第六章「真を知る頃に……」―2
耀太の姿を目にした途端、千紗は、ゆるりと目を閉じた。
ああ、もう、終わってしまうんだ、と――
「千紗……由梨亜。どういうことなんだ。今の、話は……それに」
耀太は、ギッと富瑠美達三人を睨み付ける。
「お前らは……一体、何者だ! 何故、由梨亜を姉と呼ぶ! 由梨亜には、弟妹はいないのだ!」
千紗は、思わず頭を抱え込んだ。
(そうだった……忘れてたっ……! お父様、あたし達に甘いところはあるけど……でも、それはあたし達に脅されたり結局娘だからっていう訳で……お父様、ほんとは頑固親父なの忘れてた……! 嗚呼、何で忘れてたんだろ……。由梨亜の親友としてあたしを認めてもらえるのも、睦月や香麻を認めてもらえるのも……他にもあれこれあるけど、とにかくすっごい時間が掛かりまくってたのにっ……!)
千紗は、自分の迂闊さに臍を噛む。
何故か、ここまで来るのに誰とも擦れ違わなかったせいで、四人ともどこかに出掛けてしまっているのだと思い込んでしまったのだ。
ちらりと由梨亜を見ると、もう茫然自失から抜け出していた。
その表情に浮かぶのは、深い、深い哀しみ――
「うん……今は、そうだよね……」
由梨亜は、小さな声で呟く。
それに耀太は眉を上げるが、由梨亜は全く頓着せず、ゆっくりと四人に歩み寄る。
そして、小さな声で言った。
「今まで……ずっと騙してて、ごめん」
それを四人が聞き咎める暇もなく、由梨亜は彼らに近付く。
そして、自らの額の辺りまで右手を挙げ、四人に向かって翳した。
由梨亜の突然の行動に、四人は一様に途惑った表情を見せる。
特に香麻は、途惑いを顔に貼り付けながらも歩み寄ろうとする。
「ゆ……由梨亜? 一体、どうしたって……」
その時、由梨亜の髪がふわりと舞う。
花鴬国から戻って以来、由梨亜はずっと髪を肩に付く程度の長さにしていて、それは決して長くはない。
だから、少し身じろぎしただけでは、髪の動きは目立たない。
そして、今の髪の動きは――それとは、全く違う物だ。
決して自然の動きではないし、そこまで大きく動く訳もない。
体の動きに連れて動いたにしては、あまりにも不自然で……そして、怪現象と取られても可笑しくはない物だった。
そして、由梨亜の周りを光の乱舞が取り囲む。
四人とも、大きく目を瞠っていた。
そして彼らだけではなく、初めて魔族の力が大盤振る舞いされたのを目にした些南美と柚希夜も、驚きに目を瞠っていた。
千紗と富瑠美は、前に見たことがあるのであまり驚かなかったが、辛そうに顔を歪めた。
千紗も富瑠美も、由梨亜が――富実樹が何をしようとしているのかを、悟っていた。
やがて、光の乱舞は納まり、由梨亜の髪も元に落ち着く。
四人は、不思議そうに目を瞬いていたが、やがてそれは、愕然とした表情に変わった。
「お前……お前、はっ……!」
耀太は、突然由梨亜を突き飛ばす。
あまりにも突然過ぎたせいで、由梨亜はその勢いに押され、後ろに倒れ込む。
だが、香麻ですら、それを助けようとはしなかった。
「んな、乱暴なっ……!」
「御異母姉様、しっかりなさって下さい!」
思わず富瑠美達三人が由梨亜に駆け寄ったのに対し、耀太は千紗に歩み寄ると、片腕で力強くぎゅっと抱き締め、凄まじい目で由梨亜達を睨み付けた。
「お前は……一体、誰だ! いつの間に、私達家族の中に入り込んだ! 去年、いや、一昨年か! それに『お姉様』ということは、お前は元々そこの奴らの姉弟か! 一体何の目的で、この本条家に入り込んで来た!」
その言葉に、千紗は思わず唖然とし、由梨亜を見詰める。
そして、何とか父の腕を外すと、愕然と父を見詰めた。
「ちょっと……ちょっと待って、お父様。……何で? 何で、去年か一昨年になるの? 十八年前か十九年前じゃないの?」
それに、耀太は怪訝そうに眉を顰め、思わず千紗は顔を引き攣らせた。
去年か一昨年にうちに入ってきた、ということは、由梨亜が『家出』から戻って来たということになっている時期とぴったり一致する。
千紗は冷や汗を掻きながら、由梨亜に手を貸した。
そして由梨亜を立たせると、香麻に向き直り、恐る恐る訊いた。
「ねえ、香麻……もしかして高二の時、気が付いたら由梨亜と付き合ってた~、てな記憶になってる?」
「あ、ああ……俺は、一体何で由梨亜と付き合ってたんだ……? 中学の時は、由梨亜はいなかったし、高一の時も……」
香麻は強張った顔で、愕然とした声で言う。
「……由梨亜」
千紗は、困った表情で由梨亜を見詰める。
「……うん。はあ、やっぱり、私の力が弱いからかなぁ……」
由梨亜は困惑した顔でぼやくと、再び瞳を閉じる。
「おい……おい、待てよ! 一体……一体、何がっ……!」
睦月が狼狽した声を上げるが、千紗はそれを無視した。
そんな言葉に構っていては、話は進まないのだ。
再び由梨亜の髪が舞い上がり、光の乱舞が起こる。
やがて、また由梨亜の髪が落ち着くと……由梨亜の体が、ふらりとよろめく。
「由梨亜!」
「御異母姉様!」
慌てて千紗と富実樹が由梨亜の体を支えると、由梨亜は微笑して見上げてきた。
「だい……だい、じょうぶよ。二人とも。ちょっと、力を使い過ぎた反動が来ただけだから……。それにしても」
由梨亜は、くすりと小さな声を立てて笑う。
「いつの間に……仲良くなったの? 二人とも」
その言葉に千紗と富瑠美は顔を見合わせ、剣呑な表情に変わると、互いに睨み合った。
「……私としては、大切な異母妹と親友が仲良かったら、嬉しいんだけどな……」
「ちょ、由梨亜! 何でこっちが先であたしが後なのっ?!」
「え、や、これは並立の関係であって、順番は大切度とか関係ないから……」
「むう……」
幼子のように頬を膨らませて口を尖らせる千紗に、由梨亜は小さな笑い声を上げる。
そして、視線を耀太達の所へと滑らせた。
やはり、呆然としているようだ。
由梨亜が先程解いた記憶では、千紗だけが本条家の娘だった。
『由梨亜』という存在は、どこにもなかった。
だが、恐らく今の記憶では――
本条家の娘は、由梨亜――本条由梨亜なのだ。
そして千紗は、彩音千紗。
由梨亜の、親友。
由梨亜の視界の中に、一人だけ、睦月が途惑った表情で立ち尽くしているのが見えた。
(そっか……睦月の場合、解くのは一回だけか……香麻は、二回だけど……ああ、あと、お父様とお母様は、もう一回やらなきゃ……あの二人の娘は、私じゃなくて、千紗なんだから……)
由梨亜は何とか体を起こすと、鋭さを孕んだ視線で父母と婚約者を見詰める。
「……由梨亜、お前……一体……」
耀太は呆然として、それしか言えない。
だが、香麻はそれとは対照的に、千紗と由梨亜に詰め寄った。
「由梨亜! 一体、どういうことなんだ! 俺は間違いなく、中学の時、お前と同じクラスだった! 勿論千紗も! でも、お前は本条由梨亜で……千紗は、本条千紗じゃない。彩音千紗だった! それに……夏休みが開けて、お前達が、倒れて……そして、次に学校に来た時には、『本条由梨亜』なんて存在しなかった! 千紗、お前が本条千紗と名乗って、クラスに入って来ていた! 『彩音千紗』じゃなくてっ!」
「うん……ごめんね、ごめんね、香麻。後で……後で、ゆっくり説明するから」
由梨亜はそう言うと、香麻の激情に駆られた言葉で何が起こったのかを理解し、愕然としている睦月を振り返って笑い掛けた。
「睦月も。……特に睦月は、よく分からないと思う。高校からしか、私達と関わっていないから。……でも、もうちょっと待って。まだ……本条耀太と本条瑠璃は、全部の記憶が戻っていない、から」
「ですが、御異母姉様! そのように衰弱なさっては……! これは、御異母姉様の体力を削るのでしょうっ?!」
「そうですわ! せめて、せめてもうしばらく時をおいて下さいまし!」
「これ以上なさっては、命にすら関わるのではないですか? 御願いですから、それだけは……」
弟妹達の必死の説得にも、由梨亜は頷かなかった。
「駄目よ。時間が開くと、色々と面倒なことになるし……それに、これができるのは、私しかいないから。だって、ねえ、貴方達は、使えないでしょう……?」
由梨亜の切なそうな言葉に、三人は詰まる。
『……それでは、わたくしがやりましょうか? 富実樹』
全員の視界の中に、うねる漆黒の髪が映った。
皆、突如として現れた透ける人物に、仰天して目を瞠る。
「あ、曾御祖母様!」
「え、癒璃亜様? あ、お久し振りです」
『ええ。一月振りですね』
癒璃亜は貝紫の瞳を瞬かせて微笑む。
それに対し、富瑠美達三人は絶句して立ち尽くしていた。
「御異母姉様……そ、その、ひ、曾御祖母様、ということは……」
「そ、それに、『ユリア』様……って、まま、まさか……」
「私達の曾祖母で『ユリア』という音を持つのは、御一人しかおられないはずでは……」
さすがの柚希夜も、顔色が蒼い。
「え、あ~、うん……正真正銘、この人がそうよ。ちょっと待ってて」
由梨亜は視線を彷徨わせて言うと、癒璃亜に向き直った。
「お久し振りです、曾お祖母様」
『ええ。少し、嫌な予感がして来てみれば……』
癒璃亜はぐるりと周りを見回すと、苦笑を洩らす。
『どうやら、凄いことになっているようですね』
「え、ええ……。その、曾お祖母様。突然で、申し訳ないのですが……」
『いいですよ、富実樹。それぐらいのことなら、わたくしにとってはさしたることでもありませんから』
癒璃亜はあっさりと言うと、耀太と瑠璃に向き直る。
突如として現れた体の透けた女性に、二人の許容量は軽くオーバーし、最早言葉もない。
癒璃亜はその貝紫の瞳を閉じると、二人に向かって手をかざした。
緩やかに波打つ長い漆黒の髪が、まるで水の中にいるかのように、緩やかに揺れ動く。
そして、その流れが落ち着く前に、千紗は由梨亜の耳元でこっそりと囁いた。
「ね、由梨亜」
「何? 千紗」
「何か由梨亜、色~んなこと後回しにしてない?」
「うっ」
由梨亜は思わず呻き、胸を押さえる。
軽くよろめいたのを支えながら、千紗はわざとらしく嘆息した。
「頑張ってねぇ、由梨亜。確かに今はさぁ、すっごく大変で、一々説明してたら切りないけどさ、後で説明しなきゃならない量、結構半端なくない?」
千紗の言葉に、由梨亜の顔が引き攣る。
「う……だ、ね……」
「まあ、全部後回しにしたのは由梨亜の責任だから、しょうがないかなぁ」
あっさりと言い切った千紗に、由梨亜は胡乱気な視線を向ける。
「……もしかしなくても千紗、説明手伝う気ないでしょ」
「アハ。ばれた?」
わざとふざけて言う千紗に、由梨亜は目を細め。
思いっ切り頭突きを食らわせた。
「あうっ」
……何だか、ガチッという、妙に生々しく痛々しい音が響いた。
今の体勢と、そして二人の身長差を考えれば、この結果は当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。
千紗はそのまま後ろに倒れ、わざとらしく顎を押さえる。
「ひ、ひだい! 由梨亜のあが~っ! もうひょっとで舌噛むとこらったやん!」
千紗のあまりもの口の回らなさに、由梨亜は大爆笑をする。
二人の掛け合いに、離れた所から睦月と香麻が冷たい目で見詰めていた。
「……なあ、睦月」
「……何だ、香麻」
「……あの二人、一体何なんだ? 元から双子らしくはないと思ってたし、本当に双子じゃないみたいだけど……」
目を眇めて言う香麻に、睦月はそっと訊ねた。
「香麻。あのさ……中学の時のあいつらって、一体、どういう奴だったんだ?」
睦月の言葉に、香麻は詰まる。
そして、ゆっくりと言葉を選びながら告げた。
「……何て言うか……大親友、だった。すっごく、仲が良くて……。俺は、中学の頃からしか――それも、夏休みまでの半年と少ししか、二人が揃っているところを知らないけど、それでも、すっごく仲がいいのは知ってたし、見て来た。部活も、二人揃って一緒だったし……。それに、小学校の頃から二人を知ってる奴も、確か……小五? くらいだったかな。その頃に由梨亜が転校して来てから、ずっと二人は親友だったんだ、って……言ってた」
香麻の少し辛そうな様子に、睦月は首を傾げる。
「……香麻?」
すると、香麻は自嘲するような、彼には似合わない昏い笑みを浮かべた。
「……あのさ、俺……由梨亜のことを、結構長い間忘れていた訳だよ。中一の夏から、高二の春まで」
「あ……ああ。そういうことに、なるのか……」
「ああ。だから、さ。信じられねぇんだよ。俺が、由梨亜のことを忘れてた、なんて……」
香麻は唇を噛み締めると、未だに千紗と言い合って、けれど笑っている由梨亜の姿を、怖いほど真剣な表情で見詰めた。
「……俺さ、いつの頃からかは、もう忘れたけど……中学に入ってすぐに、由梨亜のことが好きになったんだ。でも……相手は、本条家のたった一人のご令嬢だった訳だよ、その時は。いくら『彩音千紗』って言う庶民の親友がいても、たった一人だけの……将来は、絶対に家を継ぐことになる、正真正銘の貴族のお嬢様だ。だから……由梨亜のことが好きだって、自覚するのと一緒に、さ」
香麻は、不意に天井を見上げる。
そこにあるのは天井で、空ではない。
だが、その向こうにある蒼い色を見晴るかすような目で、香麻は天井を見上げていた。
「……諦めてた、んだ。絶対に……この想いが叶う時は来ない、って。……でも、夏休みが明けて……それで、由梨亜から告白されて……」
半ば放心状態の香麻に、睦月は顔を引き攣らせて訊いた。
「……って、おい、ちょっと待て。由梨亜から告白されたのか?」
「え、ああ、うん……それが?」
きょとんと目を瞠る香麻に、睦月は思わず額に手を当てた。
「おい、それ……お前、男の沽券がねぇだろ……。俺でさえも、あの男勝りな千紗からじゃなくって、俺から告ったんだぞ」
「…………」
香麻は沈黙すると、癒璃亜達の方を向いた。
「……とにかく、さ。俺は、どんなことがあっても、由梨亜のことが好きだってことだ。うん。特に、この記憶は贋物じゃなくて、本物らしいし」
香麻は知らず知らずのうちに、その頬に微笑を刻んでいた。
睦月はそれを見ると、苦笑を洩らす。
「……ん、まあ、な。それに関しては、俺も同感。ま、俺の場合、ほんっとに細かい違いしかないからかも知んないけどさ」
「細かい違い?」
「ああ。千紗やお前が、『本条由梨亜』という存在を知っているかいないかの違いさ。小さなことだろ?」
睦月はそう言って微笑むと、癒璃亜達の方を睨むように見詰める。
舞い上がっていた癒璃亜の髪が、徐々に納まって来ていた。