下坂正史の場合
小川たちと下坂とは勝小田市にあるカフェ・ブルータスという喫茶店で落ち合うことになった。
「何度もすみません。また前回と重複して質問することがあるかもしれませんがご了承下さい」小川が言うと、下坂は冷淡に力なく答えた。
「どうぞ。私はもう何も失うものもありませんから……」
そう言う下坂の様子をシスター・マリエッタが伺っている。何か“呻き”が聞こえてくるのだろうか。
「……で、シスターさんがどうしていらっしゃるのですか」
下坂は世の中の不条理でも尋ねるかのように聞いた。
「こちらのシスターには捜査協力してもらっています。一種のプロファイリングのようなものとご理解下さい」
「はあ」
「下坂さんは被害者の通う小学校の教師をされていたということですが、被害者との面識はなかったのですね」
「私が教師をしていた頃、彼女は同じ学校の児童でした。ただ、直接受け持ったことがありませんので、はっきりとどんな子だったかは覚えていません。事件の後、警察の事情聴取を受けた時に、そう言えばこんな子いたな、と思った程度です」
小川はマリエッタの方を見た。彼女のサインでは今のところ下坂が嘘を言っている様子はない。
「では、事件当日のアリバイのことですが……。当時下坂さんは引越しのアルバイトをされていたということで間違いないですか?」
「ええ、今でもしております」
「ちょうど事件のあった時間帯、勝小田市内の個人宅から隣県の新興住宅地まで引越しがあったということですね」
「……はい、その通りです」
下坂がそう言った時、マリエッタはいつの間に用意していたのか、小川の手に紙切れをこっそりと握らせた。小川が下坂に悟られないようにその紙切れを開いてみるとそこにはこう書いてあった。
──うそついてます──
うそ? 当時一緒に仕事をしていた人間に全て当たったが彼らは下坂が一緒だったことを証言している。どういうことなのか。
「わかりました。今日のところはもう結構です。ご協力ありがとうございました」
小川はここで切り上げた。当日一緒に仕事をしていた者たちに改めて聞く必要があると思ったからである。
「シスターさん、さっき下坂が嘘をついていると教えてくれましたけど、どのような呻きが聞こえてきたんですか」
小川はいま一度マリエッタに訊ねておいた。
「アリバイの話になってから、“あのことがバレるんじゃないか” と言うような魂の動揺がしきりに聞こえてきました。それも彼自身だけの問題ではなくて、他の第三者も関わっているようなのです」
マリエッタが話すのを聞くと、小川は低く唸った。思ったより大きなことが絡んでいるのかもしれない。