東条コード
事件当日に下坂が加わっていた引越しを依頼していたのは樫本泰邦という人物で、東条コード株式会社という会社の総務部長であった。この会社は年商約100億円の中堅企業であるが、最近丈夫な素材を使ったスマートフォン用ケーブルが「破損しにくい」とネット上でも話題となり、売り上げが好調である。海外にも多く輸出され「世界のトージョー」と呼ばれつつある。
小川とシスター・マリエッタは樫本に会うためにこの東条コード株式会社を訪ねた。
行く途中の電車の中でマリエッタが思い出したように訊ねた。
「小川さんは佐々木家の近所も聞き込みされたんですよね。その中に犯人の姿を見た方はおられなかったのでしょうか?」
「もちろん向こう三軒両隣と当たっては見ましたが、犯人を見たという人はいなかったですね。まぁ、聞けた話と言えば、あの夫婦は仲が悪くてしょっちゅう喧嘩してますよとか、あの夫婦実はできちゃった婚なんですよとか、そんなゴシップ系のネタばかりでしたよ」
「そうなのですね」
マリエッタは素っ気なく返事した。小川の話の後半は聞き流しているようだった。あまり下世話な話題には興味ないらしい。余談であるが彼らが車を利用せず、公共交通機関を利用しているのは、ベタニア修道会の規則で修道女は密室で一人の男性と一緒にいてはいけないと戒められているためである。
東条コードに着くと、彼らは応接室に案内された。最近改築、増築されたのだろうか。近代的で清潔感がある。小川とマリエッタがソファに座ると、間もなく樫本がやってきた。
「総務部長の樫本です。警察の方がどのようなご用件でおいでなのでしょうか?」
樫本の口調にはわずかに警戒感が感じられた。もっともいきなり警察がくれば誰でも多かれ少なかれ警戒するものではあるが。
「実は樫本さんがミキリク引越しセンターを利用してお引越しなさった日なんですが、ちょうどその時に殺人事件が起こっておりまして、その被疑者の一人が引越しチームの中に含まれていたのです」
小川が“殺人事件”という言葉を口にした途端、いっそう警戒の色を強めてきた。
小川はさらに続けた。
「そして当日一緒だったメンバーに話を聞いたところ、確かに彼は一緒にいたと言うのですが、どうも様子がおかしいのです。それで依頼主である樫本さんなら何かお気づきになっていることがあるのではないかと思いまして……。些細なことでも結構ですので、何か気になったことなどはありませんでしたか?」
小川が聞くと、樫本はしばらく天上を見つめて考えるようにして答えた。
「いいえ、特になかったように思いますよ」
「そうですか……」
その時、マリエッタが突如質問した。
「東条コードのスマホケーブルが丈夫で評判とのことなのですが、他社製品よりどのような点が優れているのでしょうか?」
小川はマリエッタの場違いな質問に首をかしげた。樫本は無難な話題で渡りに船とばかりに自社製品の優れた点を列挙し、雄弁に語った。話を聞いたマリエッタは「……お話、感謝します」と言った。そして小川とマリエッタは大した収穫もなく、東条コードを後にした。
「樫本さん、何か隠しています」
帰りの電車の中でマリエッタは小川に言った。「彼の魂の呻き声が『あのことが聞かれなくてよかった』と言っているように聞こえました」
「マリエッタさん、それを聞くためにあのような質問をしたんですか?」
小川がやっと理解出来たというように聞いた。
「はい、どんなことでも声を出していただければ、その方の魂の呻きが私には聞こえてきますので……」
樫本の魂が呻いて言った〝あのこと〟とは、一体何のことだろうか。小川は考えてみた。
その時、小川の携帯が鳴った。
「もしもし、小川です」
「あの、ミキリク引越しセンターの宮沢ですが……」
良いタイミングだ、と小川は思った。
「ああ、宮沢さん。お電話お待ちしていました」
「お話したいことがあります。今日にでもお話ししたいのですが……」
宮沢は誰かに聞かれていないかと気づかっている様子だった。
「では……お話がお話ですから外部に漏れぬよう、勝小田警察署でお話しを聞くことにします。よろしいですか?」
「わかりました。では伺います」宮沢が言った。
こうして小川とマリエッタは再び宮沢と会うことになった。