第224話 炎の変化
「!」
廊下を歩いていく九鬼の背中に、鋭い音が突き刺さった。
それは、愛川が刻むドラムの音であったが…軽音部の部室からは結構離れている為に、本来ならば届くはずはなかった。
九鬼は足を止め、後ろを振り返った。
誰もいない廊下をしばし見つめた後、九鬼は前を向き…歩き出した。
廊下に、九鬼が刻む足音が木霊する。
もう愛川の音は、聞こえない。
その代わり、音さえも飲み込む…冷たい目をした女が前に現れた。
腕を組むでもなく、冷笑を浮かべていた女は…九鬼が近づいてくると歩き出した。
(うん?)
ひんやりとした空気が、本当は暑いことに、九鬼の体が気付いた。
汗ばむ体に、冷や汗が流れた。
(な!)
一瞬、サウナのような暑さを感じたのに…ひんやりと冷たい。
体感温度と真逆の冷たさが、全身を貫いた。
(は、は、は…)
息苦しさを感じ、九鬼は足を止めた。
何とか呼吸を整えようとしていると、真横を女が微笑みながら通り過ぎた。
(!)
筋肉が硬直し、息ができなくなった。
しかし、女の足音のリズムが遠ざかっていくと、自然と筋肉の硬直も解けた。
「馬鹿な!」
九鬼が慌てて振り返った時には、女の姿は消えていた。
「く!」
九鬼は顔をしかめた。
戦ってはいないが、明らかに敗北していた。
蹴りを主体とした九鬼の戦闘スタイルは、自らの気をコントロールし、体の筋肉を柔らかくしていなければならない。
カチカチになった筋肉など、攻撃を遅くするだけである。
戦闘中は、気を張りつめながらも、体はリラックスしている状況がベストである。
どちらも緊張していたら、戦える訳がない。
完全なる敗北を九鬼に与えた女は、止まることなく歩き続ける。
角を曲がり、誰もいないことを確認すると…女は三人に増えた。
「今のが、闇の女神か?」
最初から歩いていた女の言葉に、増えた2人が跪いた。
「そうでございます」
「しかし…今のあの女に、闇の女神という言葉を使うのは、適切ではございません。あやつは、闇の力を失っております故に」
女の前に跪くのは、ユウリとアイリ。
彼女達が臣下の礼をとるのは、この世でただひとり…炎の騎士団長リンネである。
2人は、アルテミアによってダメージを受けた体を癒す為に、炎の化身であるリンネの中にいたのであった。
「確かに…あの子から、闇の波動や魔力を感じなかった」
首を傾げるリンネに、ユウリが進言した。
「恐れながら申し上げます。あのような者…。リンネ様のお心を惑わす資格もございません」
「ご命令とあらば…」
アイリも口を開いた。
「すぐにでも、排除致します」
2人の言葉に、リンネはクスッと笑った。
「ほっておきなさい。構うことはないわ」
リンネは、跪く2人の横を通り過ぎた。
「しかし…」
ユウリは何か言おうとしたが、言葉を止めた。
それを、リンネは見過ごさなかった。
「何かしら?ユウリ」
「はっ!」
慌てて体の向きを変えると 、言おうとした言葉を続けた。
「あやつがもし…闇の力を受け入れたならば…少しは、障害になるかもしれません」
「いいじゃない」
リンネは、笑った。
「え」
2人は顔を上げた。
「その方が、退屈しのぎになるわ」
リンネの嬉しそうな顔に驚き、ユウリは少し腰を浮かせ、
「この後!もし!赤の王が、復活した場合…我々とあやつらとの戦いが始まります。そのようなことになる前に、少しの危険も排除された方がよろしいかと……!?」
少し興奮してしまったユウリの目に、優しく微笑むリンネの顔が映った。
次の瞬間、ユウリは覚悟した。
自らが滅せられると。
炎の騎士団長リンネに、笑顔はない。
その微笑みは、怒りよりも恐ろしいものだった。
絶望するユウリに、アイリも何もできない。
体の向きを変え、2人に近づくリンネ。
ユウリとアイリは覚悟を決め、再び跪き…頭を下げた。
リンネの掃いているヒールの先だけが、2人の視界に入った。
目を瞑ることもない。
なぜならば…二人は他の魔物と違い、リンネによって造られたからだ。
生奪権は、リンネにあった。
リンネはクスッと笑うと、二人に言った。
「あの程度の者で、心配しなくていいのよ」
リンネの言葉の続きを、二人は想像した。
(あの程度の者で心配される程、あたしは弱いのか?)
怒りの形相で、消滅されると。
しかし、結果は違った。
「ありがとう」
リンネはそう言うと、向きを変え…歩き出した。
「な!」
絶句する二人を残し去っていくリンネの背中を、思わず顔を上げたユウリとアイリは見送った。
「あり得ない…」
最強の魔神の一人であるリンネから、ありがとうの言葉が出るなど信じられなかった。
しばらく、そのままも格好で、リンネを見送った後…ユウリは立ち上がり、呟く様に言った。
「恐ろしい…」
今までのリンネは、あらゆるものを燃やし尽くす業火そのものだった。
だから、恐ろしかったが…わかり易くもあった。
しかし、変化してきた。
それは、フレアの裏切りと死が引き金になったことは間違いない。
それを始まりにして、人間と接するようになって、少しづつ変化があったことは…ユウリとアイリもわかっていた。
それがついに、別人と思わすような言葉を発するようになった。
リンネの変化は、完全なる魔物であり人とは違い、人を理解できないユウリとアイリには、恐怖でしかなかった。
人間は知らない。
魔物がある意味…人に恐怖を感じていることを。
魔物が、人を殺すのはある意味、自然の摂理である。
人間よりも優れた力と能力を持つ魔物が、自分達より食物連鎖の下にいる人間を殺すのは、自然の原理である。
確かに、ウサギがライオンに襲われたならば…逃げたり、捕まっても最初は抵抗する。しかし、すぐに覚悟して、すぐに諦めるだろう。
しかし、人間は諦めない。
自分達の弱さをカバーする為に、武器や魔法をあやつり、時には自ら進んで魔物に戦いを挑んでくる。
そんな動物はいない。
そして、時には無差別に他の動物を殺し、全滅させる。
魔物はそんな事をしない。
数多く殺しても、種を絶滅はさせない。
ある学者は、それが…人間が生き残っている理由だとした。
だから、人々はライに恐怖した。
ライは、人間のように…人間を滅ぼそうとしているからだ。
その行為は、人間だけでなく…魔物も、ライを畏怖するようになった。
そして、今のリンネは…そんなライに似ていたのだ。
しかし、ユウリとアイリは知らない。
リンネの心の中を。
リンネは、ライとは違う。
ライは、人間から生まれた。
リンネは、ライに創られたのだ。
そして、単に…人の力に興味がなかったのだ。
知りたいのは…。
リンネの脳裏に、浮かぶ映像の理由。
赤星を守る為に、身を挺するフレア。
その行為の理由を知りたい。
いや、答えならば知っている。
愛だ。
ならば、愛とは何だ。
人間がたまに見せる…自己犠牲。
フレアは魔物である。
それなのに…死んでもなお…赤星を守る。
そんなことをさせる愛とは、何なのだ。
リンネとフレアはもともと、同じ魔物である。
力に差はあるが…半身が掴んだ愛とは…。
リンネには、理解できなかった。
そのことに悩み続けることで、リンネは変わった。
しかし、本人は…そのことに気付いていない。
なぜならば、まだ…迷いの中にいるからだ。