第171話 赤の足跡
女は自らの指を傷付けると、すぐに真っ赤に溢れ出す血を、腕の中でぐずる赤ん坊の口に近付けた。
指先をくわえ、まるでおしゃぶりのように血を啜る赤ん坊を、女はただ愛しそうに見つめた。
しばし、指先から流れり血を吸った後、赤ん坊は、ゲップとともに吸うことをやめた。
女はゆっくりと、指を赤ん坊の口から抜いた。
先程まで泣いていた顔が、すぐに笑顔になった。
女は、赤ん坊の頭を撫でてあげた。
まだ産毛のような頭髪も、いとおしい。
「あなたが…ヴァンパイアでよかった。そして、あたしと同じ属性で…」
女の乳房からは、母乳はでなかった。
そして、ミルクの作り方も…調達の仕方も知らなかった。
なぜなら、女は人間ではなかったからだ。
女の名は、フレア。
かつて、炎の騎士団の親衛隊に属し、死ぬ間際は赤の盗賊団といわれる仲間達とともにいた。
フレアは赤の王を守る為に、死んだはずだった。
自分の体を種火にして、赤の王の命に火を灯して。
しかし、彼女はここにいた。
あの日…魔王ライと赤の王と戦いの後、彼女は再び存在していた。
恐らく、赤の王がアルテミアの命を繋ぐ為に、ほとんどの力を与えた時....彼の中で、炎の一部になっていた自分が、不純物として弾き出されたのであろう。
そして、気づいた時には、そばに泣き叫ぶ…赤ん坊の姿を見つけた。
その時、近くにアルテミアはいなかった。
この子が、アルテミアの子であると確証はなかった。
しかし、赤ん坊から感じる魔力の底知れなさと、温かい温もりが、フレアに告げた。
この赤ん坊こそが、赤の王の後継者であると。
赤の王こと――赤星浩一の後継者であると。
フレアは、赤ん坊を抱き締めた。
「コウヤ様…」
フレアは赤ん坊の育て方など、知らない。
しかし、この子が大きくなるまで、守ることを誓っていた。
行き先はない。
ただ人目につかないところを選んでいた。
いや、行き先に意味はない。
ただ…未来に向かうだけだった。
「くそ!」
同時刻…。
日本地区の大月学園の廊下を、悟響子は歩いていた。
その手には、青の乙女ケースを持って。
「この力は、危険だ。しかし…誰にでも、渡していいものではない」
ジャスティンに預けたかったが、彼は持つこともできなかった。
彼の弟子であるカレンに渡してもよかったが、なぜか気が乗らなかった。
「どうすれば…」
だからといって、結城達に渡す気にもなれなかった。
彼らの心の中を読んだが、ただ…どす黒い闇が見えるだけだった。
(やつらの中に、闇がいた)
闇とは…。
響子がいた世界には、もう魔物はいなかった。
しかし、彼らの亜流である妖怪の1人であった響子は、闇と魔の違いに気づいていた。
魔は、彼女らのような実体を持つ者。
闇は人の心から生まれる…憎しみ、憎悪や怨み、嫉妬などから生まれる存在である。
彼らは、人の思念体から発生したが故に、体を持たない。
だからこそ、肉体を欲している。
しかし、闇を生み出す人間は多いが、それを実体化できるものは少ない。
響子はふと、足を止めた。
窓ガラスにうっすらと映っている自分の顔をじっと見つめた。
(これで…何人目だ)
この世界に帰化した時、響子は妖怪の体を捨てた。
その代わり人間と交わり、子供をつくり、歳を取ると...自らの孫に憑依した。
赤ん坊の自我が、目覚める前に。
しかし、そのことを、響子は自分の親族には教えなかった。
女の子が産まれたら、祖母が死ぬと、身内に言われたくらいだ。
響子は、自分の顔を見つめた。
勿論、今の親も、響子が憑依していることを知らない。
知っているのは、防衛軍の幹部だけだった。
「私こそ…闇かもしれない」
体を持たない闇。
だからこそ、響子は今回の肉体で、最後にするつもりだった。
もう…結婚はしない。
そう何度も、愛した男を見送るべきではない。
「うん?」
そんなことを考えていた時、廊下の奥から、響子に近づいて来る者がいた。
「闇?」
廊下に突然できた闇の空間。
立ち止まり、思わず闇を凝視した響子は、その闇を一瞬で消し去る程の光に目をやられた。
視界が真っ白になり、目を瞑った響子の耳元に、女の声がした。
「お前が持っているのは…乙女ケースか?」
「誰だ!貴様は!」
響子は声がした方に、肘を突きだした。
しかし、空振りだった。
「チッ」
舌打ちした響子は気を探って、声の主を探した。
その瞬間、響子は震え上がった。
目のダメージに気を取られて、響子は肝心なことに気付かなかった。
相手の恐ろしさに。
「魔王…」
響子は後退った。
かつて、一度だけ…響子は、魔王ライに会っていた。
その時の圧倒的な魔力に魅せられ、響子はこの世界に来たと言ってもよかった。
妖怪であった自分が、あの世界では生きていく意味がなかったからだ。
知り合いであった狼王のように、人に紛れて生きていく気はなかった。
響子は足が震え、後退ることすら困難になってきた。
震えは激しくなっていったが、視界は戻ってきた。
目が…目の前に立つ女の姿を映していく。
白い戦闘服に、白い眼鏡…
そして...。
「ブロンドの…」
目を見開いた響子は、最後まで言葉を発することができなかった。
背中から、手刀が…響子の胸を貫いていた。
いつのまにか、後ろに回った女の動きを、響子はまったくとらえることができなかった。
「馬鹿な…」
響子の頭に、女の思考が飛び込んでくる。
それは、響子が読んだのではなく、女が勝手に送り込んできたのだ。
「どうして…うぐぅ」
響子は口から、血を吐き出した。
女は背中から、右手を抜いた。
左手には青の乙女ケースを握り締めていた。
響子は膝から、崩れ落ちていく。
その様子を目だけで、女は追った。
響子は、前のめりに倒れた。
廊下のコンクリートの床に、血が流れた。
「ぐはっ!」
血で咳き込みながら、響子は顔だけを、女の足元に向けた。
「どうしてだ…。魔王に匹敵する力を持ちながら、どうして…月影の力を、欲する」
響子の言葉に、女はフッと笑った。
「どうして…」
女の足首に向けて、響子は手を伸ばすが、届かない。
その様子を見下ろしていた女は、静かに答えた。
「魔王に匹敵するでは、駄目なんだよ。魔王を超えないとな」
そう言うと、女は…響子の腕を跨いだ。
「知っているか?その世界で、一番の罪は…」
女は唇を噛み締め、
「無力だ」
言葉を噛み締めた。
意識がなくっていく響子の耳に、女の悲痛な思いが響いた。
「力がなければ…大切なものを守れない」
女は、乙女ケースを握り締め、
「もっと力を得る為に、こいつは頂く。お前に、恨みはないが…月影の資格を得た己を恨め!」
「…」
響子は、もと来た闇の方に去っていく女の足を、ただじっと見送った。
悟りと言われた自分が、死を迎える。
それなのに、何の感慨もない。
ただ悔いがないことだけが、救いだった。
廊下を歩いていく女の手にあった乙女ケースは、消滅した。
と同時に、闇が消えた。
その代わりに、薄暗い廊下に、窓から月明かりが射し込んできた。
その光を受けた瞬間、女の髪はブロンドから黒髪に変わり、白い眼鏡のレンズは、まるで牛乳瓶の底のように分厚くなった。
「ほよ!」
女は、素っ頓狂な声を上げると、周りを見回した。
「ここは…」
学校の中であることを確認すると、女ははっとした。
「もう帰らないと!」
慌てて走ろうとしたが、足がもつれて、転んでしまった。
「痛たた…」
頭から、倒れ…床に額から激突した女の前に、誰がか跪き、手を差しのべてきた。
「大丈夫?」
差しのべられた手を掴みながら、立ち上がった女は、
「ありがとうございます」
よろけながらも、何とか姿勢を正すと、頭を下げた。
そして、顔を上げた瞬間、目を丸くして、今度は後ろに飛んだ。
「九鬼様!」
着地の瞬間、また足がもつれ、今度は肩から廊下の壁に激突した。
「大丈夫?」
九鬼は思わず、苦笑した。
会うのは二度目だが、いつもよろけている印象を持ってしまった。
「阿藤さん…でしたっけ?」
「は、はい!」
女は壁にもたれながら、斜めに直立不動になった。
「阿藤美亜です」
九鬼は、そんな美亜が可笑しくて、たまらなかった。
笑いを堪えながら、笑顔をつくり、
「気をつけて下さいね」
美亜に頭を下げると、横をすり抜けて行った。
美亜は、九鬼が通り過ぎるまで、顔を真っ赤にして、直立不動の格好のまま…動けずにいた。
「ご機嫌よう」
九鬼が…自分から、結構離れるのを、心臓の鼓動で距離を計っていた美亜は、大きく息を吸った。
そして、回れ右をすると、九鬼の背中に叫んだ。
「こ、今度…生徒会室に遊びに行ってもいいですか!何かお手伝いをしたいですう!」
美亜の叫びに、九鬼は振り返り、
「大歓迎よ」
微笑んだ。
「は、はい!」
美亜は満面の笑みを浮かべると、思い切り頭を下げた。
そして、その勢いでバランスを崩し、こけた。
「気をつけてね」
九鬼は苦笑し、一応すぐに美亜が起き上がったのを確認してから、また歩き出した。
「九鬼様…」
手を組み、祈るように九鬼の背中を見送った美亜は、九鬼が廊下を曲がると、くるっと反転した。
そして、ゆっくりと歩き出した。
外から射し込む月明かりが、一瞬…レンズを照らし、分厚くて瞳が見えないレンズが透けた。
鋭い眼光が、前を睨んでいた。
「乙女…ブラック」
そして、にやりと笑った。