第207話 偽りの仮面の張り付いた疑心
「ううう…」
しばらく気を失っていたようだ。
気付いた時、九鬼の頬についた血を、 誰かがハンカチで拭っていた。
「あっ」
そばでしゃがんでいた人物は、九鬼の目が開いたことに気付くと、慌てて手を引いた。
そして、立ち上がると、九鬼から離れた。
「…阿藤さん?」
九鬼は地面に両手をつくと、何とか上半身を起こした。
加奈子の放った毒は、どうやら薄められていたようだ。
(今回は…警告か)
九鬼は全身に力を込めると、立ち上がることができた。
「阿藤さん…ありがとう」
阿藤美亜の方を向き、頭を下げようとした。
しかし、美亜は怯えるように震えていた。
九鬼の言葉など聞いていない。
ただ下を向いて、青ざめながら、震えていた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
震える唇からもれる声は、ひたすら謝っていた。
「?」
不信に思い、九鬼は美亜の視線の先を目で追った。
そこには、黒い乙女ケースがあった。
「!!」
九鬼は思い出した。
戦いの最中、九鬼は変身が解けてしまったのだ。
その時、九鬼の身から離れ転がった乙女ケースを…美亜が拾い上げ、持って逃げたのだ。
(あの時…彼女は、アルテミアに操られていた)
九鬼の声を無視し、乙女ケースを掴む時の美亜の顔を思い出していた。
虚ろな目は、明らかに正気ではなかった。
(彼女は…)
九鬼は、美亜の正体を知らない。
乙女をぎゅっと握り締め、
(操られていた)
美亜を見つめた。
(しかし…)
乙女ケースを見ての怯えかたが、尋常ではない。
(彼女は…)
ゆっくりと美亜に向かって、歩き出した。
(知っているのか?これが何かを?)
震える美亜の目の前で、優しく微笑んだ。
(そして…)
「阿藤さん…」
目だけは鋭く、美亜の瞳を探る。
(あたしが…乙女ブラックだと)
九鬼は、握り締めている指を外すと、乙女ケースを美亜に示した。
「これを知っているの?」
美亜は突然、目の前に現れた乙女ケースを見て、泣き出した。
「し〜知りません」
少し泣きながら見つめた後、 慌てて顔をそらすと、
「ただ…危ないものだとは知っています…」
涙を流しながらも、美亜は答えた。
「人も魔物も傷つける…恐ろしいものだと」
「あ、あなたは!」
九鬼は、声を荒げてしまった。
美亜の答えが、あまりにもおかしいからだ。
「ごめんなさあい!」
謝ってから、え〜んと大声を上げて泣き出す美亜に、九鬼は困ってしまった。
「ごめんなさい」
九鬼も謝ってしまった。
泣き続ける美亜に困り果てながらも、九鬼は最後の質問をした。
「この前…あたしから…」
「あたし…初めて見ました。だけど、涙が止まらないんです!あたしが、悪いんです!」
「ああ…」
九鬼は頭を抱えた。
どうやら、乙女ケースを奪った記憶はないらしい。
しかし、あたしに対して何か悪いことをしたという思いは残っているらしい。
九鬼は乙女ケースを、スカートのポケットに押し込むと、笑顔を美亜に向けた。
「ご、ごめんね。変なことをきいて〜」
泣き続ける美亜に、九鬼はたじろぎながらも、
「もうきかないから、泣き止んでね」
美亜をあやした。
どうも、九鬼にとって苦手な相手らしい。
「グスッ」
美亜は頷くと、何とか泣くのを止めた。
九鬼は胸を撫で下ろすと、美亜に改めて頭を下げた。
「さっきは、ありがとう。手当てしてくれて。ハンカチは洗って返すから」
自分の血がついた美亜のハンカチを受け取ろうとしたが、美亜はハンカチを握りしめて、首を横に振った。
「大丈夫です!九鬼様の傷口を拭っただけですから」
頑として渡さない美亜に、あまりしつこくするのもなんだと…九鬼は諦めた。
「本当にありがとう」
最後に頭を下げると、九鬼は美亜に背を向けて歩き出した。
そんな九鬼の後ろ姿を見送りながら、美亜は…九鬼の血がついた部分を舌で、少し舐めた。
「闇の味…」
そして、にやりと笑った。
「一体…何だと言うのよ」
加奈子の攻撃から何とか逃れた刹那は、次の獲物を求めて校舎内をさ迷っていた。
両腕がないまま、学校を出る訳にはいかなかった。
「まだ部活で、残っている人間がいるはず!」
腕がもがれたのに、血一つ流れない体で走り回る。
「こんなところで!こんなところで…死ぬ訳にはいかない!」
刹那の叫びに、廊下の窓ガラスに映る刹那がにやりと笑った。
「そもそも…生きているのかしらね」
嘲るように言ったその声も、刹那には聞こえない。
ただ人間を求めて、走り回る。
血走った目からも、赤の色が消えていく。
「誰か!誰か!いないの?」
刹那の悲痛な叫びに、廊下の影から1人の女生徒が姿を見せた。
「に、人間!」
刹那は嬉しさに目を輝かせ、もう装うこともなく、本性を剥き出しにした。
鋭い牙が生え、姿を見せた女生徒に襲いかかる。
「フン」
姿を見せた女生徒は、襲いかかる刹那に気付いても、微動だにせず、ただ鼻を鳴らした。
「愚かな…生き物…」
呟くようにそう言うと、女生徒は眼鏡を外した。
牛乳の底のような分厚いレンズをした眼鏡を外した瞬間、生徒の姿が変わる。
背が伸び、髪はブロンドに変わる。
「何!?」
その姿を見た鏡の中の刹那が、絶句した。
「ま、まさか…」
女生徒を指差し、鏡の中で足を止めた刹那と違い、廊下にいる刹那はただ、新しい腕を求めて襲いかかる。
「試してみるか」
女生徒は、刹那に向けて何かを突きだした。
それは、白い乙女ケース。
「モード・チェンジ!」
女生徒が叫ぶ。
「ジャック・ザ・ムーン!」
乙女ケースが開き、白い光が女生徒を包んだ。
「何!」
光が放たれると同時に、刹那の後ろに姿を見せた加奈子は、目を見開いた。
「純白の乙女ソルジャー…」
逃げた刹那に止めを刺す為に校舎に入った加奈子は、廊下に佇む…静かな威圧感を持つ白い乙女ソルジャーに、戦慄を覚えていた。
関わってはいけない。
本能がそう告げていたが、加奈子のプライドが逃げようとする足を止めた。
(あたしは…)
加奈子の脳裏に、強大な敵を目の前にしても、逃げずに立ち向かう…九鬼の姿がよみがえった。
(あいつに、負けたくない!)
加奈子は、歯を食い縛り、右手を突きだそうとした。
(あたしは…逃げない!)
乙女ケースを握り締め、突きだす数秒が…加奈子には、とても長い時間に思えた。
「フン」
鼻を鳴らすと、乙女ホワイトは襲いかかってくる刹那に、ゆっくりと右手を向けた。
「え!」
それだけで、刹那の動きが止まる。
「…人の身でありながら…同じ人から搾取する」
乙女ホワイトは、両腕のない刹那を見つめ、
「その身なれば、仕方がないのか?憐れと嘆くべきか…それとも」
乙女ホワイトは、刹那の向こうに現れた加奈子に気付いた。
「それこそが、人と言うべきか…」
加奈子が乙女ケースを持っていることに気付き、にやりと笑った。
「こんな雑魚を…殺すことは容易い。しかし!あいつが守ろうとした…人という種をできる限り殺したくはない。例え…純粋な人でなくとも」
乙女ホワイトは、人差し指を突きだした。
「お前の裁きは、同じ人から逸脱しているが…人に拘る者に預けよう」
人差し指を、窓に向けて曲げると、刹那の体は宙を舞い、窓ガラスを突き破って、月が照らすグラウンドに転がった。
「そこで、大人しくしていろ」
砂埃を上げながら、転がる刹那の体が突然止まると、全身に電気の網が絡まり、自由を奪った。
窓の下に、割れたガラスが散らばっていた。
その中で、一番大きな欠片に刹那が映っていた。
廊下から見下ろす乙女ホワイトと、ガラスの中の刹那の目が合った。
「ヒィ」
ガラスの中の刹那は、小さく悲鳴を上げて、震え出した。
「あ、あ、あるて…」
ガタガタと震え…いや、怯える刹那を無視して、乙女ホワイトは前を向くと、ゆっくりと歩き出した。
「装着!」
加奈子の突きだした乙女ケースが開き、紫の光が全身を包む。
「ほお〜」
乙女ホワイトは、紫の乙女スーツに包まれた加奈子を凝視した。
「死ね!」
変身と同時に、乙女ホワイトの周りに数千の包丁が現れた。
「乙女パープル!乱れ包丁!地獄舞!」
一斉に、乙女ホワイトに襲いかかる。
全体を隈無く、ムーンエナジーでコーティング包丁が突き刺さるはずだった。
しかし、乙女ホワイトの体に、切っ先が触れた瞬間…すべての包丁が砕け散った。