第三章「花鴬国の現在(いま)」―1
「ちょっとマリミアンさん! こっち来て下さい! 早く行きましょうよぉ~! あたし、生で初めて見るんですから~! これを見逃すだなんて、勿体ないですってばぁ!」
「少し待っていなさい、レイシャ。まだ帳簿付けが終わってないわ。もう少しで終わるから……」
マリミアンはそう彼女に言い返した。
マリミアン・カナージェ・スウェール。
それは彼女の名前だったが、ここではただ、マリミアン・カナージェとしか名乗っていない。
マリミアンの異母兄は、花鴬国の貴族の中でトップの位の戦祝大臣である。
またこの大臣職は世襲制である為、官封貴族の『スウェール家』とは、この国の国民にとって有名過ぎるほど有名な家であった。
だからマリミアンが本当の苗字を名乗ることは、スウェール家の世間体にとっても、この国の貴族に対する目にとっても、何よりマリミアンの為にも良くない。
なのでマリミアンは今、夫に先立たれた未亡人の庶民として生活していた。
そして、マリミアンがいる所は、花鴬国の首都、シャンクランではない。
その首都がある、リィウォン大陸でもない。
そのリィウォン大陸は北半球に属していて、その北半球にはもう一つ、シューリック大陸という大陸があるが、そこにもいない。
マリミアンがいるのは、南半球唯一の大陸、ルーシャック大陸の地方である。
とはいってもそれなりに活気のある、国内便限定とはいえ空港まである街ではあるが。
そこはスウェール家とそれなりの縁がある、地封貴族の治める土地だった。
だから、マリミアンはその貴族に融通してもらって、家と店が一つになった中古の物件を譲り受けたのだ。
そうして、一年。
マリミアンは刺繍や縫い物などが得意なので、そういう物を自分で作り、店先やインターネットの通販で売っていた。
商売は順調で、その商品はとても高い値が付けられることもしばしばあった。
「……ちょっとマリミアンさん! 何消えよ~としてるんですかぁ? ほら、さっさと来て下さい!」
こっそりと二階の自室に戻ろうとしていたマリミアンは、早速捕まってしまった。
「わ、私……遠慮したいのですけれど……」
「何言ってんですか! こんなの生で一生に一度見れるかど~か分かんないですよぉ? こ~んな田舎まで、滅多に来る訳ないじゃないですかぁ。ほら、早く!」
「ちょ……レイシャ、ですから、わたく……私、そういうのは……」
「ほらほら! 興味がないだなんて、言わせませんよぉ~」
レイシャのその言葉に、マリミアンは口を噤んだ。
(本当は見慣れている訳ですし……それに顔を見られて、あの方にわたくしの正体があちらに御分かりになられてしまわれるのも、本当はいけないことであって……)
マリミアンの理性がそれを叫んでいるが、レイシャの勢いに全て飲み込まれてしまう。
元々押しの強い性格でないことが災いし、日常生活の面では、全てレイシャ達大学生の同居人が主導権を握っていた。
「あ~! やっと来た、レイシャ!」
「お待たせ~! マリミアンさん引っ張って来んの大変だったんだから、場所取るの大変だったって言わせないわよ! マレイ、ミア、ユリア!」
そう呼ばれた女性達は、皆十九歳から二十歳の大学生だった。
彼女達は、マリミアンと共に働き生活をしていて離れた所に実家のある、つまりはマリミアンの所で下宿をしている扱いでもある女性達である。
ちなみに、このユリアという女性の名前が呼ばれる度に、マリミアンは少し反応してしまうのであった。
「あっ! 来たよ! ほらほら! あ~、やっぱり本物はちょっと渋いけどかっこいい小父様!」
「ほんと~! ちょっと遠くて、よく見えないのが残念……」
「ねえ、ミア。貴女どっちの方が好み?」
「え? どっちってやっぱり、シャーウィン様かウォルト様?」
「当ったり前でしょ! だってあのシュールって……ねぇ?」
「そうそう。まだシャーウィン様とウォルト様はまだオジサン世代だし滅茶苦茶カッコイイからキャアキャア言うことできるけどさ……あのシュールって……もうオジサン通り越してお爺ちゃんでしょぉ?」
「しかも、あんまり見栄えしないしねぇ」
そう、今日ここには、戦祝大臣のシャーウィン、政財大臣のウォルト、宗賽大臣のシュールが来ているのだった。
彼らは、広場に造られた演台の上に乗って、手を振っていた。
三人の目的は、自らの姿を見せることで戦争に賛成してもらい、技術、人共に協力してもらう為だった。
そして、これが終わった後、戦争に対する説明会が講堂で開かれることになっていた。
マリミアンは、ほぼ一年ぶりに生で見る異母兄の姿に目頭が熱くなった。
(シャーウィン御異母兄様……御元気そうで、良かったですわ……ですが、この国の実権は全て、宗賽大臣が握っていて……嗚呼、この国はどうなるのでしょう。軍隊の管轄は戦祝省……つまり、シャーウィン御異母兄様の下にあります。シャーウィン御異母兄様は、一体どこまで宗賽大臣に抵抗できるのか……嗚呼、家族に……わたくしの血の繋がっている兄弟に会いたい。わたくしの子供達に……富瑠美達も含めた、仲の良かった子供達に会いたい。そして……峯慶様に、御逢いしたい……!)
いつの間にか、マリミアンは堅く拳を握り締めていた。
(峯慶様……まさか、峯慶様とまで御別れするなんて、全く思いもしませんでしたわ……それに、峯慶様は今も意識不明……峯慶様、どうか、貴方だけでいい。貴方だけでいいですから……どうか、御元気になられて下さいませ……! そして、御逢いしたい……いいえ、それはわたくしの我儘。峯慶様には、宗賽大臣を御止め戴いて、富瑠美を……陛下を御助け頂かねばならないのですから……峯慶様! どうか一刻でも早く、御目覚め下さいませ……!)
マリミアンは自分の考えでぼんやりとしていたので、ユリアから声を掛けられたのに気付かなかった。
「マリミアンさん……マリミアンさん? ……ちょっと! マリミアンさん! 聞いて下さいってば!!」
「……あ、あら、ごめんなさい、ユリア。どうかしたの?」
「マリミアンさん、マリミアンさんって、シャーウィン様やウォルト様と、ほとんど同じ世代ですよねっ?」
「え、ええ……そうだけど?」
「だったら、シャーウィン様とウォルト様、どっちが好みですか?」
「……えっ?」
意表を突かれたマリミアンが、思わず目を瞬かせると、
「レイシャとあたしはウォルト様の方がかっこいいって言ってるのに、マレイとミアはシャーウィン様の方がかっこいいって言って譲らないんですよぉ。それで、同じ世代のマリミアン様なら、どっちが好みかなぁって」
「ああ、そういうこと」
マリミアンはくすりと笑った。
つまりは、マリミアンが好みだった方がよりかっこいいという訳だ。
「私は、どちらともそれほど好みではないわ。私の中で最高なのは、今は亡き夫ですもの」
さらりとマリミアンは言ってのけたが、途端に四人が不満そうな顔になって振り返った。
「え~っ! じゃあ、どっちかって言うと、どっちですか? それだけは答えて下さい!」
「ん~、そうねぇ……二人ともあの方とは似てないけど……どちらかと言うと、シャーウィン――様の方かしらね?」
マリミアンは危うく『御異母兄様』を付けそうになり、言葉を飲み込んだ。
だが、四人はそれに気付いていなかったようだ。
「やったぁ! や~っぱりシャーウィン様の方がかっこいいのよ!」
「え~! マリミアンさん、ひど~い!」
「えっ? でも、私がシャーウィン様の方が好みだって言ったのは、シャーウィン様が、私の夫のお義兄さんに似ているから言ったのよ? だから、あまりかっこよさでは決めていないわ。というか、かっこよさではどっちもどっちでしょう」
(ええ。わたくしは、嘘なんて吐いていないわ。わたくしの夫……つまり峯慶様のお義兄様の一人は、シャーウィン御異母兄様ですものね……)
「え~っ! そんなぁっ!」
「ほらほら、前を向きなさい。もうそろそろ移動してしまいますよ?」
マリミアンが注意を促すと、四人は一斉にザッと振り向き、歓声を上げた。
「きゃ~っ!シャーウィン様ぁ! 頑張って下さ~い!!」
「ちょっと何言ってんの! ウォルト様ぁ! シャーウィン様に負けないで頑張ってぇ~!!」
「ウォルト様、かっこいい~~!!」
「シャーウィン様の方が、かっこいいですよぉ~!!」
マリミアンは苦笑しながら、真っ直ぐシャーウィンを見上げた。
辺りは歓声を上げたりする人が多いのでそれなりに煩いのだが、その中でも特に四人の声は響いたらしい。
シャーウィンとウォルトがこっちを振り返り、手を振って来た。
「んきゃ~~~~~!!!」
……凄まじい、悲鳴が上がった。
あまりの声の大きさに、マリミアンは思わず耳を塞いでしまった。
それが目に留まったのだろう、マリミアンとシャーウィンの目が合った。
シャーウィンは微かに目を瞠り、それで何とか抑えたようだ。
マリミアンはそんな異母兄の姿に仄かに微笑み、首の辺りで指を立て、小さく振った。
それは、マリミアンが小さな時から気に入っている仕種で、シャーウィンならば気付いてくれるはずの仕種でもあった。
シャーウィンはそれを見たからだろう、やはりそうかとの確信を深めたようで、にっこりと笑って視線を他に移した。
そして、その微笑みを目にしたのだろう、マレイとミアは、更に
「ギャ~~~~~!!」
と意味不明な叫び声を発した。
そして、彼らが講堂に移動すると、マリミアンは声を掛けた。
「さ、そろそろ戻るわよ?」
「え~……まだ、後ろ姿が……」
「もう顔は見えないでしょう。まあ……貴女達はここにいてもいいけど、私はお店に戻るわね」
マリミアンはそう言うと、店に戻って行った。