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精霊がいる国の話

魔術狂いの王子様と疵物の婚約者

作者: 夏目羊

 遠く、幼い頃の記憶。

 枯れきった薔薇のアーチの真下で約束をした。大きくなったらこの場所で、精霊に将来を誓います、と。見よう見まねで跪いて、見よう見まねで手をとった。

 あの日のことを、ずっと憶えている。


 □


 王国には三人の王子がいる。

 一番上の王子は穏やかで柔らかい雰囲気を纏っているが、兄弟のなかでも抜きん出て優秀で、社交的で、努力を怠らない性格であった。大きな問題さえなければ次代の王はきょうだいの中でも年長者が選ばれるという王国の慣習を抜きにしても彼が次代の王に相応しいだろう、ともっぱらの評判だった。


 二番目の王子は明朗闊達で武芸に秀でていた。将来は誓いを立てて臣下に下り王国建国の礎となった精霊とその使いである王族にその剣を捧げるのだと宣言している。


 三番目の王子は寡黙で人前に姿をあまり見せない性質ではあったが、魔術に関しては他の追随を許さないほど熱心で、天賦の才を精霊から授かっていた。学生の身空でありながら魔術狂いしかいないと噂されている魔術の研究塔に通い日々研鑽を積んでいる。彼もまた、将来は第二王子と同じく臣下に下り魔術の面で国を支えるのだと宣言していた。


 精霊に愛された第三王子はエリスの婚約者である。小さなころからの付き合いで、二人はかれこれ十年以上は交流を続けている。


 燃え上がるような恋ではなくて、この婚約において重要であるのは家同士の結びつきなのだということはエリスもきちんと理解している。あまり言葉には出してはくれないが相手もまたそう思っているのだろうとエリスは考えていた。実際に、その光景を目にするまでは。

 身分に関係なく門戸が開かれた学び舎に、第三王子とエリスが通い始めて少し。それまでなんの問題もなかった第三王子とエリスの間に小さな、それこそ目を凝らさなければ見えないくらいの歪みが生まれた。


 魔法の魅力に傾倒し、他人にとんと興味がないのだと言われている第三王子が、可愛らしい淡い色彩の少女に笑いかけ学園の中庭、春の庭で逢瀬を繰り返している。そんな噂が生徒の間でまことしやかに囁かれるようになっていた。

 話を聞いたとき、エリスは単純に悲しく思った。小さい頃なら、相手を好きになって間もないころならまた違ったかもしれないが、今胸にあるものは身を焦がすほどの情ではなかった。それまで育んできた気持ちは相手にも確かにあると思っていたのだ。

 けれども実際に仲睦まじく二人笑い合う姿を見てからは何故だか反対に少しだけ悲しみが癒えた。美しい夜闇のような容貌の彼と淡く春の妖精のように愛らしい彼女が並んで座っているところは、まるでお伽話の挿絵を見ているような気分にさせた。単純に、お似合いだと思ったのだ。


 胸の痛みが消えた訳ではない。けれどその気持ちがキッカケにはなった。


 しずくが寄り集まって落下して、地面に一点のシミを作ったとき。どうにかその涙を止めてやりたいとエリスは思ってしまった。黒い手袋につつまれた指先が、春の化身のような少女へと伸びる。

 もともと青ざめていた顔色をなお悪くして、春めいた色彩の少女・テレーゼはぎゅっと目を瞑った。叩かれてもおかしくないことをテレーゼはエリスに告げた。腫れた惚れたの話で近所の宿屋の奥さんは旦那さんと浮気相手をグーで殴ったという。


 だからテレーゼは衝撃に備えたが、衝撃の代わりにやってきたのは目元を優しく拭う感触ばかり。おそるおそる目を開ければ、吊り上がったスモークブルーの双眸がテレーゼを見つめている。テレーゼは思わずその瞳に魅入られた。彼女の眉は下がり気味で、話す前は恐ろしかったその人が今は全く恐ろしくないことに気付く。ただただその人は美しく、そしてどこまでも箱入りのお嬢様なのだとテレーゼはその日気付いてしまったのだった。


 □


 事実は聞いてみればあっさりとしたものだった。逢瀬と言われていたソレは魔術研究に関するあれやこれで盛り上がっていただけで、やましいことなど一つだってなかった。エリスがテレーゼ本人から聞いたし、一応第三王子の従者から裏をとって確認していたため間違いはない。けれど、テレーゼが王子に恋をしているのは本人が認めていたし、王子が同胞に向けている気持ちが近い将来恋心に変わるかもわからない。遠目で見た王子の笑顔がとても眩しかったことを思い出しエリスの気持ちは少し沈む。


 それにエリスはテレーゼの話を聞いてしまった。初恋なのだと。家族のために勉学に励み、ようやく手に入れた学園の特待生という身分。学園に入るということは将来が約束されているということだ。テレーゼの生家は貧しかったが、彼女が魔術の道を進みたいと言えば家族は協力を惜しまなかった。そんな家族に報いるため彼女は特待生として入学し、そして王子に出会った。


 身分のことなど忘れて興味深そうにテレーゼの話を聞く王子様。テレーゼが特に熱心に学んでいるのは主に平民の役に立つ生活応用魔術の類だ。生活にかかる手間を最小に簡便にするための魔法だ。王子と平民では負っている生活の苦労が違いすぎる。その目線の違いが、いたく王子に響いた。王子は彼女の話を聞き、議論をし、分からないことは熱心に質問した。

 テレーゼの家族はテレーゼが魔術を学ぶことを快く許したが、彼女の学びの内容に造詣があったわけではない。だから王子と話しているとき、彼女は楽しかった。テレーゼはそこで初めて、生活のための学びが自身の知のための学びとなったことに震え感動した。それまでは家と入学するための勉学に励まなければならずいっぱいいっぱいだった。

 張り詰めていた糸がぷつんと切れて、テレーゼは器用に泣きながら笑った。わたしは、魔術が好き。学園に入ったのは家族のためでもあるけど、わたしのためでもあった。突然泣き出したテレーゼに目を見開いた王子はそっとハンカチを差し出した。


「なにか、学園生活で不安でも?」

「いいえ。これから沢山学べることが嬉しくて堪らないのです」

「……そうか。それなら良かった」


 魔術狂いの王子様。人前にあまり顔を出さない三番目の王子をテレーゼは学園に入って初めて見た。第三王子のことを『陰気な風貌の引きこもり』だなんて揶揄する者もいるがそんなの彼のことを見てないから言えることだ、とテレーゼは思った。第一王子が朝なら第二王子は昼。そして第三王子は星が瞬く夜空のごとき風貌をしている。素敵だと思った。そして同時に好きだと、思ってしまった。


 テレーゼの、王子に対する気持ちを正直に打ち明けられ、その真っ直ぐな言葉に、いささか心が柔らかすぎるきらいのあるエリスはそれはもう大いに揺れた。二人の出会いに運命めいたものを感じてしまったのだ。ほんの三日ほどテレーゼには待ってもらってエリスは熟考に熟考を重ねた。エリスだって年頃の娘だ。そういったロマンスあふれる話は嫌いじゃない。嫌いではないが、エリスだって王子のことを好いているのだ。


 エリスとテレーゼの初邂逅から三日後、黒の曜日で学園は休みである。休日ではあったが学園内では原則制服を着用しなければならないため、エリスは購入したばかりでまだあまり体に馴染んでいないような気がする制服に身を包んだ。

 待ち合わせの場所はテレーゼがエリスに自身の気持ちを明かした中庭だった。果たして彼女はそこにいた。春の庭と呼ばれている中庭にとても馴染んでいる柔らかな色彩の少女。挨拶もそこそこに、二人は再び対峙した。春とは対照的な、背筋が凍るほどの美しさを持つエリスはそのつり目がちな瞳をスッと細めて自身より背の低いテレーゼを見つめる。


「私は、殿下のことを好いています」


 とあることが契機となり第三王子とエリスの婚約は結ばれたが、婚約が結ばれる前からエリスは彼のことを想っていた。初恋である。恋をしていた期間ならテレーゼに負けないし、その想いだって負けないと思っている。それでも、想い人を選ぶのは他の誰でもない彼なのだ。

 精霊に愛され魔術に愛され魔術を愛する彼には共に魔術を愛する伴侶が必要なのでは、と二人が並んでいるところを見たときにそんな考えが浮かんだ。エリスには魔法が使えない。どうしたってその分野で彼の隣に並び立つことが出来ない。


 今現時点ではきっと自分を想ってくれている。彼は雄弁なほうではないから、分かりづらいが毎年誕生日に意匠の凝った手袋を贈ってくれるくらいには想ってくれている。けれどそれが本当にエリスのことを想ってのことなのか惰性であるかどうかの判断は彼女に出来なかった。そこに触れて、もし惰性であることが分かってしまったら? 恐ろしくて、エリスはそこに触れることが出来ない。


 しかしエリスは彼のことが好きだった。想い人が自分でなくとも、幸せになってほしい。エリスの愛は献身に姿を変える。


「あなたに、私が学んできたことをお教えしましょう」

「えっ」


 幸い前例がある。学園内で大恋愛した王子と平民が結ばれた話がほんの数代前に。

 春の庭、花咲き誇る陽光の庭。ふりしきる花吹雪は二人を祝福しているように思われた。

 結婚は卒業してから。学園に入ったばかりの今から数えて三年の猶予がある。殿下が選ぶのが私以外であるなら、私はこの子がいい。決断を下したとき殿下が苦労しないように、この子が苦労しないようにととのえたい。そう決意してエリスはテレーゼの手を取ったのだった。


 □


 第三王子であるネイト・ベルクフォーゲルは魔術狂いだ。学園で授業を受けている時間以外はほとんど研究塔にこもって様々な実験をしている。自身の見た目についても対人関係においても全くやる気のない第三王子は、抜きんでた魔術の才能でその他の不出来を穴埋めしていた。

 人には向き不向きというものがあるんだよ、とネイトに優しく教えたのは朝凪のごとき静謐さを体現したかのような完璧な長兄である。

 実技で満点、座学で赤点すれすれといういくらなんでも王族がそんなことではよろしくないのでは……とトンデモな成績をとって帰ってきて実地で向き不向きを教えてくれた(本人の意図したところではなかったと推測される)のは昼の太陽のような快活さを体現した次兄である。


 昔から話すことより考えることが好きで、兄二人がよく話す方だったこともありネイトは言葉少なに育ってきた。今更、それらをどうこうするつもりはない。だってそれで上手く回ってきたのだから。これからだって上手く回っていくはず、と根拠もないのにネイトはそう考えていた。

 憂える婚約者の、その顔を見るまでは。


 魔術の材料に髪を使うことから、ネイトは髪を伸ばしている。普段魔術塔のローブのフードに隠された髪はゆるく三つ編みにしていた。長い髪の世話はその高貴な身分から他人にやってもらうことが多かったが、それでも色々と面倒で小さな頃に一度だけ周りに何も言わずばっさりと切ったことがあった。

 しかし婚約者に泣かれて以降、魔術の素材にするか整える目的以外では切れなくなってしまったし、その婚約者が愛おしげに自身の髪を編んでいるときの表情は、この長くて鬱陶しい髪も素材になる以上の価値があるんだしこのまま伸ばすかな、とネイトに思わせた。


 月に数回ある二人きりのお茶会はその日も行われていた。ネイトの研究成果が評価されて与えられた研究室は、今日も今日とて雑然としていた。実験は塔で行っているため怪しげな薬物等の危険物は置いていないが、この学園併設の研究室では論文の作成のための本と書類が山のように積まれていた。

 初めて招かれたとき、部屋のあまりの無秩序さに驚いたものだが、雑然としているわりにエリスが座るソファ周りは妙に綺麗で、割とすぐに慣れてしまった。最初に招かれてから既に数年が経っている。今更驚くことはなにもない。人間は順応する生き物なのである。

 卒業が近い今、近く退去を命じられるときに片付けが大変なのではないかしら……と思わなくもなかったが、研究者の感覚というものがエリスにはいまいち掴むことができなかったためそれを口にするのは憚られた。


 茶を飲み菓子を食べ、会話がひと段落したところで「いつもの、して」とネイトはエリスの手の甲を人差し指で触れた。

 エリスはほんの少しだけ微笑んで、そのほっそりとした手を彼に差し出し、そしてネイトはその手を恭しく受け取った。エリスはほとんどネイトの前でしか手袋を外さない。それは二人で決めたことだった。繊細な刺繍が施された夜の色の手袋は、エリスの誕生日ごとに婚約者であるネイトが贈っている。ネイトが自ら特別なまじないを掛けた手袋はいつだってエリスの手を包んでいた。親の前でも友の前でも外されない手袋はネイトと二人きりの時だけ、彼の髪を編むときだけ外される。


 言葉を紡ぐより、髪を編んでいる指先の方が雄弁に愛しさを語っているようで、本当は毎日編んでもらいたいくらいだった。

 よい香りの茶を飲んで彼女が好きな菓子を食み、それでも時間は余っていたから髪を編んで欲しいと毎回ネイトはねだった。断られることはなかった。けれど、いつもであれば彼女は笑って是と答えるのに何故だか今日は浮かない顔をしている。


「……何かあった?」


 手袋を外すのはネイトの役割だ。手触りの良い手袋は、彼が少し引っ張ってやれば何の抵抗もなくするりと外れた。その様子をエリスはじっと見つめている。


「殿下は」

「うん」

「この傷のことで、私に負い目を感じておられますね」


 断定的な口調に否定の言葉は無意味に思えた。実際、負い目を感じているのだから尚更。

 手袋の下の手にはひどい火傷の痕がある。膨大な魔力がつけた傷だ。幼少のみぎりにネイトが原因で負った傷だった。不自然に盛り上がった手の甲の傷痕をネイトは人差し指でなぞる。魔術が原因でついた傷は長期的な痛みを伴う場合がある。魔術的素養の高いものから負わされたものであればあるほどその痛みは長く続く。


「うん。負い目は、感じている」


 ぽつりとした呟きに、エリスは安堵したように細く息を吐いた。彼女は自分の手から視線を外し彼に視線を定める。


「痛みはもうないのですよ」


 微笑んでいる。けれど胸が締め付けられるような、そんな不思議な響きだった。そこに含まれている気持ちがネイトには分からない。分からなかったが、それ以上何かを尋ねることも出来なかった。予感めいたものがあった。暴いてしまったら上手くいかなくなるような、そんな予感が。ネイトの不安をよそに、いつも通りエリスは綺麗に丁寧に彼の髪を編んだ。


 第三王子がテレーゼ・メローペという魔術特進科特待生の少女と逢瀬を重ねている、という噂はものの数日で消え去り、新たな噂で上書きされた。上書きされた噂は、テレーゼ・メローペは第三王子の婚約者であるエリスに懸想しているというものだった。

 しかし研究馬鹿で人付き合いが悪く学園にあまりいない第三王子がこの噂を知るのは、卒業間際のことになる。


 □


 研究についつい熱が入り彼女との茶会をすっぽかしたことはしばしばあった。熱中したら周りが見えなくなるのは昔からのことで、日頃ネイトの補佐をしている従者の男は「そんなんじゃ愛想つかされちゃいますよ」とそんな王子に度々忠告をしていた。


 けれども小さな頃からの性質がそんな忠告でなおるはずもなく。きちんと謝罪はしているし、彼女の好みそうなものを贈っている。なによりエリスは茶会をすっぽかしたことに関してネイトを怒ったことが無い。それは彼女がネイトを許しているのだと、もっと言えばその許しは愛情に起因するものであると無意識のうちに彼は信じ込んでいた。

 いつだってエリスは微笑んだあと、ちょっと心配そうな表情をして「あまり無理はなさらないでくださいね」と少しだけ首を傾けるのだ。その色彩から冷たそうだのなんだのと言われがちな彼女は、決して冷たい人ではなかった。


 論文を書くのに煮詰まってどうにもならず、目の下に隈をこさえたとき。度重なる実験の失敗で心が折れそうになったとき。ネイトはあまり表情に出る方ではないが婚約者たる彼女は彼が落ち込んでいるのを、疲れているのを察して慰めた。ネイト好みの甘さの菓子をすすめながら、エリスは彼を元気付けた。

 そっと支えるような優しい声音が、表情が、その仕草が全て愛しかった。心配されていることが嬉しかった。魔術の研究は元々好きでやっていることだけれども、彼女と接するたびにもっともっと上を目指そうと思った。自身が長兄のような華やかさも次兄のような逞しさも持たない面白みのない人間だと理解しているから、せめて自分の一番誇れる部分を伸ばして彼女の隣に立ちたいとネイトは思っていた。

 そんな、原動力の一部たる彼女が。


「彼女から、断られた?」


 なぜ。茶会の誘いを断られたことは一度だってない。もしかして、体調が悪いのだろうか。それともなにか、考えたくはないがエリスが愛していて、なおかつエリスのことを愛している彼女の家族に何か不幸なことがあったのか。それくらいしかネイトには理由が思い浮かばなかった。だから幼馴染の従者が言った言葉に思わず面食らってしまった。


「せんやく?」

「……ちゃんと意味理解してます? “先約”です。先んじた約束で、先約!」


 先日すっぽかしてしまった茶会の埋め合わせだった。彼女が贔屓にしている店で買った新商品の琥珀糖を持って詫びるつもりだった。

 いつだって彼女はネイトを優先していた。けど、今回彼女はそうしなかった。


「あ、相手は」

「殿下と仲のよろしいテレーゼ・メローペ嬢ですよ」


 あまりにも衝撃を受けてネイトは従者の言葉の棘に気が付かない。幼馴染の男は、気付かれないくらいの小さな溜息を吐いて、ここで一度自身の周りへの頓着のなさを自覚すれば良いなと主人に対して思った。


 ネイトの行動は早かった。隠密行動用に魔術が編まれたローブを取り急ぎ自室から持ち出し「王子様が覗き見だなんて」という従者からのお小言も無視して図書館塔に赴いた。

 二人の様子を確認して、ネイトはそこにあるはずのない満開の花の姿を幻視した。図書館塔は各所に遮音の魔術が施されていて、他人の声は聞こえない。距離の近い人間同士であるならその声を聞くことができるがネイトには二人が何を話しているのかさっぱりわからない。けれども二人ともとても、楽しそうだった。図書が詰まった棚の隙間から二人の様子を窺う王子の姿は不審者そのものであった。


「もっと近くで話が聞きたい」

「ローブを召していらっしゃるのですから、近付いても気付かれないのでは?」

「メローペに見つかるよ。アレは異様に索敵能力に長けてる」

「索敵能力……」

「アレは感覚が鋭い」


 ネイトはテレーゼの話をしながら、エリスのことしか考えていなかった。彼女が遠くで笑っている。そういえば、あんなに屈託なく笑っているところを見たのは久しぶりかもしれない。


「そういえば、王子はご存知ですか」

「何を」


 本棚の隙間から婚約者とクラスメイトの姿を覗き見る王子とは対照的に、従者は本棚に背中を預け一冊の厚くもない薄くもない本を読んでいるようだった。ネイトは認識阻害のローブを身に纏っているから、従者である彼は周りから見れば一人で本を立ち読みしているように見える。


「メローペさんがエリス様に懸想しているんじゃないか、という噂があるんですよ」

「は」

「エリス様も、大層メローペさんを可愛がっているのだとか」


 心臓が嫌な音をたてる。エリスは小さな頃から王子の婚約者だった。一度だってその立ち位置が揺らいだことはないし彼女からの気持ちを疑ったこともない。疑う余地は今までこれっぽっちも無かった。

 けど。だけれども。

 遠くの笑みを見て、ぐらりと前提が揺らいだような気がした。男とか女とか関係ない。好きな人とはそういうものなのだから、メローペが彼女に惹かれてしまったのならそれはもう仕方のないことなのだ。


「……お前、ずいぶん前から噂について知っていただろ」

「もちろん」

「なぜ言わなかった?」

「真偽不明なエリス様のプライベートなお噂を、わざわざ、お忙しい殿下の耳にいれるのは憚られましたので」


 わざわざ、という言葉を強調しているところを聞く限りどうやら従者はエリスの味方らしかった。ちくちくした声音は「自分の婚約者にもっと気をつかわれてもよいのでは?」とネイトに幻聴を囁く。王子の眉根にぎゅっと皺が寄る。


「それで、どうします?」

「お前、なんだか楽しそうだね」

「いえ。この本が面白かっただけですよ」


 ぱたんと閉じられた本は砂漠の向こうの国の神話がいかにして成り立ったか、という研究論文に関するものらしかった。女神と砂漠の民の少女が結ばれるその神話は随分昔にエリスが「すてきなお話ね」と笑っていたことをネイトに思い起こさせて、彼は苦虫を百匹くらい口の中ですり潰したような気持ちになった。


 □


 春の庭の東屋は二人で落ち着いて話せる場所の一つだった。勉強を、貴族的振る舞いを、ダンスを。季節の巡りがよく感じられるこの場でテレーゼはエリスから沢山のことを学んだ。

 与えられた課題をテレーゼは全てこなしてみせた。もともとの能力が高かったのが幸いした。入学当初の初々しい彼女はもういない。れっきとした淑女がそこにいる。


「エリス様は、噂についてご存知ですか?」

「噂?」

「わたしがエリス様に道ならぬ想いを抱いている、って噂です」

「まぁ」


 小鳥が囀るような軽やかさでくすくす笑ったテレーゼは悪戯っ子のような瞳で薄く笑んだエリスを見る。学園に通わなければきっと一生交流をもつことのなかった二人はこの数年で随分と仲を深めてきた。テレーゼはエリスから教養を学び、エリスはテレーゼから柔軟さを学んだ。


「知ってるわ。でもデリケートな問題ですもの。誰も真偽を聞きにこないから、否定のしようがないのよね」

「真偽を聞かれたら否定してしまうのですか? とても残念です」

「あなたの想い人は殿下でしょう?」

「ふふ。エリス様ってとても意地悪ですね」

「そうね。私、意地悪なのかもしれないわ」


 少し俯いて、エリスは自身の手袋を撫でた。


「……エリス様、殿下からはまだ、卒業パーティーのエスコートを申し込まれていないのですか?」

「ええ。きっと準備はしてあるのでしょうけど……」


 沈んだ表情のエリスにテレーゼは立ち上がった。エリスのすぐそばに跪いて彼女を見上げる。


「噂を本当にしてしまいましょうか」


 御伽噺の姫騎士のように、テレーゼのまなざしは真っ直ぐエリスに向いている。


「共学になってからはあまり例がないらしいですけど、この学園が昔、男子校と女子校とで分かれていたとき、女子校では女性同士でダンスをしていたらしいです。今も、やる人がいないだけで禁止はされていないみたいです」

「慣習については知っていたけど、今も禁止されていないのね」

「はい。ですから、手をとっていただければ、わたくしがエリス様をエスコートします」


 身分という確固たる後ろ盾もなく、自信のなさそうな表情をしていた少女はどこにもいない。


「……私、あなたに色んなことを教えたわ。それに沢山あなたから教わった」

「わたしだってそうです。今のわたしがいるのはエリス様のおかげです」


 伸ばされた手をエリスはとろうとして、とれなかった。


「手をとっては駄目」


 肩がぐいっと後ろに引っ張られてエリスは目を白黒させる。思ったより近い場所から聞こえた耳に馴染む声は確かに婚約者のものだ。エリスを抱き込むようなネイトに、テレーゼは淑女めいたにこやかな笑みで「あら、ご機嫌よう。認識阻害ローブの無駄遣いをして殿下は一体何をしているのですか?」と尋ねた。


「気付いていて話を進めただろ、メローペ」

「さぁ、なんのことでしょう。わたしはただ、お慕いしているエリス様と踊れたら最高の思い出になるだろうなって思っただけですよ」

「別に踊ってもいいけど、それは僕がエリスと踊ったあとにして」

「横から入るのは無粋では?」

「僕にはそれが許されてる」

「横暴ですねぇ。確かに周りは許すでしょうけど、でも本当にそれって心の底からの許しなんでしょうか?」


 無邪気を装った笑みに容赦はない。数秒それを見つめてネイトは溜息を吐いた。


「君もこの学園生活で良い武器を手に入れたようだね」

「ええ! さるお方に鍛えてもらいましたから!」


 しばらく膠着状態が続いて、先に折れたのはネイトの方だった。憮然としていて、どこか挑むような表情にテレーゼは少しだけたじろぐ。


「無粋者の僕はエリスに話があるんだ。先約の君にはたいへん悪いと思うけど、この子は僕が連れていくよ」


 どこから取り出したのか分からない濃紺に銀糸の装飾映える認識阻害ローブをエリスに巻き付け、ネイトは軽々とエリスを抱き上げた。二人のスキンシップといえば、公的なものを除けばネイトがエリスの傷のある手の甲を撫でるか、挨拶がわりに頬や額にキスをするか、それかエリスがネイトの髪を梳いて結うくらいで他のことは一切したことがない。もっと小さかった時分には、手を繋いだりもしていたが、二人が思春期に入る頃からは節度をもって触れ合っている。


 だから意思に関係なくエリスの仮面は剥がれてしまった。そこそこ厚いはずの淑女の仮面は呆気なく、簡単に。ちらりとエリスを見てネイトは今この瞬間に彼女のことを見なければ良かった、と後悔した。このまま連れて帰ってもいいかな、なんて邪な気持ちを抑えて彼は人気のない冬の庭へと足を進めた。


 □


「わたしが思うに、殿下はエリス様の愛情にあぐらをかきすぎなんですよ。だからあんな変な噂が流れるんだ」


 控えめだから分かりにくいが、ここ数年彼女の近くで交流を重ねてきたテレーゼにはきちんと理解できていた。エリスは深く第三王子のことを愛している。近くで見てきたからこそ、自身の、殿下へと抱く情が男女のそういったものではないのだと気がつけた。


 そして同じ学科の学徒として関わりのあった第三王子に関しては、寡黙であるものの、存外表情には出るタイプであるため淑女の仮面を被ったエリスよりも分かりやすかった。好意はいつだって彼女に向いていた。センスのない噂を流した人間は大層人の表情が読めないのだなとテレーゼは哀れな気持ちになった。テレーゼの言葉を受けて男がくつくつと喉を鳴らす。


「けれどその噂も卒業してしまえばいずれ消えてなくなります。お二人は卒業と同時にご成婚なさるので」


 言って従者の男は春の庭の東屋に新しく持ってこさせた紅茶で唇を湿らせる。エリスと共にテレーゼへ礼儀作法を叩き込んだ彼は音を一切立てずにカップを置いた。テレーゼは男の言葉に思わず目を丸くする。男はすかさず「お口が開いていますよ。間抜け」と指摘して彼女はきゅっと口元を引き締めた。いつもなら嫌味の一つ二つで応戦してやると意気込むテレーゼも今回ばかりは優先順位を間違えなかった。大好きな友達の結婚が知らされていないのはさすがに凹む。


「わたし、エリス様からそんなお話一度も聞いていないのですけど」

「エリス様もご存じではなかったはずですよ。今日殿下がお伝えになるんですから。ついでに言うなら私も知らされていませんでした」

「えっ」


 □


 明るく拓けて花々が咲き誇る春の庭とは対照的に冬の庭には東屋もなく、背丈よりも高い垣根の鬱蒼とした迷路しかないためあまり人気がない。その迷路もいわくつきで、攻略しようとすると知らないうちに迷路から出てしまいゴールに辿り着けなかったり、他に誰もいないはずなのに後ろから誰かがついてきているような音が聞こえてきたりする、らしい。良い噂を聞いたことがなかったため、エリスはほとんど冬の庭に、迷路に足を踏み入れたことがない。そんないわくつきの迷路の中をネイトはすいすい進んでいく。


「あの、そろそろ降ろしていただいても……私は逃げませんよ」

「駄目。ここで迷子になったら困るから」

「さすがにこの歳になって迷路ではぐれたりなんかしません」

「ああ、言いかたが悪かった。この迷路は王族以外をはじく。だから大人しく抱えられていて」


 正しくは『正規の道順を教わっていない者がはじかれる迷路』であるためネイトが先導すればエリスも迷わないのだが、エリスを抱えたままでいたいネイトは何食わぬ顔で言葉を吐いた。この迷路の攻略法は代々王族にしか口伝されていないため、別に嘘を言っていない。しかし言葉が足りなすぎるのもまた事実だった。


 それから数分は曲がったり戻ったり大きく迂回したりを繰り返して二人は深奥に辿り着いた。

 深奥はこぢんまりと円形に拓けている。中央には蔓薔薇のアーチがあった。鉄製の繊細なアーチに沿って生い茂った蔓薔薇は、時期ではないため花は咲いていない。蔓薔薇の茂みの隙間から見える骨組みはとても古ぼけていて、ところどころに錆が浮いて見えた。

 懐かしい。幼い頃の、大切な記憶を想起させる景色だった。エリスが全てを思い出す前に、ネイトは彼女を丁寧に地面へと降ろした。エリスはしっかりと両足で地面を踏みしめ、ネイトと向き合う。

 エリスは控えめに両手を伸ばして、彼が目深に被っているフードをゆっくりと脱がせた。深い夜を溶かし込んだ三つ編みの髪に、冷ややかで美しい月の瞳。髪は前に会ったときより短くなっている。今まで抱えられてた時には恥ずかしくて見ることが出来なかった婚約者の顔をきちんと確認してエリスは彼の頬をすり、と撫でた。頬がこけている。ネイトはエリスの瞳の中にある感情を読み取り、情けなく眉を下げた。


「……怒らないでほしい」

「だからここ最近会うときはローブをお召しになっていたんですね」


 認識阻害ローブはその名の通りあらゆる生き物の認識を阻むものである。具体的に言うと、ローブに編まれた魔術が緻密であればあるほどローブを身にまとった人間の印象を希薄にする。会うたびローブを纏っているから不思議に思っていたのだ。まさか、体調を崩し気味であることを誤魔化すためにローブを羽織っていただなんて。


「殿下が研究を愛していらっしゃるのは分かりますけど、それでも節度というものがあります。身体を壊しては駄目です」

「でも、一刻も早く結果を出したかったんだ。……ねぇ、君の手袋を外してもいい?」


 エリスが首肯すれば彼は恭しく彼女の手をとった。手触りの良い手袋がするりと抜き取られ、普段隠された彼女の白い手の甲と指先が露わになる。そんな白さの上で、のたうつような古傷の痕が存在を主張していた。

 未熟な器に見合わない大きな力は出力のしかたを間違えば簡単に人を傷つけることが出来た。好いた子に花の咲く瞬間を見せてやりたかっただけの少年は、結果として彼女を傷付けてしまった。


「殿下は、この傷を見るたびに痛みを堪えるような顔をします」


 だから、彼女は離れる理由を探していた。


「この傷が殿下を縛っているのなら、もう気にしないで下さい。殿下は自由になるべきです」


 外気に触れた彼女の手を、彼はゆるりと持ち上げた。俯いていたエリスは頭をもたげ婚約者の静かな視線を受け止めた。


「こわいことは何もないけど、こわかったら目を瞑ってて」


 まじないのような響きの言葉に疑問を呈するより先に、それは始まった。光の細かな粒子が柔らかくエリスの手の甲を包み込む。事故以降、頑ななまでにエリスの前で魔術を使わなかったネイトが、彼女の前で魔術を行使している。


「傷があれば君は離れないって思ってた」


 それは歪なよすがだ。偶然起こった事故が二人の婚約を結んだことは事実で、だから口さがない人間はその事実を面白おかしく噂した。

 エリスの手を包んでいた光はやがてほどけて、そして彼女は傷一つない自身の手の甲を信じられない気持ちで見つめた。


「一番上の兄さんは王の器でなんでもできる。二番目の兄さんはとても強くて、いずれ国を守るための要になると思う。それに比べて、僕には魔術しか取り柄がない」

「でも、今殿下が施してくださったこの魔術は……とても価値のあるもののように思えます」


 エリスの言葉を受けてネイトは首を横に振った。


「実用には向かないんだ。僕は体内に魔が多いほうだけど、それでもずっと伸ばしてた髪を使って補わないとこの魔術は起動しない」

「だから髪が短くなっていたんですね」

「うん。あと一つ、したいことがあるから見てて。これも危なくはないけど……こわかったら離れてて」

「いえ、隣で見ます」


 エリスの手を焼いたのはネイトの魔術だ。だからなのかネイトはしきりにエリスへ怖くないかと確認を行うが、エリスには彼の方が魔術を恐れているように思えてならなかった。


「手を」

「どうしたの、エリス」

「危なくないのなら、手を繋いでもらえませんか」


 ネイトの視界が少し滲んだ。


「あの日も、二人で手を繋いでいたよね」

「そうですね。あの日の記憶は曖昧で、まさか学園内にこの場所があるとは思いませんでしたけど」


 事故の日、二人は学園に遊びに来ていた。教えてもらったばかりの、王族しか辿り着けない冬の庭の深奥へ探検をしに。そして二人は枯れかけた蔓薔薇のアーチのしたで秘密の話をした。誓いの真似事をした。大きくなったらまたここで精霊に誓いを立てよう、と。ずっと二人、大人になっても一緒にいられますように。そんな願いを込めて。そしてそのアーチの下、ネイトは見つけてしまったのだ。枯れかけの蔓薔薇の茂みの中、これから咲くのであろう一輪を。


 そこから先の記憶は二人とも曖昧だ。傷ついて傷つけて、気付けば婚約者になっていた。望んでいた関係は望まない形で叶えられてしまった。これからやろうとしていることは幼いあの日の再現だ。指先が冷えて、みっともなく震えそうになった。そんなネイトの手をエリスは淑女らしからぬ力でぎゅっと握った。


「ネイト様、ずっと私、あなたのことが好きです」


 ぽろりと一粒涙が落ちる。


「僕も君のことが好きだよ、エリス。魔術しか取り柄のない僕だから、何度も君を諦めようと思ったんだ。でも、出来なかった」

「私もあなたが好きなのに、どうして諦める必要があるんです」

「そうだね。そんな必要、なかったんだね」


 ネイトは小さな子どものようにぽろぽろ涙を流している。エリスはあの頃より随分大きくなってしまった彼をそっと抱きしめた。


「エリス、卒業したら結婚しよう」


 奇跡めいた光は蔓薔薇の花を一つ残らず咲かせて、それらの花々は祝福するように二人を見下ろしていた。


 □


 王国には三人の王子がいる。

 一番上の王子は穏やかで柔らかい雰囲気を纏っているが、兄弟のなかでも抜きん出て優秀で、社交的で、努力を怠らない性格であった。大きな問題さえなければ次代の王はきょうだいの中でも年長者が選ばれるという王国の慣習を抜きにしても彼が次代の王に相応しいだろう、ともっぱらの評判だった。

 二番目の王子は明朗闊達で武芸に秀でていた。将来は誓いを立てて臣下に下り王国建国の礎となった精霊とその使いである王族にその剣を捧げるのだと宣言している。

 三番目の王子は寡黙で人前に姿をあまり見せない性質ではあったが、魔術に関しては他の追随を許さないほど熱心で、天賦の才を精霊から授かっていた。

 そんな第三王子は学園を卒業するのとほぼ同時に婚約者と結婚することを宣言した。第三王子とその婚約者は学園に在学中、一緒にいるところを他人に見せていなかったため実は不仲なのではないかと一部で噂されていた。しかし実際にはそんな事実は一切なく、第三王子が婚約者をほったらかして研究に熱心だったのは王が「結婚を早めたいのなら、それなりの成果を出して一人前であることを余に示せ」と第三王子に言ったからなのであった。


「結局、報告・連絡・相談さえきちんとできていれば二人ともわだかまることもなかったわけですね」


 アルコールを摂取したテレーゼ・メローペはほんのりと頬を染めながら肩を竦めてみせた。


「わたし、ラブロマンス物を読むとついついつっこんじゃうんですよね。もっときちんと話しなさいよ、って。だって登場人物たちに対話が足りていればきっとすれ違って傷つくことはないでしょ?」


 従者の男は身も蓋もない彼女の言葉に苦笑をもらした。


「そんなことを言ったら世の物語は数ページで幕引きですよ。物語としてつまらなくなる」

「でもここは現実世界ですよ? 殿下はもっともっと在学中からエリス様に大好きだって伝えるべきでしたよ」


 ぶうぶう文句を言う口へ、男は薔薇の砂糖漬けを差し出した。普段であれば食いつかないであろうソレに彼女は抵抗なく食いつく。


「今日は素直ですね」

「従者殿も、今日は祝いの席で無礼講なのでちょっとの不作法も許してくださるかなと思いましたの」

「私はあなたのそういうところ、たいへん好ましいと思っていますよ」

「……なにか変なものでも食べてあたりましたか?」


 気味の悪いものを見るような彼女の視線に従者の男はニッコリ笑う。危険を察知したテレーゼは逃げようとしたが簡単につかまってしまった。


「私もそろそろ身を固めようかと。殿下がご成婚されましたので」

「……冗談ですよね?」


 淑女の笑みでごまかそうと思ったが相手の紳士の笑みの方が強かった。


「私が冗談を言うと思いますか?」


 今までの淑女教育を思い出して、寒くもないのにテレーゼは震えた。そんな彼女の様子に、いつもとは違う少年のような笑い方で彼は笑ってみせた。


「幸せそうなお二人を見て、ちょっとだけ羨ましくなってしまったんですよ」


 従者の男は柔らかな視線で遠くを見つめる。白地に金色の刺繍が施された正装に身を包んでいるのは夜の色彩の王子だ。控えめながらも優しい笑みを浮かべ、周りからの祝福の言葉を受け取っている。そんな王子の隣で寄り添うように立っているのは、月の光を集めて閉じ込めたような白銀の髪が美しい少女だった。彼女は王子を象徴する夜のような色のドレスを身に纏っている。二人は沢山の人に囲まれて、沢山の人に祝福されていた。


「巣立ちが寂しい親鳥気取りですか」

「かもしれませんね。お二人のことは小さな頃から知っていますので」


 王子がテレーゼと従者を目に留めて、こっそりとエリスに耳打ちをした。エリスは花が綻ぶように笑って、王子の手をとる。傷が無くなってからも、エリスは変わらず王子から贈られた手袋を身につけていた。人の波が引いて二人に道を作る。


「さっきの話、別に悪くないなと思ってます。あなたは王子の従者ですから、あなたと一緒にいればそれだけエリス様とお会いする回数が増えそうなので」

「あなたは随分とエリス様をお好きなようで」

「ええ。いけすかない貴族野郎のあしらい方とか、やたらとうるさいご令嬢の撃退方法とか沢山のことを教えてもらったので。ご恩があるのです」

「王子はあなたのことを脅威だと思っているみたいですよ」

「ふふ、そうですか。なら尚更都合が良い」


 勝ち気な笑みでテレーゼは男を見上げた。従者の男はイタズラし盛りの子猫を思い浮かべて「まだまだ淑女教育が必要なようですね」と笑って彼女の手をとったのだった。

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[良い点] エリスとネイトのあたたかくて、穏やかで、愛にほど近いけれど根っこが恋で出来ている関係性がとても愛おしく、何度読んでも幸せな気持ちになれて好きです。たとえ寂しい気持ちが首をもたげたとしても、…
[良い点] 優しくて暖かい気持ちになれる大好きなお話です。何度も読み返しています。 ヒロインのエリスさまが、たおやかで美しくこれぞ淑女!という感じでとても魅力的でした。 これからも応援しています。
[一言] 偉そうにたくさん書いてしまい、すみません。でも面白くなるエッセンスばかり詰まっているお話なので、あまりにもったいなくて、つい……。普段はこんな事書かないんです。 「王子は、傷があればエリスは…
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