第172話 宿命
「うん?」
九鬼は廊下を曲がるとすぐに、鼻腔を微かに刺激する臭いに、足を止めた。
「これは…」
九鬼は表情を引き締めると、もと来た道を戻った。
窓に沿ってのびる廊下に飛び出すと、九鬼は美亜が去った方に、振り返った。
もう美亜はいなかった。
それに、臭いはその方向からはしない。
九鬼は、逆の方向を走った。
右側にある窓から、月の明かりが、九鬼の半身を照らしていた。
ここの廊下は長く…隣の校舎にまで続いていた。
少し段差がある校舎間の廊下をジャンプして駆け抜け、隣の校舎に飛び込んだ九鬼の前に、血溜まりの中で倒れている響子がいた。
そして、その前に立つリオの背中を確認した。
「貴様!」
九鬼は着地と同時に、もう一度ジャンプすると、空中で身をよじった。
「勘違いするな」
振り向くと同時に、乙女ダイヤモンドに変身したリオは、片腕で九鬼の回し蹴りを受け止めた。
そして、腕の力だけで、九鬼を跳ね返した。
「クッ」
空中で回転して、床に着地すると同時に、乙女ケースを突きだした九鬼を、リオはもう見てはいなかった。
ただ…もう生き絶えている響子に視線を落とし、
「この人は…元防衛軍の幹部にして、ブルーの乙女ケースを持っていた」
静かに、話し出した。
九鬼は、いつもと違うリオの口調と…乙女ケースの件で、変身を止めた。
リオは、そんな九鬼を見ようともせず、
「本当ならば…この人から、乙女ケースを奪いたかったが…彼女は特殊能力を持っていた。人の心を読むという」
ただ拳を握り締め、
「その為…容易に近づくこともできなかった。それなのに!」
悲痛な声を漏らした。
響子の致命傷となった傷を見て、
「それなのに!彼女を殺した相手は、背中から一撃で決めている」
愕然としていた。
九鬼は、響子のことを詳しくは知らなかったが、何度か遠くから見かけた時の物腰に隙はなかった。
その響子が一撃で殺られた事実に、少し悪寒が走った。
「つまり…」
リオは振り向き、九鬼の目を一瞬だけ見つめると、
「月影の力を狙う者がいる」
歯を噛み締めた。
それから、ゆっくりと歩き出した。
九鬼は、そんなリオを目だけで見送った。
九鬼の横を通り過ぎると、リオは一度足を止めた。
「それも、恐るべき力を持った…」
薄暗くなった廊下の先を睨み付けると、リオはまた歩きだした。
九鬼は振り返ると、その背中が廊下の闇に消えてしまうまで、見送った。
「!?」
突然、九鬼は人の気配に気付き、前を向いた。
いつのまにか、黒のマスクを被った男達が、響子の遺体をタンカーに乗せていた。
九鬼は、男達の動きよりも、遺体を挟んで向こうに立つ…白衣の男に目を見開いた。
ボサボサの頭に、その鋭い眼光は九鬼を見据えていたが、口許は笑っていた。
「兜博士…」
九鬼は絶句した。
兜は軽く頭を下げると、九鬼に背中を向け、歩き出した。
「待て!」
九鬼ははっとすると、慌てて走りだそうとした。
「兜博士!」
響子を載せたタンカーを避け、血溜まりを飛び越えようとした瞬間、廊下の窓ガラスをぶち割り、タンカーを越えて、九鬼の真横から襲いかかる者がいた。
「九鬼真弓!」
九鬼はとっさに、ジャンプを止め、身を屈めた。
九鬼の首があった空間を、鋭い二本の刃物が交差した。
「チッ」
襲いかかってきた者は、舌打ちした。
「装着!」
九鬼は身を屈めると同時に変身、さらに背中を後ろに反らした。
乙女ブラックになった九鬼の蹴りが、突き上げるように、襲いかかってきた者の腹を蹴った。
「クッ!」
襲いかかってきた者は顔をしかめ、普段は使っていない教室の窓ガラスに激突し、そのまま窓を突き破った。
九鬼はブリッジの体勢で手を床につけると、そのまま反転し立ち上がった。
「!」
血溜まりの向こうを見たが、もう兜はいなかった。
「兜博士…」
九鬼は顔をしかめた。
「余所見してる余裕がああ!」
廊下側の窓や柱が切り裂かれ、鋭い刃が九鬼を狙う。
「な!」
九鬼の体に刺さったと思ったが、手応えがなかった。九鬼の体が消えたのだ。
残像さえ残る程の速さで移動した九鬼は、いつのまにか教室の中にいた。
「舐めるな!」
廊下に突きだした方とは逆の腕の刃を、横凪に払った。
九鬼が足で蹴り上げたボロボロの木製の机が、真っ二つに切り裂かれた。
「ちょこまかと!」
その場には、九鬼の姿はなかった。
回転し、九鬼を探そうとした時、その者は足を払われた。
一瞬で、相手の懐に入ると、九鬼は視界の下…板張りの床に手をつける程に身を屈めると、相手の足を払ったのだ。
体勢を崩した相手は、二本の刃を床に突き刺し、倒れるのを防いだ。
九鬼は後ろにジャンプすると、距離を取った。
木製の机が並ぶ教室の作りを一瞬で把握すると、九鬼は一度...呼吸を調えた。
「おのれ!」
突き刺した両腕の刃を抜くと、勢い余って教室の扉に激突した。
九鬼は、その者の姿に目を細めた。
両腕の肘から下は、日本刀の刃が直接つけられており、
その為、転けると立ち上がるのは、困難を要する。
「十夜さん…」
変わり果てた十夜小百合の姿に、九鬼は思わず哀れみの目を向けてしまった。
「クソがあ!」
しかし、それが十夜のプライドを傷付ける結果になった。
十夜は扉にもたれながら、体勢を整えると、九鬼に向かって走り出した。
「貴様に、負けたせいでえ!」
机が並んでいる為、十夜は真っ直ぐに九鬼に向かって来れない。
「ごめん!」
九鬼は並ぶ机を、十夜に向かって次々に蹴った。
机同士がぶつかりながら、十夜に向かっていく。
「九鬼!」
腰元に、机が激突した十夜はさらに動きが鈍る。
そんな状況の十夜に向かって、九鬼は余った椅子を顔に向かって、五脚程投げた。
「舐めるな!」
五脚の椅子が、十夜の視界をふさいだ。
しかし、十夜は二本の刃を振るい、すべて一瞬で斬り裂いた。
視界が開いた十夜は、九鬼を睨んだ。
「!?」
が、九鬼の姿がなかった。
その代わり…十夜の腰元まで繋がった机の上を、疾走する影を一瞬、目がとらえた。
十夜が反応し、その影を斬るより速く.....その影は、十夜の鳩尾に激突した。
影は九鬼だった。
九鬼の蹴りが、十夜をふき飛ばしたのだ。
「な!」
驚いた十夜がまたふらつくと、九鬼は上半身を起こし、彼女の懐に飛び込んだ。
十夜のすぐ前の机の上で中腰になると、両肘を突きだした。
そして、十夜の刃の付け根を押し戻すと、斬られることを防いだ。
関節を押さえられた為に、十夜の刃を振るうことができない。
「まだだ!」
十夜は顔をしかめながらも、何とか痛み堪え、腕を動かし、押さえられているポイントをずらそうとした。
「ハッ!」
気合いとともに、九鬼は飛び膝蹴りを、十夜の顎に 叩き込んだ。
さらに身を入れると、タックルのように肩をぶつけた。
ふっ飛んで、後ろにふらついた十夜は、両手を広げる形になってしまった。
九鬼は、板を張った床に着地すると同時に、正拳突きを繰り出すように、まっすぐに足を突きだした。
丸太をぶつけられたような衝撃を受け、空中を飛んでいくように十夜の体が浮かび…そのまま扉にぶつかった。
そして、扉を突き破ると、十夜は背中から響子の血溜まりの上に、倒れた。
「ば、馬鹿な…」
十夜はまったく自分を寄せ付けない九鬼の強さに、驚愕した。
背中と腹や鳩尾の痛みだけではなく...両手の刃の為、十夜はすぐに立ち上がることはできなかった。
何とか顔を上げ、九鬼を探すと、また目の前にはいなかった。
「どこだ!」
叫んだ十夜の耳に、廊下のコンクリートの床を歩く音が聞こえた。
十夜は目を見開き、音がする方を見ると、変身を解いた九鬼が去っていく姿が映った。
「貴様!」
十夜は肘を使い、何とか上半身だけ起こしたが、ダメージが大きくて、それ以上は無理だった。
だが、全身を怒りと屈辱で震わせながら、去っていく九鬼の背中に叫んだ。
「なぜ!トドメをささない!」
十夜の声にも、九鬼は足を止めることはない。
十夜は、唇を噛み締めた。
血が顎を伝った。
「おれを、生かしたことを後悔させてやる!」
もう見えなくなった九鬼に向かって、十夜はいつまでも睨み続けた。
「フン」
十夜から少し離れた廊下の曲がり角に、兜はいた。
壁にもたれながら、九鬼と十夜の戦いを、音と声だけを頼り、聞いていた。
大体の様子がわかったし....十夜が敗北することは、予定通りだった。
「…相変わらずの甘さ…。変わっていないな」
子供の頃の九鬼は、非情過ぎる程非情だった。
しかし、人の社会を知る度に、九鬼は優しくなった。
いや、優しさではない。
無用な殺生はしなくなったのだ。
「だが…」
兜はにやりと笑った。
「それは、人が頂点にいる…あの世界だから、通用する理。この世界では、命取りになる」
兜はちらりと、廊下を挟んで右側の窓を見た。
月明かりが、校舎を照らしていた。
「…」
しばし見つめた後、兜は無表情になり、壁から離れた。
そして、廊下に姿をさらすと、血溜まりに染まった十夜のそばに近付いた。
足音で気付いた十夜が振り向くと、兜は冷たい視線を投げかけた。
「無様だな」
「な」
突然の兜の言葉に、十夜は唖然とした。
兜は、十夜の全身を目でチェックすると、背を向けた。
「立て」
それだけ言うと、歩き出した。
「き、貴様!」
両腕の刃を、コンクリートに突き刺し、何とか立ち上がろうとする十夜を見ずに、兜は告げた。
「さすれば…強くしてやる」
その言葉に、十夜は残りの力を振り絞った。