第205話 病んだ雨
「ここは…?」
激しい雨が、地上に降り注ぎ…分厚い雲が、月の明かりを遮っていた。
それなのに、人工的につくられた街灯の灯りが、雨に反射して、昼間よりも明るくしていた。
だけど、人の気配はない。
「どうした?闇の存在である自分が、光の中にいて、戸惑っているのか?」
耳許に自分の声が聞こえた刹那、鳩尾に激痛が走り…九鬼は、川のように水が流れるアスファルトの上に倒れた。
「お前は、ここにいろ」
全身に力が入らないが、目だけが動かせた。
自分のそばを通り過ぎ、歩いていく者。
「な!」
九鬼は絶句した。
後ろ姿でもわかった。
「乙女ブラック!?」
雨でできた光のカーテンの向こうから、学生服の男が姿を見せた。
「な、中島!」
いつのまにか…雨は激しさを増し、舞台から倒れた九鬼の声をかき消し、姿を隠した。
九鬼の叫びは、中島には聞こえなかった。
乙女ブラックを見て、目を見開く中島…。
「九鬼さん…」
「…」
乙女ブラックは無言で、拳を握り締め、中島に向かって構えた。
「な、何を!」
乙女ブラックの殺気を感じ取り、中島の体が変化しょうとした。
「中島!」
その時、別のカーテンから、理香子が飛び出して来た。
「真弓!やめて!」
「理香子さん…」
中島は、理香子の姿を見ると、変化するのをやめた。
理香子に、人間ではなくなる自分の姿を見せたくなかったのだ。
「来るな!」
中島が、理香子に顔を向けた瞬間、乙女ブラックの体が消えた。
「ぐわっ!」
一瞬で間を縮めた乙女ブラックの拳が、中島の体を貫いていた。
「り、理香子さん…」
乙女ブラックが胸から腕を抜くと、ゆっくりと中島は鮮血を撒き散らしながら、倒れていく。
「きゃああ!」
理香子の絶叫が、響く。
乙女ブラックは、理香子に向かって笑って見せた。
「く、九鬼!!」
理香子は走り出した。
「貴様!よくも!」
「理香子!」
九鬼はもがきながら叫んだが、理香子には聞こえない。
「装着!」
理香子は、プラチナの乙女ケースを突きだし、変身する。
「フン!」
乙女ブラックは、走り出した。
雨のカーテンを突き破り、舞台から消えた。
「待って!」
理香子も、後を追って消えた。
「一体…どうなっている!」
九鬼は口惜しさから、唇から血が流れる程噛み締めた。
それから、少し時間がたった。
いつのまにか、九鬼は気を失っていたようだ。
雨にうたれ…冷えきった体に、温かい光を感じて、九鬼は気が付いた。
いつのまにか、雨が止んでいた。
「理香子…中島…」
体は冷えきっていたが、鳩尾の痛みは消えていた。
何とか立ち上がると、九鬼は倒れているはずの中島の姿を探した。
「何?」
目の前に、三メートルを越える巨大な狼が、二本足で立っていた。
その腕の中には、中島が抱き抱えられていた。
「中島!」
胸に開いたはずの穴が、塞がっていた。
「そうか…。あなたの知り合いだったのね」
後ろからした声に、九鬼は驚きながら、振り返った。
「お久しぶりね。真弓」
優しげな笑みをたたえて、後ろに立っていたのは、赤星綾子だった。
「綾子さん!?」
九鬼は、静かだが…凄まじい気を綾子から感じていた。
しかし、逃げたり、間合いを開けて構えることもできなかった。
それは、前に立つ人物が…綾子だったからだ。
「クスッ」
綾子は笑うと、狼に抱かれている中島に目をやった。
「彼は…あたし達がつくる優しき者だけの世界に生きる資格を持った…優秀な人間なの」
綾子の言葉に、九鬼は中島に目をやった。
「優秀な人間…」
九鬼の呟きに、綾子は目を細めた。
「信じられないかしら?彼は…とても素敵な人間よ。少なくても、その辺にいるクズよりはね」
細められた目が…赤く輝いていることに、九鬼は気付いた。
「あなたは…」
九鬼は、その血よりも赤い瞳に、心が引き寄せられていくような感じがした。
「一体…何者なの?」
綾子に向かって、自然と足が前に出たのを、九鬼は唇を噛み締めてこらえた。
そんな九鬼の様子に、綾子は微笑んだ。
「あなたが、我々側にいたら、嬉しかったのだけど…あなたは、あたしとは違う存在」
「綾子さん…。それに」
九鬼は、綾子の前に出た狼の魔物を睨んだ。
中島を抱きながらも、圧倒的な力を感じさせる冷たい瞳で、九鬼を見下ろしていた。
「この化け物は!」
狼が綾子を庇うように前に出た為、赤き瞳の呪縛から、九鬼は解放された。
「装着!」
素早く乙女ケースを突きだすと、九鬼は乙女ブラックに変身した。
「これが…月の女神が与えた力か…」
狼の魔物は、変身した九鬼の姿を見つめた。
「フン!」
気合いを入れて、構える九鬼。
「面白い!」
狼の魔物はにやりと笑うと、中島を抱えたまま、前に出ようとした。
「おやめなさい。狼王」
その動きを、綾子が制した。
「今日は、その男を助けることと…もう1つ」
綾子は、狼王の前に出た。
「彼女に、お別れを言いに来たのだから」
綾子は、乙女ブラックとなった九鬼の姿を見て、
「これが、あなたの真の姿ね」
また微笑んだ。
「綾子さん。あなたは、何者なのですか!答えて!」
九鬼の叫びに呼応して、乙女ブラックの色が変わる。
黒から、銀に。
綾子の力を感じ、乙女シルバーに進化させたのだ。
「ほお〜」
綾子は、戦闘力が大幅に変わった九鬼に関心した。
「答えて!」
綾子に向かって、蹴りの体勢に入る九鬼を見て、狼王が綾子の前に出ようとした。
「よい」
綾子は腕を横に突きだし、その動きを止めた。
そして、九鬼を見つめると、綾子は微笑みを消した。
「今度は、あたしの番ね。本当の姿をお見せするわ」
綾子の瞳がさらに赤く輝くと、その姿が変わった。
「な!」
九鬼は目を見開いた。
「これが…今のあたし」
唇の端から二本の牙がのぞかれ、背中から巨大な蝙蝠の羽が飛び出し、全身に黒い気を纏っていた。
「悪魔…」
思わず…口から出た言葉に、九鬼は自分自身ではっとした。
「悪魔?」
九鬼の言葉に、綾子は首を捻り、
「どうかしらね。あたしには....もう1人のあなたの方が、悪魔に見えたけど」
「もう1人のあたし!?」
九鬼は思い出した。
中島を殺そうとした乙女ブラックを。
「真弓さん」
一瞬考え込んでしまった九鬼の隙をついて、綾子は目の前まで移動した。
「あたしは…今いる世界を変えようと思っている。今この世界を支配していると思い込んでいる人間は、愚かにも自らの分を弁えない力を得て、この星を汚しているわ」
「!」
九鬼は、瞳の呪縛で動けない。
「あたしには、それが許せない!」
九鬼の耳元でそう告げた後、綾子は九鬼から離れた。
「でも、その前に…あたしには、やらなければならないことがあるの」
綾子は、羽を広げた。
「この世界と、家族をすてた…あたしの兄と、兄をたぶらかした女を殺さなければならない!」
広げた羽は、中島を抱く狼王も包んだ。
「その決着がついた後、あなたのもとに来るわ!もう一度!」
「あ、やこ…さん」
「その時こそは…」
綾子の羽が巻き起こす突風が、九鬼を直撃した為、肝心の言葉が耳に入らなかった。
「綾子さん!」
突風に吹き飛ばされたことにより、九鬼は動けるようになった。
「最後に!あたしは、悪魔ではないわ!」
綾子の体が、中に舞った。
「人でもない!あたしは、この星を司る女神!テラ!」
雲がなくなり、夜空に浮かぶ月の明かりを遮りながら、綾子の姿は空高く…消えていった。
「なぜ....そんな事を思い出す」
九鬼は、誰もいない廊下の闇を睨んだ。
(後悔か....)
あの頃の自分は、世界の強大さを知らなかった。
(自分の闇さえ拭えないのに....何を後悔し、何を迷うか!)
九鬼は、自分の体に喝をいれるように、手刀で目の前の闇を切り裂いた。
(研ぎ澄ませ!己を刃と化せ!闇が纏わりつく暇を与えぬくらいに!)
九鬼は、闇を睨んだ。
(闇夜の刃と化せ!)
すると、九鬼の手が輝き....一瞬空間を切り裂いた。
(うん?)
その瞬間、九鬼の目に焼き付いたもの。
見えたのは、コンマ0.0001秒かもしれない。
だが、九鬼の目は、その映像を逃がさなかった。
くっきりと鮮明に、脳に残したのだ。
「生徒の死体...」
脳に残った映像は、片足のない生徒の死体が廊下に横たわっている様子だった。
「馬鹿な!」
目を、今目の前に見える映像に切り替えた。
明らかに、死体はない。
しかし、脳の映像が見せたのは...この廊下だ。
なぜなら、今は使われていない教室の扉のシミや、天井の汚れが一致したからだ。
「く!」
九鬼は、残る映像と見える映像を分析するのに、脳をフル回転させた為、少し目眩を覚え...ふらついた。
「ま、まさか...」
ふらつきながらも、九鬼はそこから導かれた答えに絶句した。
「空間が違う?」
信じられない訳ではない。
自分も異世界にいるのだ。
しかし、これは世界が違う程の規模ではない。
「亜空間か.....」
だとしても.....今の九鬼に、死体が転がる空間に移動する術はなかった。
「だが!」
九鬼は真っ直ぐに立ち直すと、拳を握り締め、
「行かねばならぬ!」
決意を固めた。