004
宿屋の奥は、むしろ表の看板よりも明るかった。テーブルの上には何個ものランタンが置かれており不気味さをより醸し出している。宿屋の主人はバーカウンターに立ち、信長と蘭丸に椅子に座れと指示した。どうやら客人を立たせるという無礼な事はしないつもりらしい。二人は遠慮なく座った。すると、長旅の疲れが少しだけ楽になった。疲労が溜まって足がパンパンになっていたが、座るだけでこうも違うのかと思う程、楽だったのだ。改めて、座れることの幸せを感じる二人だった。ところが、そんな二人に容赦ない現実を叩き込もうする男が目の前にいた。宿屋の老人はしわくちゃになった口をモゴモゴと動かして、口を開いた。
「悪夢の村の由来を知りたいか?」
よぼよぼな姿とは対照的に、老人はハッキリとした聞き取りやすい声を出した。この老人には、まだ声量の衰えはきていないらしい。
「そうだな。気になっていたところだ。是非、教えてくれ」
「分かった。では、話す前に何か飲み物を注文するかい?」
老人はパっとメニューを取り出した。信長と蘭丸は開かれたメニューを上から覗きこんだ。すると、メニューは他国の言語で書かれていて、上に日本語のルビがふられていた。不思議に思ったのか、横で蘭丸が「うーん」と言いながら首を傾げていた。
「これ、何語ですか?」
蘭丸は訊いていた。
「オランダ語じゃよ」
老人は聞き取りやすい滑舌で、オランダ語と言った。
「じいさん、オランダ人なのか?」
顔を上げて老人の顔を見た。確かに、良く見ると老人の顔は日本とは違う国で生まれたであろう形をしていた。肌が黒いのは日焼けかと思っていたが、どうやら黒人のようだ。老人はゆっくりと顎を上下に振って、「ふんふん」と気の抜けた音を出している。
「そうじゃ。わしは生粋のオランダ人」
「オランダ人のアンタが、なんで日本に?」
信長はサングラスの奥から強い目線を飛ばしている。その目線が人の心の奥底に入り込むような魅力的な眼差しのため、信長の眼力はサングラス越しであっても、相手に届いてしまうのだ。
「興味があったからじゃ。悪魔に支配された国に」
「オランダは悪魔が闊歩していないのか?」
「しておらぬ。悪魔が腰を据えておるのは日本だけじゃ」
老人は言った。他国には悪魔が侵攻していないのだと。
「それでは、お前の国では悪魔と共存して生きているのか?」
「左様。とっても仲が良い。お主みたいな混血も差別されることもなく、普通に暮らしている社会じゃ」
自然に言っていた。信長が混血であると。
「混血だと?」
信長の顔が歪んだ。サングラスで両目を隠しているので、バレる訳が無いからだ。それでも、この老人は信長が混血であると見抜いた。その要因を何か知りたい。そう思った信長は老人に聞き返したのだった。
「ホッホッホッ。やはりそうか。この村に寄る者は混血の村へ行く途中に寄る者ばかりじゃからの。お主もひょっとして……と思ったのじゃ」
「じいさん。かまかけたのか」
信長は内心ホッとした。もしかしたら、この老人は信長を魔界に連れ戻そうとする刺客か何かかと思ったからだ。しかし、それは信長の勘違いだったらしい。ここまで来れば、多少被害妄想が多いほうが、危機察知能力も高くなるものだ。
「信長殿。そろそろ、飲み物頼んでいいですか?」
蘭丸が訊いてきた。
「済まないな。ちょっと話しが長くなった」
ここで、信長は目線を落として再びメニューを見始めた。
「ホットミルクください」
蘭丸はホットミルクを頼むようだ。
「そう言えば、この村に入って急に肌寒くなったな。俺はブラックコーヒのホットを頼もうか」
「分かりました。少々お待ちを」
すると、五分程度で出来上がった。二人の前にはホットミルクとブラックコーヒーが並んでいる。ホットミルクは蘭丸が、ブラックコーヒーには信長が、同時に口をつけて飲んだ。味は普通である。特に目立つ感想も思いつかなかった。宿屋の飲み物だからこの程度の物だろう。そう思って、信長はコップをカウンターに置いた。
「で、悪夢の村ってどういう意味だ?」
信長は再びその話題を切り出す。
「悪夢の村か。そう言われ始めたのはつい最近の事じゃ。時期的には新しい村長が就任してからかの。この村で謎の夢を見るものが増えた。それも一人や二人ではない。村人全員が同じ夢をみるのじゃ」
老人はランタンの光で自身の顔を照らしながら喋っていた。
「ど、どんな夢ですか?」
恐る恐る、蘭丸が訊いた。
「口に出すのも」
老人は首を横に振っていた。余程、キツイ夢なのだろう。
「なぜ、そんな夢を見るのか心当たりはあるか?」
「理由は分かっている。新しい村長じゃ」
「だったら村長を止めさせろよ」
信長の言う通りである。嫌なら止めればいい。
「それが出来るのならとうにやっておる」
老人は絶望したかのような顔をしていた。
「止められないのか。村長の暴走を」
「村長は悪魔と契約して法外な力を身に着けた。その変わり、別人のように性格が豹変していった。村長に逆らおうとするものなら、耐えがたい苦痛と暴力が待っているのじゃ。だから誰も逆らえない。逆らおうともしないのじゃ。次第に村人は毎晩の悪夢に生気を失ってしまい、外に出る事をやめた。その点はワシも同じじゃ」
老人は悲しそうな顔をしていた。そんな老人を見かねたのか、蘭丸が信長の服を引っ張って、つんつんとしてきた。
「どうした?」
「助けてあげましょうよ。聞いていて可哀そうです」
「いいや。余所の村に干渉する暇はない」
「そんな。それは冷たすぎじゃないですか?」
「助けたければ、お前がやれ」
「もういいのじゃ」
そこに、老人が話しかけてきた。
「え?」
「坊ちゃんの気持ちだけ受け取っておこう。そこの兄ちゃんがおっしゃる通り、これはワシ達の問題じゃからの」
「でも」
「いいかい? 今晩この宿に泊まって、明朝にこの村から出て行きなされ。そうすればあんた方に被害は加わらんじゃろう」
「そういうことだ蘭丸」
「わ、わかりました」
口では「はい」と言っているが、明らかに納得していない顔だった。しばらくすると、宿屋の主人に寝床に案内されて、二人はそこで別々のベットで就寝した。お互いに「お休み」の言葉を交わした程度で、会話という会話はしなかった。