〝能力〟のカラクリ
警察署というのは独特の雰囲気がある。紺色の制服に身を包んだ警察官の群れ。無愛想な刑事たち。そういうところは銀行や市役所とは明らかに違う。そんな灰色の空気が漂う警察署の中、少女らしいあどけなさの残る清純なシスターが悠々と歩いている姿は、嫌でも人目を引いた。
人は警察署にいると、別に悪いことなどしていなくても、何か罰せられそうな恐れを抱いてしまうから不思議である。ところが受付窓口にいた婦人警官はそれとは逆に、シスター・マリエッタが自分の方に近づいてくるのを見て、天罰でも下されるのではないかという恐れを感じた。
「恐れることはありません。女の方」
マリエッタは彼女の心を察して厳かに言った。
「は、はいっ!」
彼女は心を読み取られて、余計に恐れを感じてしまった。
「ベタニア修道会のマリエッタと申します。刑事課の小川様にお目にかかりたいのですが」マリエッタは彼女をなだめるように言った。
「は、はい、小川ですね。かしこまりました……」
受付の婦人警官は受け答え、落ち着きなく電話を掛けた。「あ、小川巡査部長、受付にマリエッタさんという方がお見えですが……はい、わかりました……。あの、マリエッタさん。小川は間もなくこちらに参りますのでお席でお待ちになってください」
彼女は終始慌てた調子で対応した。そしてマリエッタは目を閉じて言った。
「……感謝します」
ほどなくして小川がマリエッタに会いに来た。
「すみません、わざわざお越しいただいて」
「こちらこそ、先日はご足労いただいておりながらお構いできませんで。」
マリエッタも少し詫びるような姿勢を見せた。
「さあ、こちらへどうぞ」
小川はマリエッタをエスコートし、刑事部、警務部、総務部などが雑居する大部屋へと案内した。彼らが大部屋に入ってくると、後ろから若い女性の怒鳴り声が聞こえてきた。見ると、高校生と思われるケバケバしい少女が2人の婦人警官に取り押さえられてやってきた。
「離せって言ってんだろ! コラ!」
女子高生が叫ぶのをスルーするかのように婦人警官は取調室に連れて行った。勝小田署では過剰な取調べを防止するため、よほどプライバシーに関わる問題でなければドアを開けるなどして周りに聴こえる状態で取調べをすることになっている。
「これ盗ったの、君よね?」
「うっせー、知らねぇって言ってんだろ!」
「店員がちゃんと見てたって言ってたのよ」
「だから、知らねぇもんは知らねぇよ!」
するとマリエッタはその声のする取調室のドアをノックし、入室してお辞儀した。
「な、なんだよ。尼さん」
女子高生が訝しげに言うとマリエッタは彼女の目をじっと見つめ、少し間を置いてから言った。
『捕まってどうなることかと思ったけど、このおまわり、案外ちょろいな』
マリエッタの口調は女子高生そっくりであった。女子高生の顔から血の気が引いていった。
『もう少し粘れば釈放だ。ぜったい引かねえぞ』
取調べに当たった警官はわけわからずにいた。女子高生は気を失わんばかりだった。
『や、やめて。この尼さん、怖えーよ』
マリエッタがそう言うや否や、女子高生は恐怖のあまり椅子から崩れ落ちてマリエッタの足元に跪いた。
「ごめんなさい。言います、本当のこと言います、私が盗りました! どうかお許しを!」女子高生は泣きっ面で厚化粧もぐちゃぐちゃになっていた。警官が彼女を支えて抱き起こした。
一連の出来事を見た者たちは呆気にとられてしばらくものが言えなかった。小川もその一人だった。
「小川さん」マリエッタはその沈黙を破るかのごとく、小川に話しかけた。
「あ、ああ。じゃちょっと小部屋でお話しましょうか」
小川がそう言うと、マリエッタは軽く頷いて後についていった。
部屋に入ると、小川から話しかけた。「あのう、お飲み物は何にいたしましょう。もしかして宗教的にいけないものとか、ありますか?」
「奉仕中の飲酒以外は何を飲んでもかまいません。では、お水をいただけますでしょうか」
言われて小川はミネラルウォーターのペットボトルとグラスを2つ持ってきた。
「それにしても、驚きました……あなたの能力に。本来僕は理屈っぽい人間でして、非科学的なことやオカルトなどはまるで信じないのですが……」
小川がそう言うと、マリエッタは彼の目をじっと見て言った。
「初めに言っておきますが、私は超能力者でも魔術師でもありません。ただの人間です」
「でも、あんなに不思議なことが……あれが超能力でないとしたら、いったい何なのですか?」
そもそも非科学的なことを信じられない小川にとっては、理解できない現象ばかりであった。マリエッタは水の入ったグラスに口をつけ、話を続けた。
「人間は外側の体と内側の部分……魂や霊と言われている部分からなる、そのことは小川さんもご承知のことと思います」
「はい。そうだと思います」小川もそこで水を飲んだ。
「人の魂や霊と言われている部分はいつも呻いています。人間はある程度成長するとその呻きを言葉というものによって表現する方法を身につけます。つまり会話する、ということです」
マリエッタはそこまで言って間を置いてから続けた。「でも、魂の呻きはいつも言葉で言い表せるとは限りません。そうすると魂の呻きは膨らんでいってやがて限界に達すると声を通して発せられます。私はその魂の呻き声を聞いているのです」
小川には納得しにくい話だったが、マリエッタはそれを承知しているかのように丁寧に話した。
「しかしそれは一般の人間には聞こえないのですよね? そうするとやはり超能力の一種ということになるのではないですか?」
小川にはやはり超自然的な能力であるようにしか思えなかった。するとマリエッタは静かに答えた。
「実は人間には会話をせずに魂の呻きだけで話している時期があります。それはいつだと思いますか? 小川さん」
小川はいきなり振られて戸惑った。しかし良く考えた末にあることがひらめいた。
「もしかして……赤ちゃんの時ですか?」
「はい、その通りです」
思いがけず正解が得られて小川は嬉しさを隠せない。マリエッタは続けた。
「赤ちゃんはいつも呻いているだけ……でもそれによって色々な意思表示をしています。おっぱいが欲しい、オムツを替えて欲しい、抱っこしてほしい、眠たいなど。最初何を言っているのかわからなくて迷っているお母さんもやがて赤ちゃんが何を欲しているのかわかるようになってきます」
「つまり、シスター・マリエッタさんのお力というのは、お母さんが赤ちゃんの言葉を理解する能力の延長線上にあるということですか?」
「はい。私自身はそのように捉えています。大人は言葉という道具で情報をコントロールしますが、私にはその影響を受けずに純粋な心の呻きが聴こえてくるのです」
マリエッタは小川がわずかながらも理解を示したので安堵の表情を見せた。
「すると、そのお力で人間が心の中で何を考えているかわかっちゃうわけですか?」
小川はうかつにマリエッタの前で考え事できない、と思った。
「小川さん、大丈夫です。私には人の心そのものが読めるわけではありません。何も話さない人の魂が何を訴えているかは私にもわからないのです」
「でも、さっき万引きした女子高生の心を読まれましたよね……?」
小川がそう言うと、マリエッタは少し申し訳なさそうな顔をして答えた。
「実は……あれは手品です。私にも彼女が心の中で何を言ったのかはわからなかったのです」
「ええ?でもあんなにピッタリ言い当てていたじゃないですか?」
「あれは占い師などが使うコールドリーディングの技術を応用したものです。あらかじめ部屋の外で彼女の口癖やボキャブラリーを把握しながら、魂の呻きを聞き、彼女ならどういう風に言うだろうと想像しながらアドリブで話していました。つまり言い方は悪いですがハッタリです」
マリエッタはいたずらをした子供が親に叱られる時のように語った。「でも捜査の現場で、さも心が読めるかのように振舞うと、多くの方は自白されるのです。捜査協力にはそのようなやり方もあるということを示したつもりでしたが、嘘はよくないですよね……」
マリエッタが懺悔するように言ったが小川にはそれが罪に値するのかどうかさっぱりわからなかった。小川はその懺悔は横に置くようにして言った。
「能力の概要は何となくわかりました。早速ですが、聞き込みに同行していただけないでしょうか」
「はい。お力になれることであれば、喜んで」
こうして小川はいよいよマリエッタの〝賜物〟の力を借りて捜査を再開することになった。