夜の叫び
「……というわけで下坂さん。あなたのアリバイは崩れました。本当のことを言って下さい」
宮沢と樫本の供述により、下坂のアリバイが崩れた。それで小川は改めて下坂に任意同行を求めたのである。
「嘘をついていたことは謝ります。ですが僕は佐々木裕子ちゃんを殺していません」
此の期に及んでまだしらばっくれるか。小川はそう思って畳み掛ける。
「とぼけても無駄ですよ。信じられないかもしれませんが、こちらのシスターさんには心の中が読み取れるのです。はじめから正直に話した方が身のためですよ」
しかし下坂は怯むことなく訴えかけた。
「もしそうなら……シスターさん、僕の心を読んでみて下さい! そうすれば身の潔白が証明されるはずです!」
下坂の訴えは真に迫っていた。マリエッタに聞かずとも、嘘を言っているようには思えなかった。
マリエッタはしばらく沈黙した後、下坂に聞いた。
「では下坂さん。事件当時の朝、お仕事仲間と別れてから夕方再び合流するまでの間に何をされていたか、あらましをお聞かせください」
マリエッタがそう言うと下坂は落ち着きを取り戻し、当日のことを話し始めた。
「と言っても特別なことはしていないです。解散した時はまだ朝早かったのであまりすることはなく、喫茶店でモーニングを食べてました。その後は映画見て、お昼にハンバーガー食べて、午後はパチンコしてました。その後時間を見計らって集合場所に向かいました」
「……お話感謝します」
下坂をとりあえず帰した後、マリエッタが言った。
「下坂さんは本当のことを言っていました。犯人ではないと思います」
小川も直感的にそう思った。しかしその後、念のためパチンコ屋で下坂を見た者がいないか聞いてみた。すると何人かのスタッフは引越しセンターの作業着姿の男性が午後の時間中入り浸っていたと証言した。
下坂はシロ、か。
またふりだしに戻るだな。
そう小川が思った時、マリエッタが不意に訊いてきた。
「そう言えば小川さん、近所の聞き込みをした時、あの夫婦はしょっちゅう喧嘩をしているという話を聞いたとおっしゃってましたよね」
「ええ。確かにご近所の方の話と言えば、そんな話ばかりでした」
「私も一度その方のお話を聞きたいのですが……」
マリエッタのその言葉を受けて、小川たちは佐々木家の近所で再度聞き込みを行なった。
佐々木家のゴシップを一番喜んで話していたのは、西隣に住む主婦、山本敦子だった。表向きは友好関係を築いていながら陰では何を言うかわからないタイプの女性だ。ある意味では
聞き込みをするにはもってこいの相手である。
「警察の方が今日は何のお話しですか? まあ、今日はかわいいシスターさんまで」
敦子は興味深々に話した。おそらく刑事が若いシスターを連れていたことなども恰好の噂話となるであろう。
先に口を開いたのはマリエッタの方であった。
「以前に小川がお話を伺った時、お隣はよく夫婦喧嘩をするとおっしゃっていたそうですが、どのような様子だったのですか?」
「夜になると、毎晩のように隣から夫婦喧嘩の声が聞こえてくるんですよ。はじめは些細な口論なんですけど、必ず奥様がヒステリーになって、その後は大声で罵り合いですよ。たまにガラスの割れる音や物が壊れる音なども聞こえてきます」
敦子は隣家の夫婦喧嘩の様子を話しながら、小川に届きそうなくらい鼻息を荒くしていった。
「喧嘩話の内容はわかりますか?」
小川が聞いた。
「さあ、そこまでは……馬鹿野郎、死ね、あんたなんかと結婚しなきゃ良かった、それなら出て行けみたいなことは時々聞こえてくるのですが」
小川はそれを聞いて結婚は当分したくないな、と思った。マリエッタが続けて質問した。
「その喧嘩が始まる時刻というのはだいたい何時頃ですか?」
「9時頃だと思います。毎週楽しみにしている月9ドラマが始まる時に決まって怒鳴り声が聞こえてきて、いつもうるさいなぁと思っていましたから」
マリエッタはそれを聞いて思案顔になった。そして一瞬小川のほうをチラっと見てから敦子に訊ねた。
「すみません。今日夜9時にまたお邪魔してもよろしいでしょうか」
それを聞いた小川と敦子は声を揃えて「えっ」と言って驚いた。
「はい……かまいませんが」
敦子がそう言うとマリエッタはいつものように言った。
「……感謝します」
†
そして夜9時になった。
小川とマリエッタは再び山本家を訪ねた。さすがにこの時間、ご主人も帰ってきてくつろいでいる。小川は何だか申し訳ない気がした。マリエッタはかまわずに「お邪魔します」と言って家に上がっていった。ご主人と二人の子供は突然のシスターの訪問に目を丸くしている。しかもそれが隣の家の夫婦喧嘩を聞くためだとは。
敦子曰く、一番良く聞こえるという子供部屋に案内された。
「なかなか始まりませんね……」
小川がそういうとマリエッタは口に一本指を立てて “静かに” の合図をした。
しばらくジッとしていると夫婦の話し合っている声が聞こえてきた。聞き覚えがある。佐々木秀美の声だ。まだ喧嘩というほどではないが、決して楽しそうではない。そして急に秀美の声を張り上げる声が聞こえた。
「だから〇〇言ってるでしょ!何やってたの!」
はっきり何を言っているのかはわからなかったが激情しているのはわかる。
「お前が〇〇だからいけないんじゃないか!偉そうに言うな!」
始まった。犬も食わないという夫婦喧嘩だ。酷い罵り合い。これが本当に愛し合って結婚した夫婦なのか。できちゃった婚とはいえ、最初は好きなもの同士だったはずだ。若い小川にとってはトラウマになりそうなバトルだった。
ところがマリエッタはまるでコオロギの鳴き声でも聞くかのように耳をすませて聞いている。どうなってるんだろう、この感覚。そう小川は思った。
夫婦喧嘩がかなり盛り上がったところでマリエッタは立ち上がり、小川に言った。
「事件の真相がわかりました」
「えっ、わかったんですか。では署に戻って逮捕状請求しましょう」
小川が勇み足気味に言うと、マリエッタは手で制した。
「落ち着いて下さい。まだ魂の呻きが言ったことを聞いただけですから……」
そしてマリエッタは小川の目をしっかりと見つめていった。「明日、話の裏を取りましょう。そのために裕子ちゃんの通っていた小学校と水道局に行きたいのです」
「水道局? なぜに?」
小川の質問には答えず、マリエッタは挨拶をして山本家を後にした。小川はただマリエッタの後についていった。