第三章「婚約者」―1
由梨亜は、とってもご機嫌だった。
日記帳は先輩の悪戯だと思っていながらも、先輩に直接訊ねることはできなくて少し苛々していたが、自分が初恋というものを体験できたことが分かり、千紗に貰った誕生日プレゼントのアクセサリーが気に入ったこともあり、その日はにこにこしっぱなしだった。
ある、耀太からの報告を聞くまでは。
その翌日、由梨亜が部活に行って帰ってきた午後のことだった。
「由梨亜、話がある。ちょっと来てくれないか」
そう耀太に言われ、由梨亜は客を迎える応接間へと向かった。
由梨亜がそこでしばらく待っていると、鈴南が誰かを連れて来た。
「失礼致します。どうぞ、こちらへ。由梨亜お嬢様がお待ちでございます」
「失礼します」
と、由梨亜と歳の近そうな少年が三人……。
由梨亜が呆気に取られていると、最初に入って来た、どこか気取っている少年が、取って付けたような微笑を顔に浮かべ、挨拶した。
「初めまして。僕は眞湖グループ第百三代総帥眞湖翔碁の三男、眞湖聡と申します。歳は十六です。貴女のような素晴らしい女性と知り逢えた僕はかなりの果報者でしょう。どうぞ僕のことをお忘れなきようお願いします。そしてこれから宜しくお願い致します」
と、昨日の由梨亜の誕生日パーティーで一緒に踊ったので初対面ではないものの、たったの二回目の由梨亜を口説き優雅に一礼し下がると、厳つく頑丈な体付きの少年が挨拶した。
「初めまして。僕は蔡条グループ第百十四代総帥蔡条瑛彦の弟の三男、蔡条護と言います。僕の二人の兄は子供のいない伯父の為に養子となり、一番上の兄は蔡条グループの跡取りとなりました。その為、僕がこのような晴れがましい栄誉に浴することとなり、とても光栄に存じます。歳は十五です。宜しくお願いします」
見た目とは大変裏腹に、かなり優しい口調で(演技かも知れないが)自己紹介と自分の宣伝を行うと、サッと一礼し、今度は護とは対照的な、あまり筋肉もついておらず、痩せていて、少し青白い顔で眼鏡を掛けた、学者タイプの少年が挨拶をした。
「初めまして。その、僕は紺城グループ第九十八代総帥、紺城智早の四男で、紺城早宮と申します。歳は、その、由梨亜さんと同い年で十三です。このような大役が、僕に務まるかどうかは分かりませんが、精一杯頑張るつもりでいるので、宜しくお願いします」
そう早宮が言い、頭を下げて一歩下がり、由梨亜は他の二人と並んだ三人を、眺めながら、
(さっきから『果報者』やら、『晴れがましい栄誉に浴する』やら、『大役』やら……一体、何を言っているのかしら……?)
と思い、由梨亜は自分の隣に立っている耀太を見上げ、訊ねた。
「お父様……この方達……は? 何故、今日家にいらっしゃるのでしょうか?」
「由梨亜、この方達は、由梨亜の婚約者候補だ」
「………………はいっ?」
裏返った声で、由梨亜は言った。
たっぷり、十秒間の沈黙だった。
「由梨亜、お前ももう中学生だ。婚約者を決めなくてはならない。今はまだ決めなくてもよい。だが最終的に、遅くても大学に入学する時に決めろ。時間はまだたっぷりあるからな。但し、この中の三人から、絶対に選べ」
耀太はそう由梨亜に言うと、
「さあ、今日は対面だけだからな。今後は、毎週土曜日の午後か日曜日に来てくれ。それでは、ありがとう。また来週」
そう言うと、耀太は
「鈴南、聡殿、護殿、早宮殿をお送りしてくれ」
と言い、部屋を去り、聡、護、早宮の三人は、
「それでは、由梨亜さん。また来週お会いしましょう」
とそれぞれ言い、鈴南に連れられて出て行った。
皆が部屋からいなくなった途端、由梨亜は近くのソファーに座り込んでしまった。
(そんな……せっかく、初恋ができたって言うのに……まあ、私は本条家の跡取り娘で、婚約者候補の存在がいるってことを忘れていた私も悪かったんだけど……)
そう思うと、もうやる気がなくなってしまう。
(せめて、携帯端末で千紗に連絡とってこのこと伝えないと……って嗚呼! 私、端末は内線用しか持ってないんだった! 千紗に外線で連絡しようにも、鈴南とかが見張ってる中で、どうしたらあんなことを言えるっていうの!? 嗚呼、もう……無理だよぉ……)
しかも、夏休み明けでもある、五日後の月曜日の二十四日にならなければ、部活すらない。
こうなってしまっては家から出ることすらも怪しまれ、出られないので、千紗の家にも行けない。
我慢して、耐えるしかなかった。
五日後、由梨亜は教室に行くと、真っ先に千紗に声を掛けた。
「ねえ、千紗。ちょっと……いいかな?」
「どうしたの? 由梨亜」
「ちょっと、ここだと話しにくい話だから……昼休みに、いい?」
「うん、別にいいよ? で、どこで話せばいいかな? 教室なんか論外だし……校庭だと、運動部とかが昼練しに来たり、遊んだりする人がいるし、食堂も……」
「だったら、屋上とか……どう? 屋上の、東屋みたいになってる、緑で囲まれていて、でもベンチのないとこ……」
「うん。わかった。じゃあ、ついでにお昼屋上で食べない? お昼食べながら話すような内容じゃなかったら、食べ終わってからでもいいし」
「ええ……そうね」
「じゃあ、あたし先生に許可取ってくるね」
「うん……お願い」
そう言った由梨亜の姿は、頼りなく、儚げで、長く由梨亜といる千紗には、何か思い悩んでいるということが分かった。
千紗は珍しく眉根を寄せて考え、結局答えは出なかったが、昼休みになれば分かることだ。
千紗は難しいことを考えるのを放棄し、とりあえず授業に集中することにした。
昼休み、二人は朝約束したように、屋上で食べていたが……二人とも無言で食べていた。
食べ終わった後、千紗は由梨亜に言った。
「ねえ、由梨亜。何、あたしに教室じゃあ言えないことって? 何のことなの? お弁当も食べ終わったし、言って?」
「うん……。あのね、千紗。五日前、あの私の誕生日パーティーの次の日、お父様が、十六歳で、眞湖家の三男の聡さん、十五歳の、蔡条家の会長の弟の息子さんで、二人のお兄さんがその伯父さんの養子となった三男の護さん、十三歳で紺城家の四男の早宮さんが……私の、ね……婚約者候補として、来たの。それで、高校を卒業してから大学に入る前の冬休みの間に、その三人の中から、婚約者を決めろって。ほんと、私……」
そう言うと、由梨亜は涙ぐんだ。
ちなみに、この全世界では、基本的に新年を迎えると同時に進級することになっていて、地球連邦も同じだ。
「あ……ちょっと、いい? 由梨亜」
「何……? 千紗……」
「あの、さ……由梨亜、まさか三人と結婚するわけじゃないでしょ?」
「うん……そうだけど……? 何当たり前のこと訊いてるの?」
「ってことはさ……必ず二人は選ばれない訳でしょ?」
「うん」
「選ばれなかったら、どうするの?」
「それは、ちゃんと男の跡継ぎがいる場合の女の子、または私みたいに女の子しかいないけどその子に姉がいる子とか、とにかく跡継ぎじゃない女の子と結婚するの。まあ、相手が一般庶民の漫画みたいな大恋愛もあるけど、確率としては、一パーセント未満ね。で、私みたいな跡継ぎ娘と婚約する場合、聡さん、護さん、早宮さんにとって、私は『第一婚約者』なの。で、さっき言った、跡継ぎじゃない女の子が『第二婚約者』。私が結婚した人の第二婚約者は結婚できないけど、将来にはいくつか方法はあるわ。まず、行かず後家になって一生屋敷に残る道。だけど、その道を選ぶ人は非常に少ないわ。第一、特別な理由がない限り親兄弟が追い出すわね。余程その家に役立つような特殊能力を持ってたり、とても外にもお嫁に出したりできないような人じゃない限り」
由梨亜はそう言って肩を竦めた。
「あと、自分の興味の高いものとか、自分に向いている分野を、専門学校とか大学とかで技術を手にいれて、庶民として一人暮らししながら働くの。それと、自分の家より身分の高い家に仕えることね。私の家で働いている女性は、ほとんどそうよ。鈴南だってそう。男性で働いている人は、特に次男が多いわね。何て言ったって、長男に子供ができずにもしものことがあれば、その後を継ぐのは次男だもの。他家にお婿に出したら、その結婚した人の子供がすっごい迷惑を被るわ。だけど、他家に仕えさせればそこの家との縁もできるし、いざとなったら仕事を辞めさせて家を継がせることもできる。お婿に出すよりかなりお得よ。もしくは、男女両方ともだけど、一般庶民と結婚する場合もあるわ。確率的に多いのは、他家に使える、一般庶民と結婚、独り立ちする、行かず後家の順番ね」
「へぇ……そんなことできるんだぁ」
「まぁ、結婚の場合、九十九・九パーセント政略結婚なんだけどね」
「はっ?」
千紗は、思わず訊き返してしまった。
貴族との結婚なら、政略結婚なはずだが、一般庶民との結婚なら、該当しないはずなのだ。
一体、何故――。
「一般庶民と言っても、本当は違うの」
「……え?」
「一般庶民って言っても、それなりに力はあるけどまだ一代目、二代目の成り上がりとか、お金をがっぽり溜めて寄付も何もせず富豪と呼ばれる家、それに政治家……その人達も貴族と庶民の区分で見れば庶民に入るから、政略結婚で庶民と結婚なのよ。それに、たとえ独り立ちしても、結局働く所は、自分の親とか親戚とかの会社や、その会社と繋がりがある会社。そしていざ結婚するとなっても、その会社の有力者と結婚してその伴侶が自らの家を裏切らないように……もしその伴侶が裏切ろうとしたら、自らの命を懸けてそれを止める……見張り役。それか敵対する会社、同じだけの力を持った会社に……もしかしたら、将来自分達に危害を加えるかもしれない会社の人と、事実上の人質として結婚するわ」
由梨亜はそう言うと、悲しげに目を伏せた。
「それに、この人と結婚したいと思って結婚する人は、ほとんどいない。私達は、そう言う風に育てられてないもの。私だけが例外な訳で……。まあ、他にもそういう人はいるかもしれないけど、その結婚したいと思っている相手がその家の条件に合わない人だったら、絶対に認めないわ。何があっても阻止しようとする。まあ、その条件に合わない人と駆け落ちしたらひとまず諦めるけどね。でも……もし、子供が産まれたら……最悪よ」
「えっ……何で?」
(駆け落ちしたら諦めるのに、子供が産まれたら最悪? つまり、諦めないってこと? 普通、逆なんじゃないの?)
千紗は、全く分からなかった。
「子供が産まれたことは、戸籍を見れば分かるもの。どんなに隠そうとしても。役所の人間も、貴族には逆らえないでしょうしね。そして、どこにいるのか見つけ出したら、その子供は実の祖父母の命令によって、親から誘拐される。そして、その両親は二度と子供に会えないまま一生どこかで働く。時にはその二人すら引き離すこともあるわ。でも……でもね、もし見つけられなくて捕まえられなかったら……そして子供がある程度大きくなったら、認めてくれるの。そして自らの娘、息子、孫として認められて、様々な便宜を図ってくれるわ」
「そうなんだ……でも、由梨亜は……」
「ええ。私には、できないわ」
そう言った由梨亜の顔には、諦めの色が色濃くあった。
「私には兄弟姉妹がいないし、父方の叔父さんや大叔父さんなんていないから、他に直系の跡継ぎはいないのよ。この本条家の跡を継げるのは、この私、ただ一人だけ。たとえ駆け落ちしたとしても、捕まって、家に閉じ込められて、一生、自由に外には出れなくなる……」
由梨亜の疲れたような、諦めたような声を聞き、千紗は胸が痛くなった。
「でも、諦めちゃ駄目!」
千紗は激しく、強く言い放った。
「千、紗……?」
思わず呆気にとられる由梨亜を尻目に、千紗は立ち上がって言った。
「あたしは、人を好きになるって、そういうものじゃないと思う! 勝手に決められて、好きでもない奴と無理やり結婚させられて、『後からいくらでも好きになれる』だなんて勝手なお題目を、さもあり得そうに言い切って……そんなの、生き物のすることじゃないよ! そして、そんなことをさせる奴は、絶対に生き物の生き方を知らないし、知ろうともしない! 少なくても、普通の生き物の心なんか持ってない! 由梨亜、諦めたら駄目だよ! 絶対に!」
「千紗……そんなことよりも……」
「何?! そんなことって!?」
「お弁当箱」
「……オベントウバコ?」
千紗は気勢を削がれ、ぽかんと間が抜けたように、オウム返しに言ってしまった。
「お弁当先に食べ終わってて良かったね。お弁当箱、膝から落ちて、転がっちゃってるよ」
「ちょっ……ちょっと、由梨亜! 気付いてるなら早く言ってよ! あ~あ、お弁当箱が砂まみれ……お母さんになんて言おう……」
その呆然とした声に、笑いを噛み殺しながら、苦笑するように、たしなめるように言った。
「千紗、何かを乗っけてそのまま立ったらどうなる? それは見事に従順に、重力従って落下するでしょうが。それに人の話に途中で割り込むだなんて、人としての礼儀に反するわ」
「あっ……そっか……」
「まったくもぅ。千紗ときたら。あっそうだ」
由梨亜は、なにやら鞄をゴソゴソと探った。
「え~っと……あった! はい、千紗。遅れてごめんね。これ、もう書いてたんだけど、あの婚約者候補のことがあって、お父様と鈴南達の目が厳しかったから、外に出にくくって。ごめんね」
「そっか……ありがとう、由梨亜。でもさぁ、この交換日記帳って、本当に先輩達の悪戯なのかなぁ?」
「えっ?」
「だってこれをするようになってから、由梨亜が変な視線感じたり、婚約者候補がいきなり出てきたりしたんでしょう? 何の前触れも、予兆もなしに。それって、変だよ。そんなの、いつだっていいのに。これは、偶然って言うの? もしかして、何かの力が働いているんじゃないのかな?」
「ま、まさか……ただの偶然よ。千紗らしくないわ。全然、科学的じゃないわよ」
「……だけど、きっと何かあると思う。だって、これ、変だよ。それに……悪戯ごときで、先輩達があたし達をつけるとは思えないし」
「う~ん……そんなこと言われても、ねえ……じゃ、今日の部活の時、先輩に問い質してみましょう? そうすれば、私の勘違いだったって証明されるかも知れないし」
由梨亜が明るく言った途端、女性の澄んだ声が……ただし、男のような口調で、二人の耳に届いた。
『よく、分かった』
「えっ……」
「嘘……」
二人が驚いたのも、無理はない。
何故なら、その声は、千紗が持っていた日記帳の中から聞こえてきたのだから。
「日記帳が……喋ったのかしら……」
「ま、まさか……あり得ないよ……もしかして、先輩達……こんなのに、小型スピーカー付けてた、とか……? あ、あと、盗聴器……?」
あまりの出来事に現実とは思えず、唖然呆然としている二人を余所に、交換日記帳は眩しい金色に輝いている。
『お前達の望みを叶えよう。さあ、行くのだ。自由な、千年前の世界へ……! お前達の、真の姿を取り戻す為に……!』
(千年前……確か、その時身分同一化運動が起こって、成功して……一時的に……確か二百年間、身分の同一化運動に成功したから、世界は身分社会じゃなくて完全な学歴社会になって……身分の面では、確かに……確かに、自由で!)
そこまで、千紗が一瞬のうちに考えた途端、直視すれば失明してしまうかも知れないほどの、眩い光が駆け抜け……。
そして、その光がやっとのことで去り、目を瞑ったりしなくても見えるようになった屋上には、何と、由梨亜と千紗の姿が、跡形もなく消えていた。
しかも、その光に気付いた人物は、誰一人としていなかった。
二人は空間と空間を繋いでいる、『何だかよく分からないトンネル』にいた。
と言っても、正確には、二人がしっかりと手を握り合ったまま、矛盾しているとは思うが、無重力に似た足元の心許なさを感じたまま、下に向かって落下しているのだが。
周りは一体何色と言ったらいいのか……それとも言葉で言い表せないのか……様々な色が輝き、けれど混ざって汚い色にはならず、色が流れていると言う表現がぴったりだ。
そんな中を下に降りていくと、下にしっかりと固定された色が――いや、景色がある。
そして、そこに近づくほど、キーンとした音が、強くなり、強くなり……そして、様々な色が輝くトンネルから吐き出される瞬間、二人はあまりにも大きな、大きすぎる音によって、気絶してしまった。
気絶してしまうその瞬間の少し前、千紗の耳には、鈴を振るような、高く澄んだ、綺麗で不思議な声が聴こえて来た。
『何も、怯えることは御座いませんわ。貴女とその友の、乱れ絡まり合った運命を、元に戻すだけなのですから……。貴女にとっては、とても、とても辛いことでは御座いますが、それが――貴女の体で感じ、体験した、それだけが、真実で御座います。元に戻るだけなのですから……落ち着かれて、全てを、御受け入れ下さいませ……』
(何言ってるの? この人。あたしと由梨亜の絡まり合った運命って、一体……何? 何なの? 元に戻るって? 受け入れるってったって、何を受け入れればいいの? もう……もう、訳分かんないよ! って言うか、何この敬語! こんな敬語、普通は使わないでしょ!)
千紗は少々変なことを考えながらだったが、由梨亜と千紗は、二人にとっては異世界としか言いようのない時代に、飛ばされていた。
生活習慣は勿論、言語までもが違う時代へと――。