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第106話 対話

あの日…


空は燃えていた。


黄昏よりも、赤く…。


逃げ惑う人。


落ちてくる殺戮の宴。


空を見上げた時…私は、人の愚かしさを知った。


地獄は、鬼や悪魔が創るのではない。


人がつくるのだと…。


私は、人に絶望した。


しかし、その犠牲者もまた…人なのだ。


今は、あまり空を見上げなくなった。





いつの如く…カウンターの中でコーヒーを作っていたマスターは、ふと…昔を思い出していた。


空から来る恐怖…。


それを体験したのは、日本と英国だけだ。


カラン…。


小さな音を立てて扉が開き、狭い店内に、美奈子が入ってきた。


「この前の…味が、忘れられなくて…」


真っすぐにカウンターに座った美奈子を、マスターは笑顔で出迎えた。


「味も…思い出ですから…」


マスターは、美奈子用のコーヒーを入れだす。


美奈子は、マスターの手付きを見つめながら、


「ここって…いつ頃から、営業してるんですか?」


美奈子の質問に、マスターは微笑みながら、


「一度…店がなくなりましたけど…開店したのは、日清戦争の前ですよ」


「え?」


美奈子は、素っ頓狂な声を上げた。


「そ、そんな…昔から…」


「はい」


マスターは苦笑しながら、美奈子の前にコーヒーを置いた。


「でしたら…先先代の…おじいちゃんくらいからですよね」


美奈子は、コーヒーを一口すすった。


「やっぱり、おいしい!」


感嘆の声をあげる美奈子に聞こえないように、マスターは呟いた。


「ずっと…私1人ですよ…」


「老舗の味ですね」


美奈子は、手に持ったカップを眺めた。


「あたしが、やってることも…ずっと続ければいいんですけど…」


と言うと、ため息をついた美奈子に、マスターは話し掛けた。


「失礼だと思いますけど…何をなさってるのですか?」


マスターの質問に、美奈子はクスッと笑った。


「大したことではないですよ」


美奈子は、カップを置くと、中の液体を見つめた。


そして、カップから、真剣な眼差しをマスターに向け、


「演劇です」


「演劇…」


反復したマスターに、


「はい」


と、美奈子は頷いた。


「大した劇団では、ないんですけど…あたしが引退する時が来ても、続いてほしいんですよ。ただそれだけです」


「不躾な質問ですが…どうして演劇を?それだけでは、生活できないときいておりますが…」


かつて、この喫茶店にも、多くの劇団員が顔を見せていた。


だけど、挫折したもの…。国から、粛正されたものが…ほとんどだ。


自由を象徴する舞台は、若さの花だった。


でも、今は違う。


美奈子は苦笑し、頬杖をついた。


「大したことじゃないんですよ。あたしはあんまり…これがやりたいってのがなくて…」


と言った後、首を横に振り、


「いえ、違うわ…。やりたいことが、たくさんあるから……演じることを選んだんです」


「たくさん?」


「そう…たくさんです」


美奈子はカウンターから、立ち上がり、


いきなり、デニムのパンツのポケットに両手を入れると、


「よう!あんたとこのコ〜ヒ〜!最高に、うまいぜ!」


チンピラのような口調で話しだす。


「ぐぅ!」


と親指を突き出してから、恥ずかしそうに、席に座った。


店には、マスターしかいないの確認していたが、やはり恥ずかしい。


マスターは呆気に取られた後、笑顔になり、拍手した。


「素晴らしい」


「いえ!全然です!誉めないで下さい」


舞台の上で、緊張したことはないけど…面と向って、人の前ですると緊張する。


美奈子は咳払いした後、


「あたしは、どんな役でもやりたいし…それをやることで、人の気持ちってやつを、多方面から知りたいんです」


美奈子はまた、コーヒーを飲み、


「人の争い…ぶつかり合いってのは、基本的には、他人を理解できないからと、理解しょうとしないから起きます。そして、自分のエゴを押し付けようとするからでしょ?」


美奈子の言葉に、何度も頷きながら、


マスターは、美奈子をじっと見つめていた。


「演劇を通じて、いろんな人の心を伝えたいんです。見てる人だけじゃなくて、演じる人間にも…。だから、役を与える時は、その人とまったく違う性格の役を、最初に与えてあげます」


と、ひとしきり言った後、美奈子はため息をついた。


「…えらそうに言ってますけど…今は、あたし…活動してないですよね」


美奈子は改めて、今の境遇を思い知った。


「それは、どうしてです」


マスターの真剣な視線が、美奈子を射ぬく。


しかし、美奈子は自分に夢中で、気付かない。


「そ、それは…」


美奈子は口籠もり…ぽつりと呟いた。


「人でないものを…理解しょうとしてるから…」


その美奈子の言葉に、マスターはほくそ笑んだ。


そんなマスターに気付かず、改めて美奈子はこたえた。


「まだまだ…演じられないものがあるんだな…と、悩んでいます」


美奈子の脳裏に、三枚の舌を両目と口から出す化け物の姿が、よみがえる。


(あの化け物にも…意志があった…)



「あなたなら、理解できますよ」


マスターは、悩む美奈子に新しいコーヒーを出した。


「え?」


驚き、思わず…カウンターの向こうにいるマスターを見上げた。


「あなたなら…わかります」


マスターの言葉は、妙に説得力があった。


「お、お世辞を言わないで下さいよ」


美奈子の声が、上ずった。


「あなたが望めば…理解できますよ」


ここで初めて、美奈子はマスターの視線の強さに気付いた。


美奈子は、唾を飲み込んだ。


「弱さも…強さも、力です。強く生きたいと…自分を外圧から守りたいと…そう願えば、人は生まれ変わります」


「だけど、それじゃ…自分だけ!周りを理解なんて、できないでしょ!」


美奈子は、口調を荒げた。


「ならば!その者達を理解できるあなたが、導けばいいのですよ」


マスターの両目が妖しく、光った。


しかし、美奈子の眼光は、それを拒んだ。


マスターは驚愕した。


「き、今日は…これで、失礼します」


二杯分のお金をカウンターに置くと、美奈子はそそくさと、店を出ていった。


マスターは、目を見開いたまま…しばし動けなかった。


美奈子には、今の攻防は理解できていないはずだ。


時間にして、一秒もなかった。


刹那の時だ。


無意識とはいえ、マスターの精神攻撃が、跳ね返されたのは、初めてだった。



「ククククク…」


マスターは、腹の底から笑った。


そして、誰もいない喫茶店で、拍手した。


「素晴らしい!」


そして、天を仰いだ。


「さすがは、もう一人のテラ!」





これで、運命の駒は……すべて舞台に上がったのだ。


あとは、誰が落ち…誰が、演じきれるかだ。


哀しみを背負い…人はどこにいくのか。




物語は加速する。


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