第161話 闇を纏う者
見えても、見えなければ…意味はないのだろうか。
瞼を閉じると、夢が見える。
しかし、目を開けていても…見ることのできない闇は、何も見えない。
いや、闇が見えているのか。
幼き少女は、闇しか見えない箱の中で生きていた。
光が照らされるのは、ほんの数分だけだ。
1日の内…23時間以上闇で過ごす少女は、光が箱の中に灯ると、それが合図であることを知っていた。
戦いだ。
それも、人間との。
野生動物の場合…明かりが点くことはない。
人間との時だけだ。
少女は、知った。
人間とは…なんと弱い生き物なのだろう…かと。
光がなければ、動けないなんて…。
「おい、おい」
明かりが点いた20畳くらいの部屋に入った男は、肩をすくめて見せた。
「俺の相手って…このガキではないよな?」
2メートル以上ある屈強な体躯を、小刻みに左右に振りながら会われた男は、自分の半分ちょっとの身長しかない少女を見下ろした。
黒のワンピースに、ぼさほざに伸びた髪が、少女の表情を消していた。
「その通りだ!」
部屋の角につけられたスピーカーから声が響いた。
「おい、おい。ガキだぜ」
男は手に持っていた刀を、床に突き刺すと、呆れかえった。
「こんなガキとやりあう趣味は、ないんだが…」
「ガキか…」
スピーカーの声は、少し笑っていた。
「おいしい仕事だが…俺にも、プライドがある」
男は、前に立ち竦む少女に背を向けた。
「ククク…。君程の男が、この部屋に入って、何も気づかないとはな」
「なに?」
スピーカーの声に、男は部屋を見回した。
明かりがついても薄暗い部屋の壁の色に、男は気付いた。
「赤か…」
最初…男は赤い壁紙だと思った。
しかし、色にムラがあることと、絵の具をそのまま...ぶちまけたような塊があることに気付いた。
「ま、まさか!?」
換気がよいのか…匂いがしなかったから、男は気付かなかった。
「血!?」
男は絶句した。
四方の壁についた血の量を考えると…一体どれほどの生き物を殺めたのか?
思わず、唾を飲み込んだ男に、スピーカーの声は告げた。
「約束しょう。この子を殺せたら、一億。生きて戻れても、それなりの報酬を与えよう」
男はゆっくりと振り返り、部屋の真ん中に立つ少女を見た。
「さあ…時間だよ。目の前の男を殺しなさい。なあ〜にい。心配はいらないよ。この男は、多くの人間を殺しているからね」
スピーカーからの言葉に、少女はゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から、覗かれた瞳を男が見た時、彼は震えながら、床に刺していた刀を慌てて抜いた。
「さあ…殺りなさい!闇を殺すのだ」
「うわああ!」
今まで何人もの人間を殺してきた男が、叫んだ。
「約束通り、この子に武器はない。安心するがいい」
確かに、少女は武器を持っていなかった。
ワンピースだけの体に、武器を隠しているようにも見えない。
しかし、男は恐怖した。
武器を持っているのにだ。
まるで、野生動物がいる檻に閉じ込められたような感覚がした。
刀だけでは、勝てないような気がした。
そんな男の心を見透かしたように、スピーカーから声がした。
「よければ…今からマシンガンでも、ご用意するがね?」
その言葉に、男を正気に戻った。
「舐めるな!」
男は自ら突進すると、動かない少女の頭上に向けて、刀を振り下ろした。
研ぎ澄まされた刀身に、血が飛び散った。
「す、素晴らしい!」
スピーカーが、歓喜の声を上げた。
少女の腕が、床に転がり…とめどもなく血が吹き出ていた。
少女は、口でワンピースの裾を引きちぎると、自らの腕に巻き付け、止血した。
部屋のドアが開き、看護斑が飛び込んできて、床に転がる少女の左腕を素早く氷の入ったクーラーボックスに入れた。
勝負は一瞬だった。
左腕で刀を受けると、少女は男の首を手刀で突き刺し、切り裂いていた。
「野生動物は例え、腕をなくそうが、怯むことはない。いいんだ!いいんだ!それで、腕などすぐにくっ付けてやる。だが、腕を棄てる覚悟は、なかなかできやしないよ」
スピーカーの声は、興奮していた。
「いい子だ。真弓は…」
「お爺様…」
少女は、床に溜まった自ら流した血を見つめ、呟くように言った。
「あたしの血も…みんなと同じで…綺麗だね」
九鬼真弓。
七歳の時…。
彼女は、闇の中にいた。
「よい出来だ」
モニタールームで満足げに頷く老人を、部屋の角で灰色の壁に持たれてながら、見つめる男。
「…と、思わないかい?兜君」
老人は、兜の冷たい視線に気付いていた。
兜は、老人の目を避けるように少し俯くと、肩をすくめて見せた。
「研究者としては、興味深いですが…人道的には、どうですかね」
兜は顔を上げると、モニターに映る少女を見た。
部屋を出ることなく、少女はその場で、腕の接合手術を施されていた。
老人はちらっとモニターを見ると、鼻を鳴らした。
「最初は、野生動物を相手させていたのだが…」
老人は、モニターの下に置いてあるディスクに近づくと、鎮静剤だと思われるる薬の瓶を開け、錠剤を噛み砕いた。
「規制が厳しくてな。今は、人間の方が調達しやすい。なぜなら、人間は金で釣れるからな」
「先生…」
兜は、老人の横顔を見つめた。
九鬼才蔵。
兜の恩師であった。
もう70才はまわっているように見えるが、まだ50代である。
極度の激務と、闇の戦いの日々が、彼を老いさせていた。
「闇と戦う為には、赤ん坊の時から鍛えなくてはならない」
才蔵は薬を飲み込むと、モニターを見上げた。
「しかし…」
兜もまた、モニターを見上げ、
「子供の頃から…人を殺めるのは、如何なものでしょうか?」
「単なる人ではない!闇に魅せられた者だ!魔獣因子を持つ者もいる!」
才蔵は声をあらげ、
「やつらと戦う為には!」
ディスクを叩くと、兜を睨み、
「闇を教えなければならない!そして、闇に墜ちた外道は、もう人ではないと!教えなければならない!」
興奮して、才蔵はディスクの上に置いた薬の瓶を落としてしまった。
錠剤が床に転がるが、才蔵は気にしない。
「闇と戦う為には、闇とともに暮らしながら、闇に堕ちない者が必要だ!」
才蔵は、手術を受けている九鬼を見つめた。
「例え…人として、矛盾していてもな」
画面に映る孫を見ながら、才蔵は心の中で、悔やんでいた。
しかし、そんな気持ちを表には出すことはない。
「今の人間も、殺しを生業にしている!例え、魔獣因子を持ったなくても!そんな者を殺して、なぜ悔いなければならない!」
だからこそ、強気に出て、才蔵は叫んだ。
「…」
兜は何も言えなくなったが、代わりに口元を緩めた。
そして、もう一度九鬼を見た。
顔だけなら、幼い少女だ。
(しかし…)
兜は、いつのまにか…唇を噛み締めていた。
そんな兜の心を読んだかのように、才蔵は言った。
「月の雫を得る為だ!」
才蔵の言葉に、兜ははっとした。
「も、もしや…先生は」
「そうだ」
才蔵は肯定の言葉で、兜の言葉を遮った。
「だが…それ以上は、口にするな」
才蔵は横目で、兜を見つめ、
「闇が見ている」
これ以上の詮索を止めさせた。
兜も、口を閉じた。
今のやり取りで、兜は…才蔵の目的を知った。
その件に関して、もっと聞きたかったが、 兜はあきらめた。
もう夜… 。
闇の時間だからだ。
「お爺様…。これが、世界なの?」
九鬼は初めて、部屋の外に出された。
斬られた腕も、元通りになっていた。
才蔵の研究所は、人里離れた山の奥にあった。
山々の谷間にある灰色の箱。
そこから、数百メートル山を上がると、遠くの町並みが見えた。
九鬼と才蔵は、ただ朝からそこにいて、昼となり、夕焼けを迎え、夜になるまで、同じ場所にいた。
「どう思うかね?」
才蔵は、夕陽の眩しさにも目を細めずに、見つめ続ける九鬼に話しかけた。
「綺麗だと思うかね?」
自然に覆われた山々。澄んだ空気。美しき夕暮れ。
そのすべてが、九鬼に初めての景色だった。
だからこそ、九鬼は素直な感想を述べた。
「わからない…」
その九鬼の答えに、才蔵は満足げに頷いた。
「それでいい」
才蔵は、闇へと変わる世界に目を細め、
「自然が綺麗だと思うのは、人間のエゴだ。動物は、綺麗などとは思わない。自然を忘れ、都会に住む人間の…自然を壊していく人間が、懺悔で思うだけだ」
才蔵は、九鬼の頭を撫で、
「自然はあるがままだ。もし、お前が…大きくなり、自然を綺麗だと思うならば、お前の周りの自然が破壊されているときだろう。自然がそのままあれば…誰も綺麗だとは思わない」
才蔵は、山々を見回し、
「私は、逆に怖いよ。自然の中で迷えば…人間なんて脆いものだ。世界は、その場で生きる術を持たない者には、恵みを与えない。助けもしない。残酷なものだ」
幼き九鬼には、祖父の言葉は理解できなかった。
だけど、祖父から、何とも言えない切なさを感じ取っていた。
「ほら…真弓。月が出たよ」
闇が、すべてのものを黒に変える世界で、 月だけが輝いていた。
「お爺様!色がなくなったね。色がなくなることが、夜なの?」
九鬼には、自然の美しさはわからなかった。
だけど、色とりどりの個性がなくなったことは、理解できた。
そんな中、月だけが輝いていた。
「色か…。そうだね。色が個性かもしれないね」
才蔵は、隣に立つ九鬼がずっと月だけを見上げていることに気付いた。
「お爺様…。あれが、綺麗なの?」
すべてが、闇の暗さに負ける中…たった一つだけ輝く月。
「そうかもしれんな…」
才蔵は、灯りのついた町並みに顔を向け、九鬼にきいた。
「向こうも、光っておるがな?あっちの光が、どうだい?」
才蔵の問いかけに、九鬼は月から町へと視線を変えた。
しばらく町の灯りを見つめた後、九鬼は顔をしかめた。
「あっちは、自分勝手みたい。みんな…自分だけの為に、光ってる」
「そうか、そうか」
才蔵は満足げに何度も頷き、九鬼の後ろに回ると、両肩に手を置き、
「真弓よ…覚えておきなさい」
「はい。お爺様」
九鬼は顔を上げ、才蔵を見上げた。
「かつて…この世界に、月はなかった。すべてが、闇に包まれていた。ある日…それを不憫に思った女神が、月を作ったのだ。人々が、闇の中でも迷わないように…」
「月を作ったの?」
「そうじゃ」
才蔵は頷くと、月を見上げ、
「誰に頼まれた訳でもない。女神の優しさでな」
一度目を瞑ると、才蔵は後ろから九鬼を抱き締めた。
「お前が今やっていることは、誰の為でもない。だが、誰かの為でもある。他が為に…」
ぎゅと抱き締め、
「月のような戦士におなり。誰の為でもない…自分の為でもない。闇を照らす存在におなり…。あの月のように…無償で…」
「お爺様…」
九鬼は、才蔵が泣いていることに気付いた。
「月のような…戦士になるんだよ」
今思うと、それが人としての才蔵の最後の言葉だったのかもしれない。