第三章「特別な物」―3
チャリン、と音がした。
その音に下を見ると、手首にしていたはずのブレスレットが落ちている。
富瑠美は、ゆっくりとそれを拾った。
静かにそれを手に乗せ、眺める。
これは十四の誕生日の時――まだ父が王でいて、異母姉が王女だったその短い時間に、その異母姉から貰った物だった。
それは取り分け華美という物ではなく、その頃はもう深沙祇妃に引き取られて四年が経っていた為か、富瑠美が持っていた宝飾品の中では最も地味で、母や弟妹達は馬鹿にしていた。
さすがは、地球連邦で育った野蛮人が贈る物だと。
こんな地味な物、第二王女にして第二王位継承者である花雲恭富瑠美には相応しくないと。
けれどそれには、どこか温かみがあった。
それに、よく見ると繊細な作りで、地味だがとても綺麗な物だと思った。
けれど、自分がこれを気に入っている理由は、それだけではない。
富実樹がこれを渡してくれた時に言ってくれた言葉も、その理由の一つだった。
『御誕生日おめでとう御座いますわ、富瑠美。今日で、わたくし達は十四になりましたわね』
そう言って手渡された小さな、けれど綺麗な箱の中に入っていた、繊細な作りの、華奢な銀細工のブレスレットに、富瑠美は途惑って富実樹を見詰めた。
『あの、御異母姉様……どうして……』
『富瑠美には、わたくしが地球連邦から戻ってきてからの一年近く、ずっと様々なことを御教え頂きましたもの。その御礼代わりですわ。勿論、明日の杜歩埜の誕生日にも、ちょうど再来週にある些南美の誕生日にも贈り物はしますし、昨年の柚希夜の誕生日の時も、贈り物は致しましたわ。それに……わたくし、これを見た時に、とても気に入りましたの。とっても綺麗で……それで、これは富瑠美に、絶対によく似合うって思って……』
富瑠美は、それを持ち上げた。
確かに富実樹が言った通り、とても綺麗な物だった。
富瑠美は、富実樹の言葉遣いを直すことを忘れ、陶然と呟いた。
『綺麗、ですわね……』
『ええ、そうでしょう? だからね、富瑠美』
富実樹は、富瑠美の目を覗き込んだ。
『我慢、しなくてもいいと思うのよ? わたくし』
その言葉に、富瑠美は思わず絶句した。
『お、ねえ、さま……?』
『富瑠美、貴女は十歳までを由梨亜妾の元で、今は深沙祇妃の元で暮らしている。そうよね? わたくしは、まだこちらに戻って来て一年も経っていないけれど、御母様と深沙祇妃が正反対で、対極に位置する間柄だというのは理解しているの。だから、貴女が大変だってことも』
その言葉に、思わず富瑠美は目を泳がせた。
確かに……それは、当たっていた。
そう、その頃だった。
この異母姉が、とても洞察力と観察力に優れ、多角的な物の見方が自然にできているということに気付いたのは。
『でもね、富瑠美。貴女は、深沙祇妃に引き取られた時はまだたったの十歳で、そして、今も十四歳になったばかりでしょう? 無理に自分を抑えて、御母様や弟や妹に合わせる必要はないわ。そりゃあ、合わせなければならないこともあるけど……』
そう言って目を泳がせた後、異母姉は、とても綺麗に笑った。
見ているこちらが、羨ましくなったほどに。
『自分の趣味まで変える必要はないわ。だって深沙祇妃は深沙祇妃、柚菟羅は柚菟羅、苓奈は苓奈――そして、貴女は貴女なんだもの。いくら貴女が深沙祇妃の娘でも、貴女を十歳まで育てたのは、花雲恭由梨亜よ? 血は繋がってないけど、影響を受けないなんてことはあり得ないわ。それに、趣味は変えようとしても変えることのできないことよ。だから……ね?』
その言葉に、思わず富瑠美は涙を零してしまった。
(ああ、御異母姉様の言葉遣い、また崩れてしまわれているわ……)
とは思ったものの、感極まってそれを口にすることはできなかった。
それに慌てふためき、おろおろと途惑っている富実樹に、富瑠美は、心からの笑みを浮かべることができた。
『本当に……本当に、ありがとうございます、御異母姉様。……大切に、致しますわ』
『そう……気に入ったの?』
『はい。……とても』
『そっか……良かったわ』
そうして笑った富実樹の顔を見て、富瑠美は思ったのだ。
(わたくしは……決して、この人に勝つことはないのだわ……)
と。
今まで会ったことのない異母姉だったことや、花鴬国に来た当初のあまりの無知さ、そして自分の母親が、他国とはいえ王族だということに、自分の方が偉いと、自分の方が賢いと思っていなかったとは、決して言えない。
だが……そういったことではない、もっと根本的な物が、異母姉には生まれながらに備わっていて、そして自分はどんなに努力しようとも、それを得られることはないと、悟ったのだ。
そしてそのブレスレットを貰って以来、富瑠美はよくそれを着けていた。
四年半ほど前のことを思い出し、そのブレスレットを撫でていると、背後から声を掛けられた。
「……ルーレ姉上? おはよう御座います」
「あら、ルーマ。おはよう御座いますわ」
ここには、他の人間が――富瑠美達のことを何も知らない人間がいる。
そして、誰がどこで聞いているのかも分からない。
部屋の中にいる時でしか、本当の名で呼び合う危険は冒せない。
だから富瑠美は柚希夜を『ルーマ』と呼び、柚希夜は富瑠美のことを『ルーレ』と呼ぶのだ。
「大丈夫ですか? 少し、眠そうですが……」
「ええ……少し、寝不足で……」
富瑠美は、弱々しい微笑みを浮かべる。
それは、本当だった。
泣き疲れ眠った後、夜中に目が覚めて……それから考え事をしていたせいで、あまり眠れなかったのだ。
「ルーレ姉上。朝食が終わってから……少し、御時間を頂いても宜しいでしょうか?」
「? ええ。どうかしたのですか? ルーマからそのようなことを聞くのは、珍しいですわね」
「ええ……まあ、少し」
その言葉に、富瑠美は首を傾げた。
(一体、何なのかしら? 柚希夜から、わたくしにって……)
「あら? お姉様、ルーマ、おはよう御座いますわ」
「あら、ルーリ。おはよう御座います」
「ルーリ姉上、おはよう御座います」
些南美もやってきて挨拶を交わしていると、富瑠美達の父親役をやっているウェンリスもやってくる。
「ほら、お前達。いつまでそこに立っているつもりだ? そろそろ中に入りなさい」
「あ、お父様! 御早う御座います」
「御早う御座いますわ」
「御早う御座います、父上」
「ああ、ほら、朝食が冷めてしまう」
「はい」
朝食を摂った後、何故か柚希夜は、些南美は招かずに富瑠美だけを自分の部屋へと呼んだ。
「ねえ、柚希夜……。些南美は、呼ばなくてもいいのかしら?」
「ええ。些南美姉上には、昨日御聞き致しましたので……」
「まあ、そうなの?」
「はい。……富瑠美異母姉上は、昨日の、あの天皇の娘達に呼ばれた時のこと……憶えておいでですよね?」
「ええ。勿論ですわ。だって、つい昨日のことでしょう?」
富瑠美が途惑って言うと、柚希夜はすっと目を眇める。
「富瑠美異母姉上は、千紗さんと由梨亜さんのこと、どう御思いでしょうか?」
その言葉に、富瑠美は思わずぎくりと肩を揺らす。
そんなことを訊かれるとは、思ってもみなかった。
「そう、ですわね……」
富瑠美は少し考えると、ゆっくりと言った。
「千紗さんは……わたくしとは全く違った考えを御持ちの方だと思いますわ。そして、御気性が激しい方でもあるようですわね。ですが、場を盛り上げるのが得意な、面白い方でもあるように思えますわ。由梨亜さんは、千紗さんをしっかりと支えていて、千紗さんよりは穏やかでしょうけれど、それでもしっかりとした芯を持っている方のように思えました。それに、とても仲のよい御姉妹でいらっしゃるようですわ」
その言葉に、柚希夜は微笑した。
「ええ……。その、由梨亜さん――富実樹姉上と、似ていらっしゃるとは思いませんか? 富実樹姉上と、性格や考え方が、よく似ていらっしゃると思うのです。顔立ちも、僅かではありますが、似ていらっしゃるような気がして……。ですから私は、とても懐かしくなってしまいました。それに、名前も『由梨亜』で……母上の王籍名と、全く同じなので」
その言葉に、富瑠美は深呼吸をする。
(柚希夜も、だわ……柚希夜も、些南美と全く同じことを言う……)
「まあ、柚希夜も、そう思ったのですか?」
「私も、ということは……やはり、富瑠美異母姉上も?」
「いえ、わたくしではなく些南美が、そのようなことを言っていたのです。先日の天皇が主催したパーティーの後、どことなく、由梨亜さんが御異母姉様に似ていらっしゃると……」
「おや、些南美姉上も、ですか?」
柚希夜は、少し意外そうな顔をした。
「ええ。ですが、貴方のように論理的に考えたのではなく、何となく、のようでしたけれど」
「そうですか……。それで、富瑠美異母姉上は?」
「わたくし、ですか? わたくしは……」
富瑠美は躊躇った後、ゆっくり言った。
「わたくしは、全く分かりませんでしたわ。けれど、後で些南美に言われてから考えてみると、御異母姉様とどことなく似ていらっしゃるような気も致しました」
その言葉に、柚希夜は目を眇める。
「柚希、夜……?」
富瑠美は、思わず目を瞠った。
こんな表情をする柚希夜は、初めて見る。
「……やはり、由梨亜さんは――富実樹姉上……ですね?」
その言葉に、一瞬、頬を強張らせる。
だが、何とか表情を取り繕い、吹き出して見せた。
「まあ、面白いことを言うのですわね、柚希夜は。確かに、由梨亜さんが御異母姉様と似ていらっしゃるのは事実ですわ。ですが、御異母姉様が地球連邦に来るなど……あり得ません」
「何故、でしょう?」
「だって、花鴬国から出るには、宇宙船を使わねばなりませんもの。御異母姉様が行方不明になられてから今まで、ずっと花鴬国から外に出る人と物の流れは監視しております。勿論、御異母姉様がそれを掻い潜って花鴬国から出たという可能性も考えました。ですから、どの家なのかは申せませんが、御異母姉様と立場を入れ換え、そして元に戻った少女の家を調べさせました。そうしたら、そこにはその入れ換わった方がおりました。つまり、御異母姉様はおられなかったのです。彼女の交友関係も調べさせましたが、御異母姉様に該当するような少女はおりませんでした。ですから、由梨亜さんが御異母姉様であるとは申せませんわ」
富瑠美の言葉に、柚希夜は微笑する。
「では、名前は? どのように説明を付けると言うのです」
「名、前?」
富瑠美は、目を瞠った。
「ええ。もう、だいぶ前でしたが……母上が、こう仰っていたのです。
『其方達の御姉様は、今地球連邦にいるのです。口さがない者が言うように、決して死んではおりませんし、ましてや元から存在しなかったなどと、そんなことは決してあり得ません。富実樹は、このわたくしが、自らの腹を痛めて産んだ可愛い我が子なのです。だから――』」
柚希夜は、真っ直ぐと富瑠美を見据える。
「『だから地球連邦にいる富実樹には、わたくしの名を名乗らせております。由梨亜、と――。音も、字も全く同じです。そしてそれこそが、わたくしの娘だと言う証――』
そう、母上は仰っておりました」
今度こそ、富瑠美は目を泳がせる。
「本条由梨亜。この『由梨亜』と言う名前は、母上の王籍名――由梨亜妾、そのままの名。おまけに顔立ちも微かではありますが似ており、性格などは瓜二つ。……これで疑うな、と言う方が、無理があります。まあ、些南美姉上の方は、御気付きになられてはおられないようですが……」
柚希夜は意味深に言葉を切り、富瑠美を窺う。
「どうですか? 富瑠美異母姉上?」
その言葉に、富瑠美は俯いた。
言い逃れのしようがなかった。
「さすがねぇ、柚希夜……さすが、御異母姉様の弟であり、御父様や御母様の息子ね……」
「では、やはり?」
「ええ。恐らく……彼女が、御異母姉様だと思いますわ。御異母姉様――花雲恭富実樹が地球連邦にいた時の名は、『本条由梨亜』。そして、親友の名は『彩音千紗』。御異母姉様が御好きになられた方の名は、『藤咲香麻』。……それに、少し事情がありまして、あまり詳しくは話せないのですが、わたくしは、御異母姉様が『本条由梨亜』に姿を変えたところを見たことがありますの。髪の長さはだいぶ違いましたが、その時の御異母姉様の御姿は……『本条由梨亜』、彼女の姿その物でした」
「そうですか……。やはり、富実樹姉上は、地球連邦におられた……」
柚希夜は目を伏せると、ふっと笑って見せた。
「……富瑠美異母姉上は、どうなさるのですか?」
「どう……とは?」
富瑠美が途惑って視線を揺らすと、柚希夜は落ち着いた表情で言った。
「勿論、富実樹姉上の事です。富実樹姉上は、父上が病臥なされるという事で王位に即かれました。なので、父上に対する王位の返上はあり得ません。父上の体調が御回復なされたとしても、また御悪くならないとも限りませんから。……ですが、富瑠美異母姉上が王位に即かれたのは、元々は富実樹姉上が行方不明となられたからです。富実樹姉上がいつ見付かるかも分からない上に、下手をすれば既に亡くなられてしまった可能性もありました。それに、国王の政務は日々溜まってゆくばかり。ですから、富実樹姉上が失踪してから一月後、富瑠美異母姉上は御即位なされました。ですがその際に、大臣達との約定があったはずです。――もし富実樹姉上が見付かったのならば、王位を富実樹姉上へと返上する、と……」
その言葉に、富瑠美はようやく思い出した。
それは、たったの一年半前のことだ。
だが、日々の仕事が忙しい上に、娘が王位に即いたとうざったいほどに騒ぎ立てる実の母親と、倒れたまま目を覚まさない父親に、王宮を去ってしまった育ての母親のことがあり、富実樹が行方不明になってから富瑠美が即位して三ヶ月近くが経つまでの間、正直言って記憶があやふやなのだ。
だから、柚希夜に言われるまでそのことを忘れてしまっていたとしても、決して自己弁護する訳ではないが、無理はないと、思う。
「あ、ああ……確かに、そのようなことが、ありましたわね」
「それで、富瑠美異母姉上は、どのように御考えになられておいでなのですか?」
その言葉に、富瑠美は視線を揺らした。
「……わたくしは」
しばらく時間が経った後に、ようやく口を開く。
「御異母姉様には、還って来て欲しいですわ。本当に、心の底から、そう願っております。ですが……この前と、そして昨日見た御異母姉様は、とても生き生きとしておられました。わたくし達は、家族です。誰が何と言おうと、絶対に家族なのです。ですが、御異母姉様には、地球連邦にも、御家族がおられるのです。それを……引き離してもよいのかと、問われると……わたくしには、答えることはできません」
富瑠美の言葉に、柚希夜は小さな溜息をついた。
「そう、ですか。やはり、富実樹姉上に、直接訊ねてみるしか術がないようですね」
「直接……? 何を訊ねると言うのです?」
「勿論、富実樹姉上は何故地球連邦におられるのか。どのような術を用いて地球連邦まで来られたのか。そして、……花鴬国に戻り、再び第百五十三代花鴬国国王として立たれる気はあるのか、と……」
その言葉に、富瑠美はゆっくりと目を見開いた。