第96話 麻薬
心を落ち着ける為に、薬に手を出した松木雄太。彼は…普段、誰よりも落ち着き、誰よりも優しい目をしていた。
菩薩のような人と、周りでいわれていたが…それは嘘だった。
薬が切れると、落ち着かなくなり、同棲していた彼女に手を出していた。
殴られても、普段の雄太を知っている彼女は、薬がキレた雄太こそが、おかしいのだと思っていた。その為…薬を飲むことを、積極的に進めていた。
飲むと、誰よりも優しくなり、穏やかになる。
(ああ…これこそが、あなたの本当の姿なのよ)
彼女は、穏やかな雄太に抱かれながら、何度も心の中でそう思った。
しかし、そんなことは、長くは続かない。
人の体は慣れるのだ。
いつもの量では、効かなくなってきた。
イライラし暴れる雄太もまた…今、が自分ではないと思っていた。
だから、薬の量は増えていた。
それにより、気持ちは落ち着いても、体は蝕まれていった。
そして、ある日ついに…もう戻れなくなっていた。
あれほど澄んでいた目に、影がでてきたのだ。
精神は、落ち着いても、体は悲鳴を上げていたのだ。
「どうしたらいいのでしょうか!」
最近よく、出入りするようになった店のマスターに、翠は思い切って打ち明けた。
薬をやっている彼が、本当の彼なんだけども…もう薬が、効かなくなっているし…薬を買うお金もなくなってきた。
「そうですね…」
マスターは、コーヒーを翠に出すと、少し考え込んだ後、
「やはり…病院に入れる方が…」
「だめ!」
翠は、カウンターを叩き、立ち上がると、
「そんなことしたら!彼が、ジャンキーだとわかってしまうわ!彼の尊厳に関わることなの!あたしは、彼の尊厳を守りたいの!」
翠の矛盾した悲痛な叫びに、マスターは肩をすくめた後、
「だったら…あなたが、どうにかしなければいけませんね」
マスターの両目が光ると、翠の背筋がピンと伸び、
「愛するなら…ね」
マスターの言葉に、翠は頷いた。
「愛するなら…」
翠は頷き、店を出た。
「何をしたのですか?」
後ろのテーブル席にいたお客が、マスターにきいた。
「何もしてませんよ。ただ…ばれないようにするなら…消すしかないでしょ」
マスターは、翠の残したコーヒーを下げた。
数日後…雄太と翠の住むマンションが火事になった。
仕事を終え、帰宅途中の雄太は、帰る場所が燃えていることに気付き、慌てて走り出した。
急いで家の前まで行くと、最悪の状況を告げられた。
何と翠が逃げ遅れて、部屋に取り残されているというではないか。
雄太は、消防士を振り切って、マンションに飛び込んだ。
幸いなことにまだ、火の手が遅く…マンションの階段に炎は回ってなかった。
二階にある自分の家に飛び込んだ雄太が、扉を開けると、飛び出してきた翠に抱き締められた。
「翠…よかった」
雄太も翠を、抱き締めた後、
「早く逃げるぞ!火の手が回らないうちに」
翠を連れ出そうとする雄太に、翠は首を横に振った。
「いいの…。あなたは、逃げなくても」
「何を言ってる!火の手が回らないうちに……!?」
雄太は絶句した。
「大丈夫!火の手は、あたしだから」
翠の体が、燃えていたのだ。
いや、炎そのものになっていた。
「今のあなたが、いなくなるなんて嫌よ!」
翠は、雄太に抱きついた。
「あなたは、一生…今のままでいて…」
翠は、雄太を抱き締めた。
「ぎゃあああ!」
雄太の叫びは、炎の燃える音にかき消された。
数時間後…焼け跡の中から奇跡的に、生還できたとされた翠は、涙ながらにこう答えた。
「彼が、助けてくれたんです。彼のお陰です」
こうして、雄太の名声は更に、高まることとなった。
真実を知る者は、人にはいない。