現実主義刑事小川
山岡県勝小田市。大きすぎず小さすぎず、人が暮らしていくには丁度良い地方都市のひとつである。その中でもここ上野坂は閑静な高級住宅街であった。高所得者も多いことから普段から重点的にパトロールされている地域である。
およそ凶悪犯罪とは無縁と思われるこの地域に、遂に殺人事件が発生した。
事件現場は上野坂の一軒家で、大学病院の勤務医である佐々木幸次郎氏の邸宅であった。佐々木の妻・秀美は買い物からの帰宅時に家の中から30歳前後の見知らぬ男が出て来るのを目撃した。秀美は胸騒ぎがして家の中に駆け込むと、バスルームで小学生の娘・裕子が、水を張った浴槽の中でおぼれて意識を失っているのを発見し、119番と警察に通報したとのことである。小学生の娘は病院に搬送中に死亡が確認され、警察では殺人事件と断定し捜査に踏み切った。
捜査に当たったのは 勝小田署の若手刑事、小川理博巡査部長だった。小川はまず佐々木の妻・秀美から事件当時、家から出てきて逃げたという男の特徴を聞き出し、似顔絵を作成した。その似顔絵を使って市内全域捜査し佐々木幸次郎や妻、娘の関係者をくまなく聞き込みしてみたところ、2人の男が捜査線上に上がった。
1人目は松島健。被害者の近所に住む。30歳で無職、独身。幼児ポルノビデオの収集家として近所で知られており、子供をもつ親たちからは警戒心を持たれている。子供には松島家には近づかないよう厳しく言い渡している親も多いという。
2人目は下坂正史。被害者の通っていた小学校の元教師で、以前に児童に対するわいせつまがいの行為が明るみになり、辞職に追い込まれた経歴を持つ。現在はアルバイトを転々として生計を立てている。似顔絵の男にそっくりであった、と多数の父兄が証言している。
2人の事情聴取中、マジックミラー越しに佐々木秀美に面通しをしてもらったところ、目撃した男は2人目の下坂正史によく似ており、ほぼ間違いないと言う。ちなみに下坂は被害者・裕子の担任となったことはなく、秀美との面識はないとのことであった。また秀美は目撃した男は黒いニット帽、グレーのパーカーに紺のジーンズを刷いていたと証言していたが、下坂の家を家宅捜査したところ、該当する衣服が出てきた。それで容疑の色が濃くなり、重要参考人としてさらに捜査を進めることとなった。
しかし事件当時、下坂はバイト先で仕事をしていたと供述しており、その時一緒にいた同僚たち複数の証言も取れている。そのことで事件の捜査は膠着状態となっていた。
宮西署の沼田雅弘が訊ねて来たのはそんな時であった。
小川にとって沼田はかつての指導者であった。21ヶ月にも及ぶ警察教育の最後の5ヶ月間、小川は宮西署で実戦実習を受けた。沼田は小川より7歳上と比較的年齢も近く、厳しいながらも頼もしい兄貴分であった。
「おう、小川。元気か」
体格は良いが、背の低い沼田は鼻を高く上げ、威厳を保つように話す癖があった。話しかける時に「おう」と言うのが口癖だ。
「はい一応。珍しいですね。沼田さんが勝小田署まで来るなんて」
「おう、ちょっと話さないか」
と言って沼田は部屋の外に手招きした。小川は自販機コーナーに案内する。
「お前、あの事件でなかなか苦戦しているらしいじゃないか」
「あのバスルームでの溺死事件のことですか……」
「ああ、もしかして助けになるかもしれないと思って来たんだが……」
沼田は鼻の頭を指でなでながら言った。「ところで俺の検挙率、最近下がったと思わないか」
こういう場合何と答えたらいいのか。小川はあいまいにうなずく。
「実はこれまでの俺の検挙率の高さには理由があったんだ」
沼田は少なくとも、小川の実習期間中は宮西署で検挙率ナンバー1であった。
「どのような理由でしょうか」
「それがな、実は助っ人がいたんだ。それも若い若い女の子」
「若い女の子?」
小川は何だか危なっかしいな、と思った。沼田は女性関係に関してはだらしないところがある。全部明るみに出れば辞職に追い込まれるかもしれない。
「と言っても普通の女の子じゃない。教会のシスターさん。」
「シスターさんが、何で助っ人になってたんですか?」
小川は腑に落ちない、といった調子でそう聞き返した。
「彼女には特殊な能力があったんだ。人の心を読めるって言うのかな。捜査で行き詰まった時、証人や容疑者の心を読んでもらい、解決したケースが山ほどある」
超能力?冗談かと思ったが沼田の表情は真剣だ。それで小川は聞いてみた。
「でもそのシスターさんがどうして助っ人を辞めることになったんですか?」
「それが……実は恥ずかしい話だが、俺はそのシスターに不埒な思いを抱いてしまってな、それを見破られてしまった。それ以来、俺は彼女のところには行けなくなってしまった……」
小川は心の中で苦笑した。アホとしか言いようがない。でも男なら誰でも一瞬くらいは目の前の女性に不埒な思いを抱くこともあろう。
「それで、その話がどうして僕の助けになるんです?」
「お前、そのシスターさんに助けてもらえ。そうすればたちまち解決する」
沼田のその言葉に小川は目を丸くした。
「いや、無理無理。そもそも僕がオカルト系の話を信じられないこと知っているでしょう」
小川は理博という名前の示すとおり、理屈に合わないもの、非科学的なものを生理的に受け付けない。テレビのオカルト番組や都市伝説はおろか、血液型性格判断や電磁波の害、マイナスイオンなどに至るまで頑として受け付けないのだ。
「まあ、行き詰まった時には試しに助けてもらってみろ。俺も最初は半信半疑だったがな、実際に役に立つぞ、彼女は。一応教会の住所と連絡先は教えておくから、気が向いたら連絡してみろ。ちなみにそのシスターの名前はシスター・マリエッタという。本名は知らんがな」
「シスター・マリエッタ……」
「だが、くれぐれも不埒な思いを抱くんじゃないぞ。たちまち心を読まれるからな」
沼田のような30過ぎのオッサンが、若い女の子に不埒な思いを抱いてそれを見破られるなんて、なんとも間抜けな話ではある。しかし自分だってそうならないとは言い切れない。とりあえず騙されたと思ってその教会に行ってみよう、小川はそう思った。