第105話 別離
さよならは、どうしたらいいのだろうか。
毎日が辛いから、環境を変えて、まったく違うところで、やり直そうとしたけど…。
あたしはあたし…変わることはない。
無理した明るさも、一生懸命かき集めた話題も…チープなものだ。
時任さつきは、アルバイト先を何度も変えていたけど…満足を得ることがなかった。
偉そうに指示だし、他愛もないことで怒り、アルバイトにあたることで、優越感を感じている正社員という人間も、好きになれなかった。
だけど、実家の親は心配気に、
「早く…落ち着いて…。正社員にならんかいな」
親のいう意味もわかっていたけど、
口下手で引っ込み思案のさつきには、会社という組織にずっといることは、辛くって、耐えられなかった。
人は必ず、弱い者をつくり…いじめとまではいかなくても、軽く嫌味をいうことは、日常茶飯事だ。
さつきは、アルバイトを転々としながら、自分が人の組織の中で、どうすればいいのか…悩み続けていた。
二十歳になるさつきより、少し年下の女の子達が、家も持たずに、自由に生きる姿がうらやましく、眩しかった。
だけど、彼女達の話を聞いていると、楽というわけではなかった。同じ年代の仲間間での問題に、苦しんでいた。
人の苦しみは、人によって、生まれていた。
ただ…生きていくだけなのに…こんなに苦しいのだろうか。
さつきは、アルバイト先の事務所の窓から見える…空を飛ぶ蝶を眺めていた。
蝶は、何を考え飛び…鳥は何を考えて生きるのか…。
彼らも、悩み苦しんでいるのだろうか。
どうして…人はただ…生きるということが、こんなに辛いのだろうか。
「お金が、あれば…いいじゃん」
お金があれば、働かなくていいし…毎日遊んで暮らせる。
だけど…さつきが一度アルバイトしていたバーに、親から受け継いだ家賃収入が毎月入ってくるから、働く必要がない男のお客がいた。お金が有り余っているから、男は毎日飲みに来ていた。
朝から晩まで、店から店をうろつく姿は、人の温もりを求めて、彷徨っているように見えた。
人の温もりは、お金で買えない。お金を大量に使うから、店員は優しく相手をするけど…それは、真の温もりではない。
そのお客のそばに、いつも寄り添う水商売の女は、そのお客をつなぎ止める為に、体を売っていた。
だけど、一人で店に来た時、その水商売の女は、ぼそっと言った。
「生きる為よ…」
愛してはいないと呟くように、言った。
そして、そのお客もまた…ある時呟くように言った。
「俺に…金があるから…金があるから、みんな…俺と一緒にいる」
さつきは、生きることの切なさを知った。
あたしは、生きていけるだろうか。
さつきは、生きていく自信がなかった。
動物のように、子孫を残し、自分の血筋を残す為に、生きていけばいいのか。
でも、自分が二十歳になるまでの学校生活や、毎日を過ごすのが大変で辛かったことを考えると…自分の子供ができたとして、その子を…こんな世界に、いれることはしたくなかった。
そう…後何年…あたしは、生きないといけないのだろうか。
さつきは、あと何十年も生きていく自信がなかった。
だから、さよならをしたかった。
どうやって、さよならするのかは、思案中だった。
まったく誰も知らない土地に、行くのか。
まったく…誰もいない土地に、行くのか。
自殺する気はなかった。よくわからないけど…死んでからも、幽霊になって、今の自分のまま…彷徨うのは、絶対いやだった。
1人になりたいというのもあるけど…自分が、嫌いというのもあった。
今住んでるアパートを解約し、一応旅立つ。
あてはないけど、行動を示したかった。
ボストンバックに入った全荷物を提げて、さつきはアパートを出た。
駅の切符売場で、地図を見ていたが、行き先が決まらない。
ため息をついて、少し考えようと、さつきは目に入った喫茶店に、なぜか心が惹かれた。
自然と足が向き…さつきは、喫茶店の木造の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
六席しかないカウンターの向こうで、笑顔のマスターがさつきを迎えた。
さつきは、マスターの笑顔に導かれて、カウンターに座った。
「何か…お悩みでも?」
注文せずに出されたコーヒーの味に、感動したさつきは思わず、目を見開き、
「あ…え…えっと…」
マスターの優し過ぎる柔らかな笑顔に、さつきの口が勝手に、言葉を発した。
マスターは何度も頷き、さつきにおかわりを出した。
「つまり…あなたは、まったく違うところに行き…、まったく違う自分に、なりたいと」
さつきは、頷いた。
「あたし…自殺は、したくないんです。あ、あたし…。もし、自殺したら…その後始末は、大変だと思うんです。誰がするかは、わからないけど…迷惑は、かけたくないんです」
その言葉に、マスターは微笑み、
「簡単に自殺する者が、多い中…あなたは、変わってますね」
「自殺は、罪です!してはいけません」
きっぱりとした口調に、マスターは頷いた。
「わかりました。あなたの願いを叶えましょう」
「え」
さつきのカップを持つ手が、止まる。
「あなたは、気付いていないようですが…あなたは、素晴らしい力の持ち主なのですよ」
マスターの目が、妖しく輝いた。
その目を見た瞬間、さつきは眠気に襲われ…やがて、眠りについた。
マスターは、カウンターに覆い被さるように眠りについたさつきを見下ろしながら、呟くように言った。
「迫害された…もう一つのキリスト教…。それがなぜ…迫害され、消えていったのか…」
「人は、罪人である。自殺したら、地獄にいく。天国に行く為には、自殺は絶対してはいけない」
カウンターの一番端で、コーヒーを飲んでいた山根が笑った。
そして、立ち上がると、さつきのそばまで歩く。
「だけど…失われたキリスト教こそが、真実を述べていた。本当は…この世界こそが、地獄であると」
山根は、さつきの後ろに立ち、
「自殺することは、この世界から…楽に助かることが、できる」
マスターに、にやりと笑いかけた。
「民衆から搾取したい者達は、死なれては困る。だから…迫害した」
さつきの両肩に、手を乗せ、
「真実を、知られてはいけないから」
じっと自分の目を見つめる山根に、マスターは鼻を鳴らし、さつきが飲んでいたカップを下げながら、
「どれが、真実かはわらない。地獄と…天国…。それは、個人個人の心の有り様によって、変わる」
「だけど!人は、個人だけでは生きれない!心弱気人間は、平気で人を傷付ける。そういう人間こそに、この世が、地獄だとわからせるべきだ!」
山根の強き言葉に、マスターは視線を外した。
「もしかして…今更、躊躇っているのですか?人の記憶を書き替えることができる…あなたが」
山根は、苦笑した。
「俺は、後悔してませんよ。昔を覚えていないが、今は満たされている」
後ろのテーブル席にいた宮島達は、カウンターからさつきを担ぎ上げた。
「彼女は…望んでいるのか?お前達のようになることを…」
マスターの言葉に、山根はせせら笑った。
「彼女は…もう覚えてませんよ。何も」
宮島以外の六人の実行部隊に、昔の記憶がない。
目覚めた人達を守る為、外敵を排除する力を与えられた者に、優しい心はいらない。
非情さだけだ。
店から出ていく山根の背中を、マスターはじっと見送った。
山根は振り返り、お辞儀した。
数年前、山根は人を刺して、逃げていた。
職場の上司の度重なるいじめに、キレたのだ。
喫茶店に逃げ込んできた山根を見たとき、マスターは目を見開いた。
歳を取っていたが…それは、紛れもなく、かつて自分が審判をしていた時、アウトと告げた…最後のランナーだった。
あることによって、マスターは店を一度失っていた。それでも、しばらくその地に留まっていたマスターは、愛する人々が帰って来ないのを知ると…しばらく世界を彷徨っていた。
それから、数年後に…同じ場所に店を再建したのだ。
再オープン間もない時に、山根が飛び込んできたのだ。
山根は震えながらも、カウンターでコーヒーを飲み、自分の半生を語った。
甲子園に自分のせいで、いけなくなり…そのショックで野球を止め…そこからは後悔しながら、生きてきたことを…。
「俺のせいで…みんなの夢を奪ってしまった」
山根という名字も、今の顔も…マスターが与えた。
それから、さらに数年後…マスターは、もう1人の記憶を書き替えることになった。
その女は、血まみれで…右手がなかった。
「あたしは…死にたい…」
血まみれの沙知絵は、血まみれの右腕を持っていた。
泣きながら、恋人の腕を切り…自分の腕を移植したと。
恋人を生かす為に。
世界は、化け物に支配されていく。そんな世界になったら、恋人は生きていけないと。
助けたい気持ちで、無意識にやってしまったが…恋人を傷付け…絶対に苦しめている。
今は、後悔していると…涙を流し、泣きながら、
「あたしを殺して…」
沙知絵の願いを、マスターは少しだけ叶えた。
心を殺したのだ。
彼女の持つ…技術がほしかったのだ。
山根達が去った後、マスターは目をつぶり、
「すべてを忘れたら…幸せになるのか…」
自問した。
人混みに佇みながら、神野は探していた。
人ではない者を。
「神野さん…」
じっと立っている神野からは、殺気のような者が漂っていた。
だから、普通の人は避けていくが、意気がった男の中には〜あと顔を近付けてくる者もいたが、神野の刃物のような目に、すぐに視線をそらした。
そんな神野に、近づいていく明菜を見て、通り過ぎていく人々は、驚きの目を向けた。
「少し…場所を変えましょう」
明菜の言葉に、神野は視線を人混みに向けたまま、
「沢村さん…。俺には、時間がないんだ」
神野は、右腕の付け根を触った。
沙知絵の腕を移植された肩口は、魔物の細胞に侵食されていた。
これが、全身を覆う時…神野は、自らの命を断つつもりでいた。
その前に、神野は…恋人であった沙知絵を見つけ、彼女を殺さなければならなかった。
「あいつは、苦しんでるはずだ…。化け物になったことを…」
神野は、右手を視線を落とした。
自分のものではない腕。
「神野さん…」
明菜は、これ以上かける言葉はない。
「沢村さん!」
突然、神野の口調が変わった。
神野の右腕が震えていた。
「いるぞ!」
神野は、目を人混みに向け、怪しい人を探す。
規則正しい人の流れを、斜めに渡る男がいた。
神野と明菜は、人混みをかきわけて、その者の後を追う。
数分間、追跡劇は続き、逃げていた男は、人影のない路地に入った。
神野と明菜が、路地に飛び込むと、そこに人はいなかった。
巨大な牙を突き出した…黒い体毛に覆われた化け物がいた。
化け物は神野達に、突進してくる。
「沢村さん!」
神野は、明菜の腹に右手を当てた。
すると、次元刀が飛び出してきて、神野は一気に刀を抜いた。
「教えて貰うぞ!お前達の目的と、アジトを!」
向って来る化け物に、次元刀を突き刺す神野。
次元刀を出すことしかできない…明菜。
戦う神野を何もできずに、見守るだけしかできない明菜。
傷つきながら、鬼神のように戦う神野。
明菜は、胸を押さえながら、心の中で叫んでいた。
(こうちゃん!)
この世界にいると思われる…幼なじみの赤星浩一。
(助けてあげて…みんなを)
しかし、明菜の言葉は、届くことはない。
彼の復活はまだ先である。
それまで、しばしの時を頂きたい。
そう運命が、加速する…その時まで。