佐々木秀美の場合
小川とシスター・マリエッタは上野坂にある佐々木邸を訪問した。
「今日はシスターさんが一緒なんですか?珍しいですね」
被害者の母・佐々木秀美は不思議そうに言った。
「何度もすみません、佐々木さん。また改めてお話をお聞かせ願おうと思い、参りました……。お線香上げさせていただいてよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます。どうぞ。こちらです」
秀美はそう礼を言って仏間に案内した。小川が線香を上げている間、マリエッタは秀美に断って言った。
「私は信仰上の理由でお焼香は控えさせていただきますが、ここでお祈りお捧げしたいと思います」
そう言ってマリエッタは十字を切った。秀美もマリエッタの動作に合わせて頭を垂れ祈りの姿勢をとった。
「何度も同じことを聞くようで申し訳ありませんが、事件当時の出来事をお話しいただけますでしょうか」
小川は恐縮気味に聞いたが、秀美は少しも嫌がる様子を見せず、丁寧な言葉遣いで話し始めた。
「あの日私が帰宅したのは午後3時頃だったと思います。近所のスーパーへ買い物に行った帰りでした。そこの角を曲がったところで、1人の男がこの家から出て行くのが見えました。男は慌てた様子で逃げ去って行きました」
秀美は“そこの角”のある方を指差しながら言った。
小川は今一度確認するように訊ねた。
「その男の特徴を教えていただいてよろしいでしょうか?」
秀美は一旦を咳払いをしてから答えた。
「年齢は30代くらい、黒のニット帽にグレーのパーカー、そして紺のデニムのジーンズを穿いていました」
これは調書どおりである。
「話は前後しますが、後に面通しをされた時、その男が下坂正史でほぼ間違いないと思われたということですが、その決め手となったものは何でしょうか?」
「私は下坂とは面識がございませんでしたので、最初に目撃した時はそれが誰なのかわかりませんでした。でも、面通しをさせていただいた時、下坂の姿勢があまり良くないことに気がつきました。家から出て行った男も猫背でしたので、特徴が良く似ていると思ったのです」
姿勢……あまり人の着目しない点であると小川は思った。
「背筋が曲がっている男というのはそんなに珍しくなく、むしろ姿勢の良い男性の方が少ない気がするのですが?」
小川が素朴な疑問をぶつけると、秀美はもっともだという表情で答えた。
「人は自分の顔の表情や服装には気を使っても、案外自分の姿勢には気がつかないものです。そのために背筋の曲がり方にもそれぞれ個性があるのです」
おそらく秀美は普段から姿勢には気をつけているのだろう。彼女自身、背筋がピシッとしている。
「男の特徴については良くわかりました。では、お話しづらいことではあると思いますが、お嬢様が亡くなられた状況についてお話いただけますでしょうか」
小川は少し聞き辛そうに訊ねた。秀美は感情を表には出さずに淡々と述べた。
「家に入って娘の名前を呼びましたが返事はありませんでした。それで家中を探しまわったところ、バスルームの浴槽で娘が溺れているのを発見しました。慌てて抱き起こして蘇生を試みましたが息をせず、救急車を呼んで警察にも通報しました。私も救急車に同乗しましたが、その中で娘の死亡が確認されました」
「浴槽に水が張ってあったということですが、なぜ冷たい水が張ってあったのですか?」小川はそこが少し引っかかっていた。
「我が家では節約のために洗濯に風呂の残り湯を使っております。あの日はまだ洗濯しておりませんでしたので、まだ浴槽に水が張ったままの状態でした」
なるほど、家事をしない小川には気がつきにくい点であった。
「奥さんがお買い物に出かけている間、お嬢さんはお留守番をしていたということですが、その時お嬢さんはお家で何をなさっていたのでしょうか」
「私は娘が学校から帰ってから間もなく出かけましたが、その際に宿題をすませてピアノの練習をしておくように言いつけてから家を出ました」
秀美の語り口調はどのような内容であっても一貫して変化がなかった。それについては、娘の死というあまりにも過酷な事実が秀美の感情を麻痺させているのかもしれない、と小川は思った。小川の聞きたいことはほぼ質問し終わったが、その時になって初めてシスター・マリエッタが秀美に質問した。
「つかぬことをお聞きしますが……。奥様は言葉に関する仕事をなさっていたことはありますか?」
「はい、確かにスピーチライターの仕事をしていたことがありますが……」
秀美は予想外の質問を不思議に思いながら答えて言った。「なぜそのようなことをお聞きになるのですか?」
秀美の質問に、マリエッタは胸の高さまで手を上げて答えた。
「いえ、特に意味はありません。ただ、お言葉使いが上手だと思いましたのでそのようなお仕事についておられるのかと思いました」
「ちなみに、スピーチライターというのはどのようなお仕事ですか?」
小川には聞きなれない言葉だったので訊ねてみた。
「その名の通り、スピーチの原稿を書く仕事です。経営者や政治家などのスピーチはほとんどがスピーチライターの書いた原稿によるものなのです。また、著名人の名言というものも多くはスピーチライターが考え出したものなのですよ。ちなみに私は現市長のスピーチを担当させていただいておりました」
始終平坦だった彼女の語り口が、この時だけは少し誇らしげであった。他人の姿勢の良し悪しを細かく指摘する癖も、スピーチのアドバイスにそう言ったことが含まれており、職業柄身についたものなのだろう。
佐々木家を出てから小川はマリエッタに聞いた。
「マリエッタさん、あの質問の意図は何だったのですか?」
するとマリエッタは前を向いたまま答えた。
「あの秀美さんという方、ずっと“魂の呻き声”が聞こえなかったのです。そういう場合は全てのことに満足してストレスが何もないか、あるいは言葉のコントロールが上手で全ての呻きを言葉にしてしまう能力に長けているかのどちらかです。秀美さんの場合は後者でしょう。頭の良い方、言葉の仕事をされている方に良く見られる傾向です」
マリエッタはやや苦渋の表情を浮かべてそのように言った。
「では今の話の中で秀美さんが心で何を考えているかは読み取れなかったということですか?」
「その通りです。でもお嬢さんが亡くなられたのに……。もし私が亡くなられた裕子さんだったら少し寂しい気もいたします」
そう言ってマリエッタは少し悲しそうな顔になった。