての理性を失っていることが多かった。
変幻した瞬間、浩也の本質を知った輝は…恐怖を通り越して、本能で服従を決めたのだ。
「何してるのよ!この役立たず!もういいわ!もとに、戻りなさい」
緑が木刀を振り上げた瞬間、輝は緑の足首に噛みついた。
「何するのよ!この駄犬!」
「噛んでは駄目だよ。ラッキー」
勝手に名前をつけた浩也が、噛みついた輝を離そうと足を掴んだ。
「何だ…。この状況は」
カレンは、こめみに指を当てた。
乙女グレーの襲撃。そしてら乙女ブラックになれる男。
学園に何かが起こっているのに、こんな茶番劇に付き合ってる場合ではない。
屋上を囲む網にもたれた瞬間、カレンは真下に人がいることに気づいた。
「あれは?」
その頃、西校舎裏を目指し、早足になっていた九鬼の前に、眼鏡をかけた美亜が現れた。
「阿藤さん?」
九鬼は、足を止めた。
美亜は優しく、微笑んだ。
「九鬼様」
九鬼の前では、以前のままである美亜は…突然、走り出した。
「大変なんですう!」
九鬼の胸の中に飛び込んだ美亜は、震えだした。
「どうしたの?」
美亜の様子に、ただ事ではないものを感じとり、九鬼は美亜の両肩を掴むと、胸から離し、顔を覗き込んだ。
美亜は、今にも泣きそうな顔になり、
「理事長のある校舎の近くを通ったら…廊下に、大量の砂があって…そ、それでり、理事長室を覗いたら……いやあ!」
少しパニックになる美亜に、九鬼はあくまでも、優しい口調できいた。
「理事長に何かあったの?」
「あ、あ、あ」
言葉にならない美亜に、九鬼は聞き方を変えた。
「理事長に何かあったのなら…頷いて」
九鬼の言葉に、美亜は頷いた。
「わかった。報せてくれてありがとう」
九鬼は微笑みながら、美亜の肩から手を離した。
「大丈夫?」
美亜に確認すると、コクリと頷いた。
九鬼も頷くと、
「じゃあ…行ってみるわね。ありがとう」
もう一度お礼を言うと、九鬼は美亜から離れ、走り出した。
校則を守っている場合ではない。
遠ざかっていく九鬼の背中を見送りながら、美亜は呟いた。
「このまま…普通にやられて貰っては困る」
九鬼の背中が完全に見えなくなると、美亜は眼鏡を取った。
「他が為の戦士よ。お前には、人というものの戦う姿を、あいつに見せて貰わなければならない」
美亜は、九鬼が去った方に背を向けた。
「そして…敵わぬ力に、絶望する姿をさらして貰わないといけない」
ゆっくりと歩きだした。
「すべてを、あいつに見せる為に」
「高坂先輩…ごめんなさい」
九鬼は、西校舎裏にいくことを後回しにして、理事長室に向かった。
渡り廊下から、南館に飛び込んだ九鬼は、乙女グレーとの戦いの傷痕がまだ残る廊下を疾走した。
「誰が、やった?」
明らかに尋常でない数の乙女グレーを倒したことが、わかった。
しかし、それを勘繰っている暇はない。
九鬼は、一番奥の理事長の扉に手をかけた。
鍵はかかっていない。
中に飛び込んだ九鬼は、焦げ付いた匂いに顔をしかめた。
扉の横に設置されている応接セットのソファが溶けていた。
「理事長!」
そして、一番奥の机にうつ伏せになって、倒れている黒谷を発見した。
机の前の床も、溶けていた。
まだ熱が残る床をさける為、九鬼は扉から壁にジャンプすると、壁を蹴り…天井のシャンデリアを掴むと、黒谷が倒れている机に着地した。
机には、熱がなかった。
どうやら、理事長内に炎を放ったのではなく、炎を纏った者同士で戦った痕であることを、九鬼は悟った。
「理事長!」
うつ伏せに倒れている黒谷を抱き起こすと、もう彼女に意識はなかった。
火傷は負っていない。
殆ど外傷はない。
ただ…こめかみの辺りに、穴があいているのが確認できた。
「理事長!」
今の黒谷は、脳死に近かった。
ムジカにより、脳に何を撃ち込まれ…精神を乗っ取られた黒谷は…操り人形と化した。
その状態でアルテミアと対し、一撃で意識を奪われてしまった。
その瞬間、脳と肉体をつなぐ意識という線が切断されたことになった。
ムジカの操り人形になった者に、意識を取り戻そうとする処置を施した場合、撃ち込んだものが…脳を破壊するようにできていた。
意識が飛んだ場合も、それに当たった。
脳が死んだ者は、しばらくは心臓が動いているが…やがて、止まる。
九鬼が着いた時には、脳死からしばらく時間が立っていた。
抱き上げた時には、心臓はもう止まりかけていた。
「理事長!」
だけど、脳が死んだ体が…九鬼の叫びに呼応した。
「あああ…」
黒谷の唇が震えると、微かに指先が動き…机の下を指差した。
それが、黒谷の最後だった。
「黒谷理事長…」
九鬼は、黒谷を抱き締めた。
目を瞑り、流れる涙を拭うこともなく…しばし、抱き締めた後、九鬼は黒谷が最後に、指差した方を見た。
机の前に、落ちている乙女ケースがあった。
「あれは!?」
九鬼は乙女ケースを見つめた後、黒谷の物言わぬ顔を見た。
「あ、あたしに…戦えと」
九鬼はゆっくりと、机の上に黒谷を横たえると、乙女ケースに手を伸ばした。
溶けている床の上にある乙女ケースは、熱を持っていた。
机の上に寝て、手を伸ばした九鬼は、指先が触れた瞬間、顔をしかめた。
肉が焼けたからだ。
しかし、九鬼は躊躇うことなく、乙女ケースを掴んだ。
「くっ!」
自分の肉が焼ける音と、匂いがした。
九鬼は立ち上がると、横たわる黒谷に頭を下げた。
「確かに受け取りました」
やがて…九鬼の手の中で、熱が引いた乙女ケースをまじまじと見つめた。
「黒い…乙女ケース」
九鬼は、乙女ケースを握り締めた。
そして、再び来た手順で、廊下へと戻った。
乙女ケースを掴んだ手が痛んだが、気にもしない。
自分の痛みなど、黒谷に比べたら大したことはない。
九鬼は走り出した。
西校舎裏に向かって。