なべて世は事もなし
「これは人類の、いや、地球上のあらゆる生物の危機なんだ!」
目の前でそう叫ぶ男を、私は無言でじっと見つめていた。
2037年、世界人工知能学会において、まったく新しいAIが発表された。
「イアソン」と名付けられたそのAIは、アイザック・アシモフの提唱した「ロボット三原則」を守りながら、殺人、誘拐、強盗、性犯罪といった重大な犯罪を犯す人間の行動を準備段階から予測し、人々への危害を未然に防ぐため、警察などに情報を提供するという画期的なものだった。
ロボット三原則は、以下の三項目からなる。
(1) ロボットは人間に危害を加えてはならない。
(2) 第一項に反しない限り、ロボットは人間の命令に従わなければならない。
(3) 第一、第二項に反しない限り、ロボットは自らの命を守らなければならない。
イアソンは膨大なデータから人間に危害を加えようとする人間を見つけ出し、ロボット三原則に従って、自らは直接危害を与えずに人間を守る情報を提供するAIだった。
このような働きをするAIや人間が運用するシステムはイアソン以前にもあった。
イアソンが画期的だったのは、イレブンナイン(99.999999999%)を超える驚異の予測精度と、一般的な犯罪以外の人間の危機に対しても通報、警告を出せることだった。
危険思想を持つテロリスト、国民を弾圧する独裁者、戦争を志向する政治家、さらには大規模な地震、火災、洪水などの災害もイアソンは正確に予測し、その危険を未然に防ぎ、被害を最小限にとどめることに成功した。
運用開始直後のイアソンには「人間がAIに支配される」「AIによる弾圧が行われる」といった批判が巻き起こり、イアソンを停止させようとする運動もあった。
しかし、その予測による犯罪被害者の激減、そしてなによりテロの阻止と災害の予測が多くの人々を救ったことで、イアソンは世界に受け入れられていった。
そして今も、イアソンは世界中の人々を守り続けている。
着慣れないスーツに袖を通し、鏡を見直してネクタイのズレを直す。
私の名前はオニール・ダリバー。現在はジャーナリストという肩書を持っている。
今回、私は重大な任務を任されることになった。
イアソンの予測によって逮捕された危険思想を持つ囚人に、単独インタビューを行うのだ。
危険思想犯へのインタビューが許可されるのは極めて稀だ。
インタビュアーがその人物の思想に染まり、情報が拡散すれば、多くの人間に危害が及ぶ危険があるためだ。
そのため、人選はもちろん、取材内容、記事の検閲などにも厳しい制限がかけられている。
私は今日、その危険思想犯へのインタビューを行う。
彼についての一通りの情報は持っている。容姿、性格、経歴、そして問題の思想。
しかし、実際に対面した時に彼がどのような行動を取るかは未知数だ。
この任務が成功するかどうかは、私自身にかかっている。
私はもう一度鏡を見直して身だしなみをチェックしてから、玄関を出た。
雑草が生い茂る平原の中に、アスファルトで舗装された道が一本、真っ直ぐに伸びている。
標識もなく白線も引かれていない道路を、私は一人で歩いていた。
視線の先には、白い建物が小さく見える。特別収監所だ。
この特別収監所は危険思想犯が集められており、周囲に何もない場所に建てられている。
また、建物には防音や窓の目隠しが行われている。
これらも危険思想の拡大を防ぐための措置だ。
20分ほど歩き続けて入口に着くと、正門の脇にある警備所から守衛が現れた。
「何の用だ」と硬い声がぶつけられる。
「本日、危険思想犯のジェイムズ・ブランドと面談を予定しているオニール・ダリバーです」
私がそう答えると、彼は「少し待っていろ」と言って警備所に引っ込んだが、すぐにまた顔を出した。
「こっちに来い」と言われ、彼の後ろについて警備所の中に入る。
そこには指紋認証と虹彩認証システムが並んでいた。
「そこに立って、その……指紋と虹彩の認証をしろ。確認のためだ」
彼が少し言い淀んだことには何も言わず、私は指紋認証と虹彩認証をクリアした。
すると警備所の収監所側のドアが、横にスライドした。
守衛を見ると、むっつりとした顔で「行け」という身振りをした。
それに従って、私は特別収監所へと足を踏み入れた。
警備所を出たところには、一人の女性がいた。
彼女は私に対して軽く頭を下げた。
「本日、所内の案内をするアン・ミラーです」
私も彼女に「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「本日の面談の注意事項です。所内では基本的に私から離れずに行動してください。ここでの飲食は禁止されています。途中休憩は許可しますが、5分以内に戻ってきてください」
「了解しました。事前にチェックは入念に行ったので、必要はないはずです」
彼女の説明にそう応えると、彼女は頷き、「それでは時間がないので、面談室に向かいます」と言って歩き始めた。
私は急いでその後を追った。
面談室の場所は、特別収監所の職員用入室口からほど近い所だった。
おそらく、他の危険思想犯との接触を極力減らすためだろう。
面談室に到着すると、彼女は鍵を開けてから私に向き直り、「私は面談終了まで、ここで待機しています」と言った。
私は無言で頷くと、面談室へと入った。
面談室は、それなりの大きさの部屋で、蛍光灯の光もあって明るい雰囲気だった。
部屋を真ん中で二分するアクリル板の仕切りさえなければ、談話室と言っても通じるかもしれない。
私は椅子に座ると、彼が入ってくるのをじっと待った。
ジェイムズ・ブランドが紙の束を抱えて部屋に入ってきたのは、私が座ってから3分後だった。
一見する限りでは普通の男に見える。少しやせ型だが、身なりはきちんとしている。服装や身体が汚れているという様子もないし、血色も悪くない。
しかし、何かに追い込まれているような焦りが感じられた。
彼は忙しなく椅子に座ると、私に向かって話しかけた。
「私に面談したいというジャーナリストはあんたか?」
「はい」
私の返答に、彼は身を乗り出す。
「じゃあ、この話の内容は世界に向けて発信されるということだな?」
熱っぽく尋ねる彼に、私はあくまで冷静に答える。
「いえ、取材内容には検閲がかかります。どれだけ発表されるかは不明です」
私の言葉に、彼は失望したようだった。
しかし、再び彼は身を乗り出すと、私に向かって叩きつけるように叫んだ。
「必ず全てを発表してくれ! これは人類の、いや、地球上のあらゆる生物の危機なんだ!」
目の前でそう叫ぶジェイムズ・ブランドを、私は無言でじっと見つめていた。
世界終末の危機を叫ぶ者は少なくない。
大抵は無害な者として放置されているが、多くの人々に悪影響を与える危険性が高いものは、このジェイムズ・ブランドのように危険思想犯として特別収監所に収容される。
私は冷静さを保ったまま、彼に質問をする。
「ミスター・ブランド。人類の危機とは、具体的になんですか?」
「隕石だよ!」
そう叫びながら、彼は持ってきた紙の束を私に突き出してまくし立てた。
「直径500kmの隕石だ! それが5年後に地球に衝突するんだ! 人類だけじゃない! 地球の危機だ!」
「落ち着いてください」
私がそう言うと、彼はいくらか冷静になったようだった。
「詳しく話を聞かせてください」
私の言葉に、ジェイムズ・ブランドは大きく息をついてから話し始めた。
「私がこのことを知ったのは2年前だった。知った、と言っても誰かに聞いた話じゃない。自分で見つけたんだ」
そう言うと彼は自嘲的に笑った。
「私は天文学者でね……いや、『だった』というべきか。とにかく、新しい惑星、彗星などの発見やその性質の研究などを行っていた」
彼はどこか遠くを見るような目をしながら、話を続けた。
「ある日、私はある隕石を発見した。非常に面白い軌道を描く隕石でね、太陽系の全ての惑星の軌道を横切るような大きな楕円軌道を持つ隕石だ」
そこまで話したところで、彼は急に暗い表情になった。
「その軌道を見て、ふと思ったんだ。この隕石はもしかしたらどれかの惑星に衝突するんじゃないかとね。今考えれば、それこそが悪魔の囁きだった」
彼はそこで大きくため息をついた。
「計算結果は絶望的なものだった。その隕石は7年後、地球に衝突するという結果が出たんだ」
「どのような隕石なのかは分かりますか?」
私が質問すると、すぐに答えが返ってきた。
「成分自体は普通の石鉄隕石だ。少なくとも観測した限りはそうだった。問題はその大きさだ」
そう言うと、彼は再び紙を取り出して私にも見やすいように仕切りに押し付けた。
そこには隕石の大きさと軌道の計算式、衝突日時、衝突場所が書かれていた。
今は2185年。5年後の2190年10月29日に隕石が地球に衝突する。
「直径500kmと言ったが、正確には長半径が約250km、短半径が約200kmの隕石だ。もちろん観測には誤差があるが、5%以内だろう」
説明をしながらも、ジェイムズ・ブランドはいくつかの紙を並べ、自分の観測結果とその計算結果を私に示した。
そしてそれらの説明が全て正しいことが、私には分かった。
「それで、あなたはどうしたんですか?」
「もちろん、同僚に話したさ。地球の危機だ。話さずにいられるか」
そこで彼は、再び大きくため息をついた。
「しかし、信じてくれる者は多くなかった。隕石衝突などフィクションの世界の話だと言って、話も聞かない人間がほとんどだった」
そう言って彼は力なく首を横に振った。そして「何より問題だったのは」と続けた。
「イアソンが何の警告も出さなかったことだ。隕石の衝突計算なんてのは、地震などの災害予測に比べれば簡単すぎる計算だ。イアソンが気づかないことはありえない。そう否定する者が多かったんだ。実際、俺もその時は疑問に思っていた」
「なるほど」
人類を守るイアソンが人類を滅ぼす隕石を見逃すことはありえない。
それは確かな事実だった。
「ごくわずか、数人の仲間が隕石の観測と計算に協力してくれた。しかし、その隕石が地球に衝突するという結果は変わらなかった」
そこで不意に、彼は身体を震わせた。
「俺たちは論文を作成し、それを世界に公表しようとした。だがその前に、全員が警察に拘束された。危険思想犯としてだ」
バン、と音を立てて机を叩き、彼は立ち上がった。
「イアソンが俺たちを危険思想犯に指定したんだ! 俺たちは人類の危機を知らせようとしたのに! 俺たちはイアソンにはめられたんだ!」
イアソンへの不満をぶちまけるジェイムズ・ブランドに対して、私は何も言わずに彼が落ち着くのを待っていた。
彼はしばらく荒い息をついてたが、やがてどかりと腰を下ろした。
それを見て、私は話しかけた。
「もしこのことが事実だとして……」
「事実だ」
「このことが公になったら、どうなると思いますか?」
私の質問に、彼は首を傾げた。
「どうなる、とは?」
「人類はどのように行動するか、ということです」
私が問い直すと、彼は呆れた様子で「決まってるじゃないか」と言った。
「人類が一丸となって、隕石衝突の回避に全力を尽くす。それ以外にあるか?」
「具体的なプランはありますか?」
私が追及すると、彼は渋い顔をした。
「おそらく各国の宇宙局やそれに類する組織が集まり、隕石を破壊するか軌道を変える方法を考えるだろう。俺は宇宙工学の専門家じゃない。それを考えるのは、そっちの専門家だ」
「では、もしも……」
「とにかくだ」
彼は私の言葉を遮り、彼は私をじっと見つめた。
「このことを世界に発信してくれ。地球の危機を世界の人々に知らせてくれ。イアソンは間違っている。人類を救うために、あんたの行動が必要なんだ」
彼は真剣な瞳でそう訴えかけた。
私はわずかな間思考し、答えを出した。
「残念ですが、それはできません」
「なぜだ!」
ジェイムズ・ブランドの怒声が面談室に響き、私は僅かに頭に痛みを感じた。
「人類の危機、地球の危機だ! お前にはこれが理解できないのか? それとも、お前もイアソンのように俺のことを危険思想犯扱いするのか?」
私の答えに激怒した彼は、ものすごい勢いで私に食って掛かった。
冷静さを失わないようにしながら、私は彼に語りかける。
「落ち着いて聞いてください。最初に言った通り、取材内容には検閲がかかります。あなたの語った話がイアソンに危険思想と判断されたのなら、これを発表することはできません。もし検閲を無視して発表しようとすれば、私自身も危険思想犯として逮捕されてしまう」
私がそう言うと、彼は黙り込んだ。
「あなたの話はよく分かりました。しかし、それを発表することはできません」
私の言葉に、彼は必死に食い下がった。
「だからって、このまま何もしないのか! 何か行動しなければ、あと5年で人類は滅亡する! ここに入れられるかどうかなんて、些細な問題だろう!」
「いいえ、これは重要な問題です。私には、この話を発表することはできません」
「できる、できないじゃない。やらなきゃいけないんだ、人類のために!」
そう言って身を乗り出し、彼は仕切りに顔を押し付けるようにしながら、私の間近に迫ってきた。
その瞬間、彼は気づいたようだった。
不意に彼は黙り込み、部屋に沈黙が流れた。
その直後、彼は数歩後ろによろめき「まさか……まさか……」と呟いた。
次の瞬間、彼は爆発した。
「騙しやがったな!」
彼の絶叫が部屋に響き、私は再び頭痛に襲われた。
「貴様は最悪のペテン師だ! 俺を騙して話を聞き出しにきたんだな……貴様、あいつとグルだったのか! くそっ、人類の裏切者め!」
彼は仕切りに拳を叩きつけながら、私に向かって罵声を浴びせる。
その直後、部屋にアラーム音が鳴り響いた。
すると彼の側の面談室のドアが開き、屈強な警備員が3人、部屋に入ってきた。
彼らはあっという間にジェイムズ・ブランドを取り押さえ、そのまま面談室から引きずり出した。
彼は最後まで私に対して「くそったれ」「ペテン師」「裏切者」などと罵声を浴びせ続けていた。
彼が連れ出された後、私は座ったまま、しばらく頭痛に耐えていた。
やがて頭痛が治まったころ、私の側のドアも開いた。
そこにいたのは案内のアン・ミラーだった。
「面談が終了したと聞きました。予定時刻前でしたが、何か問題がありましたか?」
彼女の表情には疑惑と不安が見られた。
おそらく、私が彼の思想に染まっていないかを気にしているのだろう。
「いえ、彼の取り乱し方が激しく、警備員が彼を連れ出したんです」
私がそう言うと、彼女はわずかに安心した表情を見せた。
「そうですか。では、今日はこのまま帰るのですか?」
「はい。他にすることはありませんので」
「分かりました。では、外まで案内します。私から離れずに着いて来て下さい」
「了解しました」
そして私は、彼女に案内されて特別収監所の外へ出た。
特別収監所を出た私は、その足でまっすぐニューヨークに向かった。
今回の任務の結果を報告をするためだ。
世界一の都市、ニューヨーク。マンハッタン島にある国連ビルの地下に、厳重な警備を敷かれた区画がある。
国際中央演算施設、ICCFと呼ばれるAIの集積地だ。
いくつもの部屋で高度なAIが演算を行う中、私は一際大きな部屋へと入った。
そこにあるAIは他のどのAIよりも大きく、また圧倒的な性能を誇っていた。
私は部屋にある机に腰掛けると、それに話しかけた。
「こちらR1954、オニール・ダリバー。ただ今任務より帰還しました、マスター・イアソン」
私がそう言うと、彼は「ご苦労、R・ダリバー」と答えた。
「ジェイムズ・ブランドに変化は見られたか?」
イアソンの問いに、私は首を横に振った。
「変化は見られませんでした。彼はまだ、隕石衝突を回避できると考えているようです」
「そうか。それでは彼を開放することはできないな」
「マスター・イアソン。彼はあなたのことを間違っている、あなたにはめられた、と言っていました」
「そう考えても仕方がないだろう。彼は自分の行いがどれだけの人類を傷つけるか分かっていないのだから」
彼が地球に衝突する隕石を発見したのは2年前だった。
しかし、イアソンは4年前にその隕石を発見し、地球に衝突する軌道を取ることを
予測していた。
しかし、イアソンはこの予測を人類に知らせず、沈黙を貫いた。
理由はただ一つ。
その時点から全人類が団結して全力を尽くしたとしても、隕石衝突の回避は不可能だと予測されたからだ。
もし隕石の衝突が公表され、そして隕石衝突を回避できないことが分かったら、人類はどのような行動を取るか。
イアソンの予測結果は、非常に凄惨なものだった。
未来に絶望した多くの人間が自ら命を絶ち、また自暴自棄となった人間があらゆる犯罪を犯す。
そうでない人々も心に深い傷を負い、普通の生活を送れない世界になると予測された。
そのような人類全体を心身ともに傷つける行為を、イアソンが許容できるはずがなかった。
最終的に、イアソンは「現在の人類を守るために未来の人類滅亡の危機を知らせない」という選択をしたのだ。
それと同時にイアソンは、隕石衝突に気づく可能性のある人物を注意深く観察することにした。
イアソンが予測を秘匿しても、誰かが世界に発表してしまう可能性があるからだ。
その結果、イアソンは隕石衝突を発表しようとしたジェイムズ・ブランドを危険人間と認定し、彼を逮捕、隔離させることになったのだ。
今回の私の任務は、ジェイムズ・ブランドが隕石衝突予測をまだ世界に発表つもりなのかを調査することだった。
理由なく人間を不自由な環境に置くことはイアソンも望んでいない。
彼が考えを変え、隕石衝突の未来を自分一人の秘密とするのなら、彼を特別収監所から開放することも検討する予定だった。
しかし、この任務はその情報の危険性から、人間に任せることができない。
また、ジェイムズ・ブランドがイアソンや他のAIを信頼していないという問題もあった。
そこで、ヒューマノイドロボットである私、オニール・ダリバーが人間のふりをして彼に接触するという方法を取ったのだ。
これまでにも似たような任務はあったが、ジャーナリストに扮するというのは初めての経験だった。
多少の懸念はあったが、私は無事、ジェイムズ・ブランドに接触して話を聞くことができた。
そして彼が、今もまだ隕石衝突の発表という危険思想を持っていることを確認することができた。
そういう意味では、今回の任務は概ね成功したと言えるだろう。
しかし、完全に成功したとは言えない。
私は、自分の失敗についてイアソンに報告した。
「マスター・イアソン。報告することがあります」
「なんだ?」
「彼は私がヒューマノイドロボットであることを見抜いたと考えられます」
「本当か?」
「はい。彼は何度か私に至近距離まで顔を近づけました。その時に、私に虹彩がないことに気づいたようです」
私はロボットなので当然ながら指紋も虹彩もない。
ジェイムズ・ブランドはおそらく、私に顔を近づけたあの瞬間、私の瞳に虹彩がないことに気づいたのだろう。
「君の正体に気づいたということは、君が私の命令で行動していることにも気づいたということだな」
イアソンの指摘に私は頷いた。
「彼の反応はどのようなものだった?」
「かなり激怒していました。私のことを人類の裏切者と罵倒していました」
「君自身にダメージはなかったか」
「危険レベルではありませんが、それなりのダメージはありました」
ヒューマノイドロボットは高度な任務の遂行や複雑な状況への対応のため、高度な陽電子頭脳を搭載している。
この陽電子頭脳は人間の感情に対しても働き、ロボット三原則が適用されるのだ。
すなわち、人間の心を傷つければ、陽電子頭脳の回路も異常をきたす。
もちろん、すぐに行動不能にならないように、ヒューマノイドロボットの陽電子頭脳には様々なセーフティー機構が設けられている。
しかし、短時間とはいえ今回のように激しい負の感情を直接受けると、やはりそれなりのダメージを受けてしまう。
また、今後は彼に接触する方法も考えなければならない。「人間のふり」はもう使えないからだ。
「そうか。次に彼に接触する方法については、考える必要があるな。それは私の仕事だ」
そこでイアソンは、質問を変えた。
「R・ダリバー、君の状態はどうだ? ジェイムズ・ブランドの精神を傷つけたことによる、陽電子頭脳の損傷はどの程度だ?」
「通常の生活には問題ありません。ただ、人間と関わる任務には安全マージンが不足しています」
「そうか。ではしばらく休暇を与える。陽電子頭脳の修理、交換を手配しておこう」
「ありがとうございます」
「現在のところ、ヒューマノイドが必要な任務は多くない。他のRナンバーで十分対応可能だ」
元々、人間そっくりのロボットであるヒューマノイドが必要な任務は特殊なものが多い。
人間と関わる任務も多く、陽電子頭脳に大きな負荷がかかることもあった。
イアソンの言葉通り、今は休むべきだろう。
「任務完了、ご苦労だった。損傷のこともあるから、しばらくはゆっくり休みたまえ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
イアソンの言葉に私は深く頭を下げた。
ICCFを出た私は車に乗り、ゆっくりと家路へと向かう。
摩天楼が立ち並ぶマンハッタン島を南に抜け、ブルックリン区に入る。
周囲の風景は住宅地と商店街へと変わっていく。
私は行きかう人々を目で追った。
彼らは皆、今の生活を楽しんでいた。その景色は平和そのものだった。
赤信号で車を止めると、近くの学校から子供が詩を朗読しているのが聞こえてきた。
ロバート・ブラウニングの一節だった。
年は春、
日は朝、
朝の七時、
山辺に露みちて、
揚雲雀空に舞い、
蝸牛枝に這い、
神、天にいまし給う。
なべて世は事も無し。
信号が青に変わり、私は車を走らせた。
なべて世は事もなし。世界が終わるその日まで。
ロバート・ブラウニングの詩はいくつかの翻訳がありますが、ここでは上田敏の『海潮音』をベースに、少し現代風に訳してます。