01
目が覚めたら素っ裸だった。隣には見知らぬ男が眠っている。
これはおそらく、いや、もれなく。なんなら確実に、正解率百パーセントで事後なのだろう。起きた出来事は決まっている。男女の夜の営みだ。素っ裸の自分、相手の男はパンツ一丁の半裸。どう考えてもヤられている。むしろやらかした。だって覚えていないのだ。行為の内容も、相手の男性の名前も。
三島 朝子は狭いパイプベッドの上に座り込み、呆然と室内を見回した。
自宅じゃない。簡素なワンルーム。だいたい8畳ほど。玄関に続くと思われる廊下の手前に炊事場がある。家具は冷蔵庫、テレビ、回転椅子、机の上にパソコン。衣服は――備え付けの嵌め込み型クローゼットがベッドの足元に見えた。ここに仕舞われているのだろう。
ベランダの窓には水色のカーテン。ベッドの脇のサイドボードに銀色のアナログ腕時計、携帯。
視線を落とすと、床にグレーのスーツと白いYシャツとネクタイが落ちていた。けれど散らかっていると感じるのはそれだけで、男の独り暮らしにしては片付いているほうだと思う。炊事場もフライパンなどの調理器具が備わっているわりにはキレイだ。きっと自炊して、ゴミも毎週欠かさず出している。
世帯主本人の容姿も悪くない。幸せそうな顔で寝息を立てる男の髪はキチンと散髪されていた。ヒゲも目立たない。そして、きっと朝子よりも二十、いや十五は年下だ。スーツが脱ぎ散らかされているところを見るとサラリーマンなのだろうが、まだまだ幼さの抜けない顔立ちをしている。私服で出歩けば大学生と間違えられる。そのくらいに彼は若い。
「……どうやって出会ったのかしらね」
小さく呟いた自分の声はカサカサに掠れていた。眠っていたせいか、前夜の行為で嬌声を上げ続けた為か。できれば前者であって欲しいと願いながら、水でも飲ませてもらおうと炊事場へ向かう。
素っ裸で歩き回るのもどうかと思ったので、身体に掛かっていた薄手の掛け布団を拝借した。微かな衣擦れ音が鳴り、眠っている彼が「んー」とむずかりながら寝返りを打つ。咄嗟に起きるな、と念じたのは未だ前夜の記憶が定かでないからだ。微かに頭痛がするので、記憶を飛ばした原因は酒だと思うのだが、「酒で記憶をすっ飛ばしちゃった、テヘ」で済まされる年齢はとうに過ぎている。朝子は来年には四十路を踏むアラフォー女子だ。彼氏はいない。それだけが唯一の救いか。
「う、むぅ……今、何時……」
願いも虚しく男は目を覚ましてしまったようだ。手探りでサイドボードの上の腕時計を取り上げ、ベッド脇に佇む朝子に背を向けて時刻を確認している。できることなら二度寝してくれないものか。まだ朝の六時だ。先ほど室内の様子を確かめた際に朝子も現在の時刻を知った。彼の会社が、もしくはこの家の所在が都心部から離れていない限り、起きるには早い時刻だ。というか飲んで女を連れ込んだ翌日である。普通に考えて、今日は休日であるべきではないのか。
しかし彼は身を起こした。「だりぃ」と呟きながら。「こんな晴れてんのに仕事とかねぇわー」と大きく伸びをしてベッドから下り、カーテンを開いた。学生時代にスポーツでもやっていたのか、なかなか逞しい背中である。正直、ほんの少しだけ見とれた。腕が長い。バスケットボールが似合いそうだ。
彼は背を向けたままなので、朝子には気づいていないようだ。しかし、いくら何でも気づくべきではないか? もしや彼も前夜の記憶をすっ飛ばしているのだろうか? それならむしろ好都合かもしれない。朝子だけが「酒に酔って誰とでも寝る尻軽中年女」という非難を受けることもない。何なら「酔った若者に半ば無理やり連れ込まれた哀れなアラフォー女子」を気取ることも可能だ。
「あの……」
意を決して、朝子は男の背中に声を掛けた。だが、彼は窓の外を眺めたまま振り向かない。
「あの、ちょっと」
寝惚けていて耳が遠くなっているのか、と少し大きな声で呼びかけてみた。されども彼は煌々と輝くお天道様に向かって深々と頭を下げている。続けて屈伸運動を始めたので太陽信仰ではない。どうやら身体を解しているらしい。朝子の呼びかけを完全に無視したままで。
「ねぇ、ちょっと君、聞こえてないの!?」
さすがに苛立ち、ドン、と床を踏み鳴らして声を荒げた。いっそ何も言わずに出て行ってやろうかとも思ったが、素っ裸に掛け布団を巻いただけの姿で外出するわけにもいかない。服を着ればよいとわかっていたって、服そのものが見当たらないのだからどうしようもないのだ。
「え、なに、なんだよ……?」
「私、帰るから。服、返して」
ぎょっとした顔でようやく振り向いた男へ端的に告げた。もう前夜に何が起きていたかなんてどうだっていい。男の名前も知らないままでいい。一瞬でも背中にときめいてしまった自分を抹消したい。だから抹消してしまおう。どうせ覚えていないのだから、なかったのと同じ。一度や二度の間違いを嘆き悲しむような純情さは、遊び倒していた大学時代に投げ捨てた。これでもモテていたのだ。若い頃は。
過去の栄光を省みて余計な苛立ちが倍増した。朝子を見ないように視線を彷徨わせながら、困惑しているらしい男の態度にも腹が立つ。こんな年増女を抱いてしまった自分が信じられない、とでも言いたいのか。
もう一度、ドン、と床を踏み鳴らして、朝日を背景に立つ男を鋭く睨みつける。
「ちゃんとコッチを見なさいよ」
「なんだよ、上から釣ってんのか?」
「上って何よ。天井ってこと? 何もないわよ?」
一応、頭上を見上げてみたが、くすんだ天井が見えるだけで特別なものは何も見当たらない。それなのに男は奇異な事態に遭遇したかのように表情を歪めて、抱えた両腕を擦っている。先ほどまで困惑だったものが怯えに変わっているように見えた。
「ま、まさか、アレじゃないよな……?」
ベッドの枠を辿ってソロソロと男が近づいてくる。
「アレって何? ゴキブリが出るとか?」
朝子も爪先立ちでその場から退こうとした。ゴキブリは昔から大嫌いだ。キレイに片付いているから平気だと思っていたのに。もしや、上の階の住人が汚れた部屋で生活しているのだろうか?
――これだからマンションは嫌なのよ。やっぱり一戸建てを買おうっと。
会社勤めを始めてから着々と貯め続けているマイホーム資金を脳裏に浮かべながら、天井を見上げて後ろに下がる。ゴキブリが降ってくるかもしれないのだ。足元なんて見ている余裕はない。
「うひょあっ!?」
一歩後ろに後退した瞬間、膝の力がカクリと抜けて、驚いた朝子は奇声を発した。それを掻き消すようにして盛大な音が鳴る。ガシャン、ドン、バキッ、と息つく暇なく混ざって、身体が床に叩きつけられた。これだけ盛大にこけたのだから当然痛い。全身に電気のような衝撃が走ったが、その中でも特にこめかみと腰が痛い。二日酔いの頭痛に加えて長年のデスクワークで朝子は腰痛持ちでもある。
「いたた……もう、本当に、ツイてない!」
腰をさすって床の上にさっと視線を走らせると、白いYシャツが目に付いた。きっとアレを踏んだせいでこけてしまったのだろう。あんなところに脱ぎ散らかしたのは誰だ、この部屋の主である男だ。
「ちゃんと片付けておきなさいよ!」
金切り声で叫んで、床に座り込んだまま身を乗り出す。
すると、同じようにしゃがんでいた男が、血の気の失せた顔色でさっと立ち上がった。
「や、やっぱり出るんだ」
「は?」
「そりゃ家賃が格安で、そういう話もあるって聞いてたけど……」
「何言ってんの?」
「ほ、本当だったんだ、本当にいたんだ」
「わかるように喋りなさいよ」
尋常じゃない男の様子に朝子まで怖くなってきた。何か変なモノでも見たのだろうか?
「ねぇ、何を見たのよ? ちゃんと言いなさいよ」
如何にも頼りなさそうな男だが一人にされるよりはマシだ。ジリジリと廊下に向けて後退していく男に四つん這いで近づいて、足首を握ろうとした瞬間――、
「ゆ、ゆ、幽霊が出たぁぁぁ!」
悲鳴を上げて男は駆け出した。
あっという間に短い廊下を通り過ぎ、バタン、とドアが閉まる音が聞こえてくる。
「ユウレイ?」
残された朝子はポカリと口を開けて首を傾げた。
そうして、ふと周囲を見回し、破損したクローゼットの扉の奥を覗いて驚愕した。
こけた時に破ってしまったのだろう、薄いベニヤ板で作られたクローゼットの扉には大きな穴が開いている。穴の奥には鏡があり――そこには宙に浮いた掛け布団だけが写っていた。
穴を覗き込んでいる朝子の姿はなく。
白い掛け布団だけが透明なマネキンに巻きつけたかのようにして浮いている。
「……もしかして、私が幽霊?」
鏡に向かって訊ねてみても、問いかける自身の姿すら映らない。
どこからか聞こえてくる雀の鳴き声を耳にしながら、朝子は今度こそ本当に呆然と座り込んだ。