第一章「日記帳」―2
「お帰りなさい! お父様!」
その日の翌日、本条家の広い屋敷に、由梨亜の元気な声が響いた。
「ただいま、由梨亜。お前の誕生日の前までに、シャリート国から帰れて良かったよ」
由梨亜の誕生日は、八月十六日。
そして、何の偶然か、千紗も同じ誕生日だった。
今は、八月十四日だ。
「ところで由梨亜、明日は部活あるかい?」
「いいえ。夏休みは木曜の午前中だけなの。明日は金曜だから空いているわ」
「それでは明日、十八日にするお前の初めてのパーティーの為に、ドレスを買って来ようか?」
「ええ。それでは私、着替えて来ます」
由梨亜は部活から帰って間もなく父親――本条耀太を迎えたので、制服のままだった。
由梨亜は階段を駆け上がって部屋に駆け込むと、溜息を一つついた。
「ふぅ~」
(良かったぁ。怪しまれなかった。お父様もお母様も鈴南も頭固いから、もしも見られたら大変なことになっちゃうわ。早速書こう!)
由梨亜はしばらく日記に何かを書いていたが、五分後、書き終えたのかその手を止めた。
「できた~!」
(これ、明日……は無理だから、明後日渡そう! あっそうだ! 千紗に、その時一緒に招待状渡そう! 私のパーティーに。ついでに、部活の人全員に、都合がつくなら招待状送ろうかな。ああ、楽しみっ!)
由梨亜が楽しげに心を弾ませていると、コンコン、という音がして、外から鈴南の声がした。
「お嬢様、お食事の時間にございます」
「ええ。今行くわ」
その翌日、由梨亜は耀太や母親の本条瑠璃、他に荷物を運ぶ為と、運転の為と、車の盗難防止の為に車に残ってもらう為に連れてきた召し使い達と共に、本条紳士淑女高級店という、本条家が開いている店の本店に、わざわざ四十分も掛けて行った。
交通網が発達している今、四十分も掛けた移動というのは大事である。
本来なら屋敷に運び込んでもいいのだが、あまりにも品揃えが豊富だった為、それもできず、またいい物が揃っているのはやはり本店なので、時間を掛けることにしたのだった。
店に入ると、由梨亜は少し甘えるようにして言った。
会えない時は、一ヶ月以上も会えない相手でもあるので、自然とそうなってくるのだ。
「お父様。私、ドレスとか靴とか、青や白で統一したいわ」
「ああ。いいとも」
「あっ、このドレス可愛い! 綺麗な色~。この色も綺麗ね~。あぁ、迷ってしまうわ」
「由梨亜。どんなに迷ってもいいから、お前の気に入る物を買いなさい」
「はい、お父様」
結局由梨亜が買ったのは、裾が南国の海の海底が一段と深くなった所のような深い藍色で、上に向かって少しずつ淡くなっているグラデーションの長袖で膝下丈の、今時珍しい――つまり、かなり高価な――本物の絹でできたドレス、少しだけ灰色がかった白いエナメルの靴、群青色の毛糸のポンポンのような物を真っ白なレースでくるんだ髪留めだった。
「由梨亜。これでいいのか? 他に買わなくて」
「ええ。だって、これと言えるアクセサリーが見つからなかったんですもの」
由梨亜は少し唇を尖らせると、すぐに笑顔になり、言った。
「でも、ドレスとか靴とか、気に入った物があって良かったわ」
「そうだな」
その時、由梨亜は確かに何かの視線を感じたが、振り返ると、何もなかった。
(まただわ。また、何もない……この前も、その前も、そして今も、確かに誰かからの視線を感じたのに……)
「どうした? 由梨亜」
「いいえ。何でもないわ」
「さぁ、お乗り下さいませ。旦那様、奥様、お嬢様」
チャイムが鳴り、千紗がドアを開けると、そこには珍しいことに由梨亜の姿があった。
「由梨亜! 来てくれたんだぁ~。上がって」
「お邪魔します」
「一々言わなくても別にいいって! ほらほら」
由梨亜は千紗に急き立てられ、玄関を上がった。
「はい」
コトン、と千紗は、二人の前にお菓子の入った器とジュースを置いて、話しかけた。
「それで、どうしたの? 由梨亜がうちに来るのって、珍しいよね? って言うか、一年振りぐらいじゃない」
千紗は由梨亜に、単刀直入に訊いた。
「あ、うん。そうだね。はい、日記帳。うちだと、鈴南達の目が厳しくて渡せないの」
由梨亜はそう肩を竦めて言うと、千紗に手渡した。
「ありがと、由梨亜。じゃ、あたしが書き終わった後も、由梨亜に来てもらうか部活の時の方がいいね」
「ええ、そうね。あと、私の初めてやる誕生日パーティーの招待状。他にも、都合つく部員の人も招待するつもりよ」
「へぇ~。あっそうだ! 由梨亜、あたし、由梨亜に今プレゼント作っている途中なんだ。楽しみに待っててよね?」
「へ~。何作ってるの?」
「ブレスレットと、あとネックレス!」
「ふ~ん。何色?」
「白とか、水色とか、青とかを組み合わせているの」
「そうなんだ。偶然だね。私も、千紗に薄いピンクや赤紫とかの、ブレスレットとネックレスを作っている最中なの。ちょっとびっくりだわ」
「じゃあ、交換するみたいだね!」
「そうだねぇ~」
由梨亜は、日記帳の存在を知られずに千紗に渡せたことをとても喜んでいた。
そして、次に回って来た時も、上手く出し抜けられるようにと祈った。
「それは……それは、どういうことだ。由梨亜!」
耀太の、怒りが燃え上がり、もう手が付けられない状況に陥った罵声が、屋敷を揺るがすが如く響いた。
だが、由梨亜はそれに全く動じず、困惑したかのように、たった今言ったばかりのことを言った。
「何って……ただ、友達や先輩方を、私の誕生日パーティーに誘いたいって、言っただけじゃないの。これの、どこがいけないの?」
由梨亜が至って不思議そうに言った為、耀太も怒りを少し抑え、こう言った。
「いけないも何も、大量の庶民を屋敷に招待するなぞ、前代未聞の珍事だぞ。過去には庶民の友人を招いたこともあったから、千紗はいい。しかし、その他の者を招いたことなど前例がない。いくら年上とはいえ、身分を考えればお前の方が上なんだぞ。本来ならば貴族であるお前が敬語を使われる立場であり、庶民に敬語を遣うような立場ではない。そこをきちんと踏まえておけ」
「……はい」
「分かったのならばよい。しかし、部活部活と浮かれて勉強をサボるような真似はならぬ。鈴南、由梨亜に家庭教師が来る時間だ。先生をお迎えしろ」
「はい。畏まりました。お嬢様、お勉強のご用意を」
「分かっているわよ。鈴南」
「それでは由梨亜、先に行け。私は鈴南に話があるからな」
「はい、分かりました。それでは失礼します。お父様」
由梨亜が出て行くと、耀太は声を潜めて言った。
「鈴南」
「何でしょうか」
「由梨亜は、何故あのようになってしまったのだろう」
鈴南は額に皺を寄せ、難しい顔で黙ったかと思うと、小さな声で慎重に言った。
「お部屋にいる時や学校にいる時は、人権侵害に触れる為、監視は不可能です。ですが、その他の時……本条家の者が付き添わずに外出する時は、身の危険を回避する為という名目を持って、なるべく目を離さぬように、召し使い達に手を回しておきます」
「さすが鈴南。そういうところもしっかりしている」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。それでは、先生を迎えてきます」
鈴南が出て行くと、耀太は半眼を伏せた。
(鈴南に任せたから、大丈夫だと思うがな……)
「こちらも、手を回しておくか。用心はいくつ重ねても足りるものでもないし。私の可愛い由梨亜の為なら、害になる物全てを取り除いておかねば……」
由梨亜は耀太の言葉を扉の陰で聞いていたが、それを聞き遂げると足音もなく立ち去った。
千紗は、由梨亜が帰った後、すぐに日記帳の中身を見た。
「へぇ~。由梨亜のお父さん、シャリート国から帰ってきたんだ~。そういえば、なんか嬉しそうだったよなぁ、あの日。えっ……ゆ、由梨亜……」
千紗は、思わずその文字を絶句して読み返した。
そこには、
『この日記帳を手にしてから、出掛けた時に視線を感じるようになったの。不思議よね。しかも、大勢の人がいても、沢山の車が走ってても、そこだけが視えないかのように、存在しないように、人一人が余裕を持って立てるくらいの幅の空間が空いているの。その一瞬後には人や車が通ってその空間は埋まるんだけど……ま、気にし過ぎなのかもね。やっぱりこれ、どうしても先輩の悪戯としか思えないんだもの』
と書いてあった。
それに、千紗は思わず吹き出していた。
「全く、由梨亜ったら……ま、ほんとに先輩が監視してたら怖いけど。でも……そんなのあり得ないし。やっぱ、気にし過ぎなんだよ、由梨亜」
そう呟きながらも、親友である由梨亜を心配しているのだろうか、千紗の顔にはあまり笑顔がなかった。
翌日、由梨亜は千紗の家に、勉強道具を抱えて行った。
一緒に宿題を片付ける為だ。
その途中、昨日のことを思い出した由梨亜は、申し訳なさそうに言った。
「千紗、ごめんなさい。お父様から、千紗以外は駄目って……」
「何で! あたしがいいなら、他の人もいいはずじゃあ……」
「それが、大勢の庶民を屋敷に招待するのは、前代未聞の珍事。過去には、庶民の友人を招いたこともあったから千紗はいいけど、他の人を招いたなんてことはない。いくら年上とはいえ、身分を考えれば、私の方が上。本来ならば、貴族である私が敬語を使われる立場であって、庶民に敬語を使うような立場ではない。そこをきちんと踏まえておけって……お父様が」
「そっか。じゃあ、しょうがないよね……。でもさぁ、由梨亜。何でこうなのかなぁ。今のこの世の中、身分制度でガチガチに凝り固められて、階級重視じゃん。何も由梨亜を批判するわけでもないけどさ、お嬢様は幼稚園からずっと、あたし達庶民が通えないようなお嬢様学校に通ってるでしょ? ホテルも、あたし達は一流なとこなんていくらお金を出しても泊まれないし、二流のとこはお金持ちの倍取られるし。貴族の人に遠慮して、庶民を近くに寄せないようにしているのかも知れないけど……でも、ここまで差が激しいと嫌になるよ」
「でも、昔から……そう、約四千年近く前の昔から、この制度は続いているのよ。その頃はもっと格差は大きかったけれど、今とはあんまり変わらないわね」
由梨亜はそう、溜息をつきながら言ったが、千紗の可笑しな様子に、首を傾げた。
「…………」
「千紗?」
「……………………」
「ちょっと、聞いてるの? 千紗」
「………………………………」
「ねえ、千紗。千紗ってば!」
「あのさぁ。由梨亜」
由梨亜が煩かったのか、それとも珍しく考え込んでいたのか、千紗はようやく口を開いた。
「あたし達って、今日、十三歳の誕生日だよね?」
「あっ……」
ようやくその事実に気づいた由梨亜は、今までしていた会話が、あまりにも誕生日にそぐわないことだということに、やっと気付いた。
そして千紗は、さっきあんなに長々と現代の格差について熱く語っていたのに気付いて、黙り込んでしまったのだった。
その帰り、千紗は由梨亜に、由梨亜は千紗に、それぞれ青系、赤系で作ったビーズのネックレス、ブレスレットを渡した。
どちらも素晴らしい出来で、手作りの汚さはなく、手作りの良さのみがあった。
そして思わず由梨亜は、
「うわあ。千紗、ありがとう! ちょうど着るドレスが青いんだよね」
と言って感激したのだった。
「何言ってんの! お礼を言うのはあたしの方だよ! 赤はあたしの色って言われるし……本当にありがとう!」
お互いに感激しながらも、別れ道に来てしまった。
「それじゃあ、明後日の私の誕生日パーティーで!」
「うん! また明後日!」
「はい、どうぞ。さっさと食べちゃいなさい」
「いっただっきま~す! うわ! やっぱりお母さんのご飯美味しい!」
「全くもぅ。千紗ってばお世辞が上手! ……そういえば、今はもう天国にいるお父さんも、私が作った料理をいつも美味しいって食べてくれたのよね……」
千紗の父は、千紗が五年生の時……つまり、二年前に交通事故で逝ってしまったのだった。
しんみりしてしまった空気を払うように、千紗はことさら明るい声で、母親に話しかけた。
「お母さん、よく覚えてるよね。あたしだったら、そんな細かいことまで覚えてらんないよ。……そう言えば、明後日に由梨亜の誕生日パーティーがあるのね。それで呼ばれているんだけど、何着ればいいかな? あたし、そんな余所行きの物、大して持ってないんだけど……」
「う~ん……そうねぇ、私が前着ていた、薄い赤紫色のドレスは? それに千紗。『そんな細かいこと』とは聞き捨てならないわ。貴女、初恋もまだなんだからそんなこと言えるのよ」
目を不気味にキラッと光らせながら言う母親に、千紗は苦笑しながら言った。
「こっちこそ、『初恋もまだ』とは聞き捨てならないよ。初恋ぐらい経験済み! そんで、ドレスって、あのドレスのこと? 濃い目の赤紫色で蔓草模様が刺繍されてるの。あれちょっと大人びてるよねぇ~」
「――それはそうと、そう言えば千紗、夏休みの宿題は?」
いきなりの母親の話題転換に、千紗は反応が遅れてしまった。
「…………え、えっとぉ~。それはぁ……そのぉ……」
「って、いうことは、まだ、全然手を付けてないわね?」
「ぜ、全然じゃあないんだけどぉ……さっきも由梨亜とちょっとやったしぃ……」
「千紗! 下らないこと喋ってないで早く片付けなさい! さもないと……」
「……さもないと?」
千紗は上目遣いに、そっと母の様子を窺った。
「宿題持って学校に行かせるわよ! ちょうど先生がいて、片付けるのがさぞ楽でしょうねぇ?」
その、あまりにも恐ろしい言葉とにっこり笑った笑顔……。
思わず千紗は身震いしてしまった。
「はい、はい! すぐ片付けます!」
そう言うと、千紗は急いでご飯を掻っ込み、部屋へと走っていった。
それを聞いていた母は、思わずクスッと笑ってしまった。
「あの子は私に遺された、たった一人の娘……。大事に育てなくっちゃね……」
つい、そんなことを呟いていた母は、部屋から聞こえる声に、思わず破顔してした。
「あっれ~。夏休みの宿題どこ置いたっけ~? えーっ。ない~!」
その声が聞こえてくると、千紗の母親は、リビングのテーブルの片隅にその宿題があるのを発見し、ぷっと吹き出して言った。
「千紗~! 宿題ここにあるわよ~!」
「えーーっ! うっそ~!」
ドタバタと、凄い勢いで部屋から出て来た千紗に、母は思わず笑ってしまった。
「全くもう、千紗ったら」
母親はくすくすと笑うと、千紗に宿題を手渡した。