3・姫君
大通りを渡り、駅前の道に出ると、パンの香りが漂ってきた。買う予定はなかったが、つい吸い寄せられていく。
パン屋のドアを開けると、そこは異世界だった。
しかしりん子はもう足を踏み入れ、トングとトレイに手を伸ばしたところだった。
夕焼け空の下に、柿の木が立っている。天を仰ぐ枝にたくさんの実をつけた、立派な柿の木だ。
枝のひとつに、鳥のような影がとまっている。よく見ると、ほっそりとした少女が腰かけ、長い髪をなびかせているのだった。
おおむぎ こむぎ
籠の中の 姫が
ぱぱんと 弾けて
あっという間に 骨の粉
あどけない声で少女が歌う。
りん子は柿の木に歩み寄り、幹に手を当てた。少女は首を傾け、りん子を見下ろした。赤い唇が笑う。
「この柿はとても珍しいのよ。パンの味がするの」
少女は柿をひとつ取り、かじって見せた。まだ熟れていない、青い柿だった。そんなの美味しいはずないわ、とりん子は言った。
「あなた、あまのじゃくね。うらやましくてそんなこと言うんでしょう」
「うらやましくなんかないわ。パンの味なんて変なの」
「柿はビタミンが豊富だし、パンはお腹が満たせる。まさに一石二鳥よ」
少女はさらに柿を取り、両手に持ってむしゃむしゃ食べた。食べても食べても、少女の顔は青白く痩せていた。
「ねえ、ちょっと下りてくれば。ずっと高いところにいて、バカになっちゃったのよきっと」
「いやよ。もうすぐ王子様がやってくるの。柿の国の王子様と、パンの国の王子様が、競って私を迎えにくるのよ。あなた、嫉妬してるんでしょう。私に成り代わって、王子様と結婚するつもりね。いいわよ、私が先に選ぶから、余ったほうをあなたにあげる」
少女は熱に浮かされたように話し続ける。見れば見るほど気味が悪い。少女が投げ捨てる柿のへたや種は、ぺらぺらに薄かった。
「下りてきなさいってば。ひどい顔色よ」
少女は耳を貸さず、何個目だかわからない柿を食べている。
これは無理矢理にでも、目を覚まさせるしかないだろう。
りん子は幹を揺さぶった。
最初はびくともしなかった枝が、小刻みに震え出し、やがて左右に激しく揺れた。柿の実が次々と、耐えられずに落ちてくる。
「やめてちょうだい……やめて……ああああああっ」
少女は枝から振り落とされ、頭を打ちつけた。りん子がそばへ行くと、汚れた顔を上げ、恨めしげな目で見つめた。
「あまの……じゃく……め……八つ裂きにしてやる」
少女は額から血を流し、崩れて土に溶けていく。そこから亀裂ができ、落ちていた柿の実を飲み込んでいった。柿の木は幹ごと折れ、枝を落としながら倒れる。空が割れ、ちぎり絵のようになり、剥がれ落ちてくる。
少女が完全に溶けてしまうと、またしてもあの声が聞こえてくる。
『つまらない娘だ。さっさと結婚してしまえ』
「はあ? 何言ってんのよ。あんた何者?」
『私は異世界。転生するために生まれた』
「セクハラするための間違いじゃないの?」
声は答えない。景色は散ってしまい、もう何も見えなかった。代わりに温かい光が差してくる。
空は小麦模様の天井になり、甘酸っぱい香りが辺りを包んでいた。
「新商品の柿ジャムパン、ただいま焼きたてです」
店員がトレイを運んできた。ほどよい照り色のついた丸いパンに、柿の葉が飾ってある。りん子はトングで一つ取った。バターロールとメロンパン、そしてお気に入りの粒あんパンも買った。
パン屋は不思議な空間だ。際限なく食べられるような気になってしまう。