5・誘惑
アパートの部屋に帰り、身構えながら玄関のドアを開ける。中をのぞくと、見慣れた靴箱と花模様のマットがあった。
りん子は買ってきたものを冷蔵庫や戸棚に片付け、ベランダに出た。この時間はもう日当たりが悪いので、洗濯物をさっさと取り込んでしまうのだ。
パジャマやタオルを抱え、サンダルを脱いで部屋へ戻ろうとすると、そこは異世界だった。
「嘘……」
深い闇に、粉のような星が散りばめられ、川を作っている。
果てしない漆黒と、乳白色の星、星、星。音もなく流れる星の川は、はるか過去から未来まで続いているようだ。
りん子はベランダの縁に立ち尽くした。
川の向こうに誰かがいる。闇の中にぽっかりと、緑の庭が浮かんでいる。目を凝らすと、紫の花や段々畑が見えてくる。細い蔓が地を這い、葉を茂らせ、そこに男が一人立っていた。
「待ってたよ、りん子」
男は手を振った。柔らかな髪に星の欠片が瞬いている。アーモンド型の目が、一等星のように明るい。
「ここは……?」
僕の家だよ、と男は言った。風が川を渡り、緑を揺らす。ダイコンの葉、テーブルビートの赤、絡み合うサツマイモの蔓、ハーブの香り。
不思議な懐かしさに、胸が高鳴った。
川が波打ち、景色を白く曇らせる。よく見えないわ、とりん子は言った。
「じゃあ来る?」
「えっ」
「りん子、うちに来る?」
男の目がりん子を見ている。いつかどこかで、もしかしたら何度も、同じ会話を交わしたかもしれない。
「全部あげるよ。この家も、庭も、僕が育てた野菜も、星を溶かした地下水も、全部りん子のものだよ」
頭がくらりとする。りん子は片足を踏み出した。そのまま暗闇へ落ちていきそうな気がしたが、軽い羽根に支えられたように、足を浮かせることができた。
「こういうのって普通、七月にやるんじゃないかしら」
「黙ってればわからないよ」
「ところで野菜は無農薬?」
「もちろんだよ」
もう片方の足も踏み出す。ゆっくり歩き、星の川に差しかかる。
ほとりに立つと、しぶきがきらめいて見えた。足を差し出してみると、ダイヤモンドダストを浴びたように冷たい。
「何かないの? 笹舟とか、かささぎのタクシーとか」
「ないよ。スコップとじょうろしかない」
りん子はため息をつく。川幅は、二車線の道路と同じぐらい。見たところ深くもなさそうだ。冷たいのさえ我慢すれば、すぐ向こうに着いてしまうだろう。
「行くわ!」
川に入ると、強い風が吹きつけた。抱えていた洗濯物が、腕からすり抜けていく。ハンカチや肌着が、星くずのようにこぼれて飛んでいく。
だめ、とりん子は言った。その途端、足下がぐらついた。
「きゃ……!」
冷たい川に、りん子は倒れ込んだ。さっきまでは浅かったのに、突然足が立たなくなり、沈み始める。どこまで沈んでも底が見えない。星の粉がまとわりつき、りん子の髪に結晶を作る。男の呼ぶ声も、もう届かない。りん子は宇宙の塵になり、凍りつきながら落ちていった。
気がつくと、そこは家のリビングだった。開け放しの窓から風が吹いてくる。りん子は洗濯物の山の上に倒れていた。
『残念だったな。時間切れだ』
低い声が、笑い混じりに言った。
りん子は乱暴に洗濯物をかき集め、別にいいわ、と言った。バスタオルをたたむと、光る欠片がきらっと落ちた。干している間に、ごみか何かがついたのだろう。
あっちに行きたいわけじゃない。私の家はここだわ、とりん子は誰にともなく言った。




