第173話 運命の螺旋
「うん?」
大月学園のある地区と他をわける道路を渡った瞬間、神流は首を捻った。
それは、常人には感じることのできない微かな感覚だった。
空気をわけて歩く人間が、普段空気を感じることがないように… その感覚は微妙だった。
風の方が何百倍も、敏感に感じられた。
それは、神流が魔獣因子に目覚めているからだと、彼女が知るはずがない。
「結界か?」
神流は眉を寄せると、もう一度今の感覚を確かめようと、振り返った。
「さすがは、元安定者ですね」
「!?」
神流は驚いた。
真後ろに、男が立っていたからだ。
タキシードを着た男は、深々とお辞儀をした。
「貴様は?」
まったく気配を感じさせずに、こんなにそばまで来るなんて、神流には信じられなかった。
しかし、顔を上げ、満面の笑顔を神流に向ける男を見ただけで、神流は理解した。
気配がない。
つまり、この男には実体がないのだ。
「フッ」
神流は口元を緩めると、ゆっくりと手のひらを顔の前まで近付けた。
「え?」
男は目を丸くした。
神流の爪が伸び、鋭い刃物のようになると、男の胸を貫いた。
「これは…これは…」
胸から背中まで貫通した瞬間、男は神流の真後ろに出現した。
「貴様は、何者だ?」
神流は爪を元に戻すと、振り向いた。
「私は、月の使者…」
神流は顔をしかめた。
「いえいえ…」
男はわざとらしく、首を横に振ると、
「闇の使者です」
今度は跪くと、また頭を深々と下げた。
「闇の使者?」
神流ははっとして、上空に浮かぶ月を見上げた。
男は頭を下げながら、見えないようににやりと笑った。
そして、ゆっくりと顔を上げると、神流に向かって微笑んだ。
「佐々木様に、折り入って、お話がございます」
「話だと?」
神流はじっと、男の後頭部を凝視した。
「はい」
男は、微笑みを崩さなかった。
「フゥ…」
自然とため息が出た。
十夜との戦い後、九鬼は生徒会室で1人、書類をチェックしていた。
華やかに見える生徒会活動も、実は地味なものが多い。
書記や会計はしばらく空席になっていた。
何があったのか…知らないが、すべての雑務は九鬼がしなければいけなかった。
庶務と副会長はいる。どちらかが、書類をまとめてくれたようだ。
特に、副会長は頼りになり、九鬼が留守の間、生徒会を切盛りしてくれていた。
別に、生徒会の仕事を苦に思うことはなかった。
学園の仕組みも、理解しやすい。
ただ…。
九鬼はテーブルの上に、乙女ケースを置いた。
すると、乙女ケースが小刻みに震え出した。
九鬼は立ち上がると、乙女ケースを掴み、生徒会室を飛び出した。
分厚い扉を開け、廊下に踊り出ると、九鬼は節約の為、非常灯以外明かりのない廊下の向こうに、目を凝らした。
非常灯の届かない闇から、足音と声が聞こえてきた。
「あたしは…生きる価値がない…あたしは、死んだ方がいい」
ふらふらと左右に首を振りながら、近付いてくる女生徒がいた。
「どうしたの?」
九鬼は、心配げに声をかけた。
しかし、体は右足を前に出し、少し腰を下ろし、構えていた。
闇の中から全身が見えるようになると、女生徒の手に答案用紙らしきものがあるのがわかった。
「あたし…勉強したのに…あたし…精一杯頑張ったのに…」
女生徒は、答案用紙を突きだした。
その瞬間、五メートルは離れていた女生徒の距離が、零メートルになった。
「!?」
九鬼の目の前に、赤点の答案用紙が示され、視界をふさいだ。
「…あたしの頑張りは…意味がないんですかあ!」
突然、答案用紙を突き破り、鋭く尖ったものが、九鬼の額を狙った。
九鬼は背中を曲げ、その攻撃を避けると、ブリッジの体勢で床に両手をつけ、回転した。
「あたしに、価値はないの?」
答案用紙を貫いたものは、女子生徒の舌だった。
「ねぇ…教えてよお!」
舌が答案用紙を切り裂くと、目が普段の三倍は膨張した女子生徒の顔が、九鬼を睨んでいた。
「魔獣因子…じゃない!この子は…」
女子生徒と距離を取った九鬼は、唇を噛み締めた。
「闇に、とりつかれている」
この世界の人間に、魔獣因子を持つ者はいない。
だが、時にして魔に操られたり、憑依される時がある。
人は、それを魔法によって、除去してきた。
「ねぇ…どうして、あたしの頑張りを、誰も評価しないの?」
「ク!」
九鬼は顔をしかめたまま、乙女ケースを突きだした。
「ねぇ…あたしに、価値はないの?」
女子生徒の悲痛な声を切り裂くように、九鬼は叫んだ。
「装…!?」
しかし、叫び終わる前に、九鬼は突きだした腕を下げた。
突然、前のめりに女子生徒が倒れたからだ。
九鬼ははっとして、女子生徒にかけ寄った。
跪き、慌てて抱き上げた時には、女子生徒は絶命していた。
「!」
唖然となった九鬼の手の中で、女子生徒はすぐに灰と化した。
「な!?」
言葉にならない九鬼は、ただの灰と化した女子生徒の体を握り締めた。
「な、何が起きているの?」
状況が理解できない。
確かに、女子生徒は闇と同化していたはずだ。
それなのに、彼女はすぐに死んだ。
「一体…」
九鬼が悩み、考えを巡らしている時に、どこからか.....ギターの音が、耳に飛び込んできた。
その音は、九鬼の思考を遮った。
人間の思考をすべて止め、おのが音だけに耳を傾けさせるような激しい情熱に、思わず九鬼の手の中から、女子生徒だった灰がこぼれ落ちた。
九鬼は立ち上がると、その音に導かれるように、歩き出した。
最初はゆっくりと.....進む度に速くなり、最後は全力で走っていた。
九鬼はまだ知らない。
月影同士は引き合う。
そして、出会った時、運命は…決まってしまうことに。
「闇が…濃い」
学園の屋上で1人佇む理香子は、地上を見下ろしながら、呟くように言った。
「闇が、濃い?」
後ろから、リオが近付いてくると、理香子の横で立ち止まった。
「そうかしら?あたしには、わからないけど」
リオも真下を見下ろしたが、いつもと違いはわからなかった。
ちらりと、横目で理香子を見たが、虚ろな目で下を見るだけで、口はつむんでいた。
こうなったら、何も話さないことを、リオは知っていた。
軽く肩を上げると、再び視線を下に戻した。
しばらく無言の時を過ごした後、リオは乙女ケースを取り出した。
何カラットあるのかわからない…ダイヤモンドの輝きをたたえた眼鏡ケースを、じっと見つめた。
そして、握り締めた。
「あなたが、あたしを月影に…それも、乙女ダイヤモンドに選んでくれたことは、感謝するわ」
リオの脳裏に....異世界から来た理香子が、乙女ケースを差しだす姿が浮かんだ。
傷だらけになりながら、理香子は悲痛な願いを告げた。
「あなたは…忘れているけど…あたしは、覚えている」
リオはぎゅっと乙女ケースを握り締め、
「九鬼真弓を殺してくれと、言った!あなたの言葉を!」
目を見開いた。
少し血走った眼が、闇を睨み付けた。
そんなリオの様子にも、理香子は表情を変えることがない。
ただ闇を見つめるだけだ。
その時、いきなり屋上の扉が開いた。
「リオ様…」
屋上に飛び込んできたのは、黒のマスクを被った男だった。
リオは振り返り、
「何事だ!」
男を睨んだ。
「ご、ご…報告が」
男は足がもつれたのか、すぐに転んだ。
うつ伏せに倒れた男を、訝しげに見ていたリオは、男がすぐに起き上がらないことに、イラッと来た。
「チッ」
軽く舌打ちすると、リオは男に向かって歩き出した。
「何の報告だ」
防衛軍の士官専用の制服を改造した白い服を着たリオは、腕を組みながら、男の前で止まった。
動きやすさを追求したミニスカートからの生足が、色気よりもしなやかさを強調していた。
リオは、男を見下ろした。
すぐに答えない男にさらにイラッと来たリオは、男の頭を踏みつけた。
「貴様!あたしをなめてるのか?」
力を込め、床に押し付けようとするリオは、妙な力を足元から感じた。
「!?」
リオは眉を寄せ、足に力を入れたが、男は簡単に顔を上げた。
そして、にやけた顔で、リオを見上げた。
「ご報告は…」
顔を上げた男の視線が、リオのスカートの中を見つめていた。
「貴様!」
体重を乗せ、再び床に押し付けようとしたが、リオは男の首の力だけで、足を弾かれた。
バランスを失ったリオは、尻餅をついた。
すると、男はリオにタックルをしてきた。
床に寝かすと、上から覆い被さった。
「へえへえ…」
男は犬のように、口で激しく呼吸すると、涎を流した。
「貴様!」
抵抗しょうとするリオの手にある乙女ケースを手を払うと、男は馬乗りになった。
「報告は…報告は…」
男は、明らかに興奮していた。
「ク、クソ!」
リオは、弾かれ床に転がる乙女ケースに手を伸ばしたが、凄まじい力で全身を押さえつけられ、動けない。
「はははあ〜」
荒くなる息。
目の前に近づく男の興奮した顔に、リオの中の女が恐怖した。
「いや…」
小さく呟くように、口から出た言葉に、男はさらに興奮しだした。
「お、お、お、俺は…あんたとやりたいで〜す!」
甲高い声で叫んだ後、男は口で、リオの胸辺りの生地を噛み破ろうとした。
「ぐぎゃ!」
蛙が潰れたような声がしたと思ったら、男は一瞬でリオから離れ、床に転がっていた。
「理香子!」
倒れたリオの横に、理香子が立っていた。
蹴りの体勢で突きだした足が、男を蹴り飛ばしたのだ。
「ぐぐぐう」
すぐに立ち上がった男の鼻はつぶれており、顔にめり込んでいた。
「闇は…」
理香子は足をゆっくりと下ろすと、鼻がつぶれた男を睨んだ。
「許さない!」
「へえへえ…あんたでもいいや」
男の顔から、つぶれた鼻が押し戻されると、そのまま床に落ちた。
そして、新たなる鼻…というか、角が突き出た。
「理香子!」
リオは、上半身を起き上がられた。
「…」
無言の理香子の前で、男の姿が変わる。
下半身の筋肉だけが盛り上がり、突進に秀でた体型になった。
「お前を突きたい!」
鋭利な刃物のようになった新しい鼻を向けて、男は理香子に襲いかかる。
理香子は視線を外さずに、ただ仁王立ちになる。
「突きたい!突きたい!」
一瞬で間合いに入った男の鼻が、理香子のお腹の下辺りに、突き刺さった。
リオはそう思った。
「理香子!」
リオの絶叫は、次の瞬間.....驚愕に取って変わられた。
「!?」
男の鼻は....理香子には、突き刺さっていなかった。
「え」
リオは、乙女ケースを手にすることも忘れ、ただ茫然としてしまった。
理香子と男の間に、プラチナの乙女ケースが割って入り、男の鼻を受け止めていたのだ。
どんなに力を込めても、びくともしない宙に浮かぶ乙女ケースに、男は苛立った。
歯を食い縛り、足に力を込めた。
コンリートの床が削れるが、男は前に進むことはできない。
「…」
理香子は冷ややかな目で、その様子を見下ろすと、
「フン」
突然鼻を鳴らし、男の胸元を蹴り上げた。
「何い!」
明らかに、通常より質量が増しているはずの男の巨体か、宙に舞う。
理香子は一瞬で男の後ろに移動すると回転し、空中に舞っている男の首筋に蹴りを入れた。
まるで、サッカーボールのように空中で弾かれた男は、そのまま屋上のフェンスを突き破り、下へと落ちていく。
「理香子?」
リオは、理香子の信じられない戦闘能力に戦慄した。
次の瞬間、リオの目の前で、理香子はフェンスを飛び越えると、そのまま地面に向けて飛び降りた。
「な」
唖然とするリオが立ち上がるより早く、 フェンスの向こうが輝いた。
その眩しさに、リオは一瞬視界を奪われた。
「キイイイ!」
地面に激突した男はよろけながらも、すぐに立ち上がった。
「小娘がああ!」
男は、屋上を見上げた。
「絶対!犯してやる」
壁をよじ登ろうと、視線を屋上から前に向けた男は、思わずたじろいだ。
「な!」
なぜなら、目の前に理香子が立っていたからだ。
「き、貴様!」
平然と立つ理香子に、恐怖を覚えた男は、後退った。
「闇は許さない!」
理香子の前に、乙女ケースが浮遊していた。
「装着」
乙女ケースが開き、眼鏡が飛び出す時、変身の為に溢れた光が、男を照らした。
「な」
光を浴びた瞬間、男は消えた。
消滅したのだ。
細胞一つ残さずに。
「うわあああ!」
乙女プラチナに変身した理香子は、男が消滅した空間に、拳を突きだした体勢で固まっていた。
もう何もないが、空気が切れる音がした。
「許さない」
眼鏡をかけた理香子の瞳から、涙が流れた。
「理香子…」
理香子の涙の裏に、1人の男が浮かぶ。
悲しげな目を向ける…1人の男。
「ごめん…」
ゆっくりと倒れる男。
(ああ…)
理香子は嗚咽した。
地面に横たわった男の後ろに、血塗れの拳を握り締めた…乙女ブラックがいた。
(真弓!)
理香子は、絶叫した。
(どうして!中島を!)
乙女ブラックはこたえない。
ただ血塗れの拳を突きだした。
(真弓!)
理香子も拳を握り締め、
(許さない!)
乙女ブラックに向かって、ダッシュした。
(うわあああ!)
理香子の拳と、血塗れの拳が交差した。
そして、その瞬間、すべてが爆発した。
「理香子…」
ダイヤモンドの乙女ケースを握り締めながら、リオは校舎の出入口から、飛び出してきた。
そして、変身を解き、ただ立ち尽くすだけの理香子の背中を見て、足を止めた。
理香子は、ゆっくりと顔を上げた。
上空に輝く月を見る為に。
そのなめらかな動きに、リオははっとした。
「もしかして…記憶が、戻ったの?」
リオの声に、理香子はゆっくりと顔を後ろに向けた。
真っ赤になった…悲しみで溢れた瞳が、リオを射ぬいた。
「!?」
リオは反射的に後退ると、乙女ケースを突きだした。
なぜ、そうしたのか…わからない。
しかし、恐怖が全身を包んだのは、事実だった。
その行動を見て、理香子は目を細め、
「乙女ガーディアンが、妾に牙を向けるか?」
じっとリオではなく、乙女ケースを見つめた。
すると、乙女ケースが震えだした。
「え?」
乙女ケースの振動は、リオの腕を上下に波たたせた。
余りの激しさに、リオの脳は危険と判断し、本人の意思とは無関係に、手を離させた。
乙女ケースはそのまま…理香子に向かって、飛んでいった。
「装着」
決して、自分から手を差し出すことをしないのに、乙女ケースは勝手に開き、眼鏡を放出した。
「そ、そんな…」
愕然とするリオの前に、乙女ダイヤモンドとなった理香子が立っていた。
理香子は体をリオに向けると、ゆっくりと歩き出した。
妙な威圧感を発しながら、近付いてくる乙女ダイヤモンドに、リオは足がすくんで動けなくなった。
「り、理香子…」
乙女ダイヤモンドは、拳を振り上げた。
月光に照らされた拳が淡く 、輝いた。
「理香子!?」
突き上げていた腕が、消えた。
違う。
あまりの速さに、目でとらえられなかったのだ。
リオの見開いた目の前に、理香子の拳があった。
後…数センチで、拳は.....リオの頭蓋骨を砕いているところだった。
目を開いたまま…動かないリオに、理香子はフッと笑った。
「少しは…資格があるか」
そう呟くように言うと、理香子は突きだした拳から、中指だけを立てた。
リオの眉の間に指をつけると、理香子は口元を緩めながら、リオに告げた。
「汝に、ガーディアンの資格を与える」
理香子の変身が解け、乙女ダイヤモンドのケースが、空中に浮遊した。
「月の為に、戦え」
それだけ言うと、理香子は指をリオから離した。
その瞬間、ダイヤモンドの乙女ケースは下に落ち、理香子の瞼も落ちた。
カクンと頭を落とすと、理香子の動きが止まった。
あれほどあった威圧感もなくなり、呪縛から解けたように、リオの緊張もなくなった。
体の自由を得た瞬間、リオは片足を地面につけた。
「一体…何が」
リオは背中で激しく息をしながら、地面に落ちている乙女ケースを見つめた。
「理香子!」
リオは顔を上げ、そばに立つ理香子を見上げた。
理香子は、目を開いた。
リオは乙女ケースに手を伸ばしながら、理香子の様子に注意した。
「……」
理香子は再び無言になり、虚ろな目で見下ろしていた。
リオと目が合ってるはずだが、その瞳にリオは映っていない。
「中島…」
声にならない程の微かな声で、理香子は呟いた。
その時だけ…理香子の瞳は潤んだ。
涙をこえた…悲しみの影をたたえて。
(中島…)
リオは、理香子の瞳に目を奪われながらま、心の中で呟いた。
なぜなら…口に出してはいけないと、本能が告げていた。
そして、心の奥で、さらなる疑問が沸きだしていたが、まだリオ自身は自覚できなかった。
その疑問とは…月影とは何のか。
この力は、人類の為になるのか。
しかし、沸き出た疑問よりも、理香子の深い悲しみがリオをとらえていた。
それは、リオが女だからかもしれないが…。