第九章「総票会」―3
翌朝、とても慌てた顔をした、由梨亜妾の上級侍女であり従姉でもある、リーシェ・マリヌ・キルテットが慌てた様子で起こしに来た。
「由梨亜妾様……御起き下さいませっ。一大事で御座いますっ!」
「どうしたのです……? リーシェ。総票会の結果ならば、昨晩聞きましたよ? それとも、峯慶様に、何か御座いましたか?」
「いいえっ。違いますっ! その……それが……」
リーシェはだいぶ躊躇った後、喉の奥から絞り出すような声で告げた。
「陛下が……富実樹様が、行方不明になられましたっ!」
その言葉に、由梨亜妾の顔から、音を立てて血の気が退いた。
「富実、樹が……富実樹が、行方不明……?」
「はい。今日になってから祝賀会は御開きになったのですが、その後、陛下の上級侍女達の証言によると、御部屋まで御戻りになられ、夜着にも御着替えになられたそうですが、ベッドには寝た形跡が御座いませんでした。もしこれが誘拐ならばそれを直して行ったのかもしれませんが……もしかしたら、御覚悟の上での御失踪かと」
リーシェの言葉に、由梨亜妾は間髪を容れずに叫んだ。
「そんなはずは御座いません! これからなのですよ? 地球連邦に、連盟に加盟させる為に話し合いをすると提案したのは富実樹なのですよ? それなのに、それをやり遂げずに失踪するなど……わたくし達の元からいなくなるはずが御座いません! リーシェ、ミリュア、富瑠美と話し合う必要があります。すぐに富瑠美をわたくしの部屋に御呼び下さいませっ! ルーシェ、アルアはわたくしの着替えを手伝って!」
「はい」
ちなみに、このミリュア・ルリアン・トーチェとルーシェ・クリル・フュートとアルア・ルザート・ジョートは、由梨亜妾の従姉妹達で、上級侍女である。
その由梨亜妾は、誰が見ても本当のことを知っているとは思わせないような様子だった。
そして準備は整い、僅か三十分後には富瑠美と対峙していた。
「そんな……まさか、御異母姉様がいなくなられるなんて……」
顔を押さえて呻いた富瑠美に、由梨亜妾は慰めるように言った。
「富瑠美、それは今言うべきことでは御座いませんわ。早急に手を打たねばなりません。貴女は鴬大臣であり、第二王位継承者。ここで貴女が動かなければ、皆が付いて行けませんわ」
そんな由梨亜妾に、富瑠美は疲れたような笑みを浮かべて答えた。
「由梨亜妾、わたくしは、自らの意思で、御異母姉様は出て行かれたのだと思いますわ。何故かと言うと、あの祝賀会で御異母姉様はわたくしにこう仰いましたの。
『もし、わたくしに何かあったとしても、この案を御進めしてもらえないでしょうか』
と。つまり、いなくなる決意をしていたのではないでしょうか。あの御異母姉様が、このような重要なことを置いて出て行くとはとても考えられないのですが、あの御様子からすると、御自分で出て行ったのではないかと思ってしまったのです。残念ながら、この後宮には防犯カメラは存在しません。そんな物、設置する意味が御座いませんでしたから。ですが、本宮の人がよく出入りする場所にはあります。至急、それを確認してもらいましょう。そして、去解鏡の申請を致します。由梨亜妾、御異母姉様は、絶対にわたくしが探し出して見せますわっ!」
富瑠美はそう宣言すると、部屋を颯爽と出て行った。
恐らく本宮に行き、鴬大臣の権限で昨夜の全ての防犯カメラを見て、その一方で峯慶の暗殺者を視るよりも大事な、第一級緊急事項として去解鏡の使用を申請するのだろう。
由梨亜妾はそんな富瑠美の姿に由梨亜妾は苦笑し、思った。
(富瑠美ったら……何て可愛いのかしら。素直で、純真で……残念ですが、富実樹は防犯カメラに映っていないわ。あの癒璃亜女王様が憑いていて下さったのですもの。それに、去解鏡は人の質問に答えるだけ。富実樹が夜どこに行ったかという質問には、寝室に行ったということしか映し出さないでしょうし……正しい質問の仕方としては、富実樹は最後に花鴬国のどこに行くのを望んだのか、もしくは、『本条由梨亜』が花雲恭癒璃亜女王様と会ったのは何故か、という質問でないとね……けれど、真実の断片を知らない人では、そのような質問は思い浮かばないでしょう。……富実樹)
由梨亜妾は、窓から空を見上げた。
空は、今日も高く青く澄んでいる。
(富実樹、貴女はこの空と通じる所にはもういない。けれど、時空を隔てた宇宙の果てに、あの子は元気でいる……。わたくしは、それだけで充分です。あと、峯慶様が御無事でおられるならば……わたくしは、それだけでいいです。神様、この世に、もし神が――そのような名でなくても、わたくしの願いを叶えてくれる力を持った方がいらっしゃるのなら、峯慶様の御命を御助け下さいませ。どうか、御願い致します……)
由梨亜妾は一心に祈り、願い、願い続けた。
「由梨亜妾様……」
由梨亜妾は祈り続けていたが、その声でふと現実に引き戻された。
だが、目を上げた先には、富実樹の上級侍女がいた。
「あら……? 貴女は、シリュィでは御座いませんか。どうなされましたの?」
そう、由梨亜妾に、富実樹の侍女が会いに来たのである。
由梨亜妾と富実樹は親子だが、今の富実樹は王である。
だから、生活する階が違ってくる為、本人同士ならばともかく、侍女が会いに来るなんてことはほとんどないのである。
「由梨亜妾様、富瑠美様からの伝言に御座います。分かったことが御座いますので、本宮に御越し下さいませとのことで――」
由梨亜妾はシリュィの言葉が終わる前に立ち上がり、
「リーシェ、ミリュア! わたくしと共に本宮へ来て下さいっ! ルーシェ、アルアはここで待機し、連絡係となって下さい!」
「はいっ」
「仰せのままに」
「承りましたわ」
「それでは早速参りましょう」
「ええ。ありがとう御座いました、シリュィ。それではリーシェ、ミリュア。参りましょうっ!」
「はいっ!」
三人は、驚異的な速さで歩き去っていった。
シリュィは唖然として伯母の姿を見送っていたが、自分の役目を思い出し、慌てて部屋を出た。
次の日、由梨亜妾は暗い顔付きだった。
富実樹のことは何も分かっていないし、防犯カメラも去解鏡も、何の役にも立たなかった。
そして、峯慶は未だ意識不明である。
だが、それは分かっていたことなので、それが原因ではない別の……重要なことだった。
「ゆり……マリミアン様、御荷物は全てまとめ終わりました」
それを言ったリーシェの顔も暗いが、それよりも重大なことがある。
由梨亜妾は――もう、妾ではなくなった。
ただの、マリミアン・カナージェ・スウェールに戻ったのだ。
その理由は公表するわけにはいかず、表向きは、『ノワール・エリア・スウェールが体調を崩してしまい、心細くなり、無理とは承知しながらも由梨亜妾の帰還を求め、それに富瑠美が同意した』となっているが、本当は『決して大きな声では言えないような大罪をノワール・エリア・スウェールが犯してしまった。よって、戦祝大臣の地位を剥奪、長男のシャーウィン・リシェル・スウェールにその座を譲る。また花雲恭由梨亜の妾の地位剥奪と王宮からの追放、王籍からの削除、また花雲恭由梨亜の侍女侍従の王宮追放をする』というものである。
つまり、由梨亜妾が花雲恭由梨亜でなくなると同時に、上級侍女のリーシェ、ミリュア、ルーシェ、アルアだけではなく、その下の階級にある、総下の血を――つまり、王族の血を引く侍女も侍従も、王宮から出されるのだ。
「失礼致します、御母様……」
由梨亜妾――いや、マリミアンはその声に顔を上げた。
すると、目の前には富瑠美、杜歩埜、些南美、柚希夜がいた。
「貴方、達……」
「ゆ……マリミアン様、本当に、行かれてしまうのですか?」
富瑠美のその不安げな声に、マリミアンは悲しげな微笑みを浮かべて答えた。
「富瑠美、貴女にも分かっているでしょう? それが、決定したことですわ」
「御母様っ!」
些南美は耐え切れずにマリミアンに抱き付き、涙を流した。
「本当に……本当に、御別れなのですねっ……」
「ええ。わたくしは一人で行きます。富瑠美、杜歩埜、些南美、柚希夜。貴方達は、ここで幸せになりなさい。まあ、柚希夜は成人したらここを出るでしょうけれど……」
「はい、母上……」
王族は、王やその伴侶、そして鴬大臣になる以外に、この王宮に留まる術はない。
なので、個々の才能に応じて運動の世界に行ったり、科学研究・学者の分野に行ったり、芸能・芸術方面に行ったり、商売人や官吏になったり、宗教の世界に入ったりする。
柚希夜は教師という職に興味があったので、成人したら、柚希夜は城を出ることになるだろう。
その時だった。
ノックの音がしたかと思うと、いきなり扉が開いた。
「失礼致しますわ、マリミアン」
そう、居丈高に言い、深沙祇妃が入って来た。
だが、その姿を見て些南美と柚希夜が抑え切れずに
「うっ」
と声を漏らし、顔を歪めてしまった。
何故なら、これから王宮を出る為、質素な服装をしているマリミアンに対する当て付けのように、年齢に似合わない豪華なふわふわのドレスを身に纏い、それには様々なずっしりとした刺繍を施した挙句レースをふんだんに巻き付け、透明と黄色と青の金剛石を無数に縫い付け、髪は豪奢に最近の流行に則ってアイロンで細い巻きを大量に作り、それを幾つかの束に纏め、それぞれの束に金糸銀糸を大量に編み込み、珊瑚、翡翠、瑠璃などの宝石を埋め込んだティアラを被り、ネックレスは、粒を丁寧に揃えた涙型の真っ白な真珠と、綺麗に澄んだ翠玉をそれぞれ一連ずつ首に掛け、ブレスレットには大粒の水晶と淡い色の青玉、指輪には大粒な紅玉と桃色をした金剛石を嵌めていたのだ。
いや、よくよく見ると、ドレスには様々な色の小粒の宝石が、もっと大量に付いているようだ。
今のこの世の中、人工でない本物の宝石など金持ちにしか手に入らないのに、全て天然物で、おまけに大粒であり、厭味な宝石の展覧会である。
これからどこのパーティーに行くのかと突っ込みたくなるような格好でもあり、そしてそのパーティーでも浮くこと間違いなしの恰好である。
そして何よりも、既に四十代になっている『オバサン』のする格好ではない。
「御機嫌よう、マリミアン。貴女、王宮から立ち去ることになったのですってね。嫁いだ女性は、滅多に実家へ長期滞在できぬのに、御帰りになられるのですって? それは大変御喜ばしいことに御座いますわね。戦祝大臣が御倒れになったことは残念でしたが」
深沙祇妃は真実を知っているのに、相変わらず図々しい物言いだ。
あまりなことに、富瑠美の頭のどこかがブチッという大きな音を立てて吹っ飛んだ。
「小母様、邪魔ですから何処かへ行って下さりませんこと? わたくし達は御母様との御別れを悲しんでいるのですから。そして、姉が行方不明になったことも悲しく思っているのですから。部外者の小母様なんかに、邪魔されたくは御座いませんのよ」
そのあまりな言葉に、深沙祇妃は絶句し、次いで、見る見るうちに頭に血が上った。
「あ、貴女という娘は! わたくしという母を持ちながら、よくもそんなことを……!」
「生憎ですが、貴女がわたくしを産んだ者でも、わたくしを育てて下さったのは由梨亜妾です。血が繋がっていない? それが何です。由梨亜妾がわたくしを育てて下さったのは、深沙祇妃、貴女がわたくしを育てることを拒否なさったからでしょう。貴女がこのことについて文句を言う資格は御座いません。……さあ、ここから出て行きなさい」
富瑠美はそう言うと、煩そうに深沙祇妃を部屋から追い払った。
その様子を杜歩埜、些南美、柚希夜は唖然として、マリミアンは静かに見守っていた。
「富瑠美、御願いがあるのですが……」
不意に、マリミアンが言った。
「何でしょうか?」
「些南美が成人したら……その頃には、貴女と杜歩埜は結婚しているでしょう?」
「はい。それが、何か?」
富瑠美も杜歩埜も、それを全く変に思っていなかった。
それは、富瑠美がこの国の王族として産まれたことと、富実樹が還ってくるまでは、富瑠美は杜歩埜と結婚して王位に即くことが決まっていたからだ。
「それならば、些南美を総下にして欲しいのです。それが、富実樹の願いでもあります」
富瑠美は目を瞠って絶句し、杜歩埜と些南美は居心地悪そうに身じろぎした。
一般的に、『総下』とは日蔭者であり、仮にも王家の姫君がなりたいと思うものではないと知っている富瑠美は、呆然と口を開いた。
「何故……総下、などに……」
「些南美と杜歩埜が両想いだからですわ。どうか、御願い致します」
大事な異母妹の一人である些南美を、そんな者にはしたくないとは思ったが、真剣なマリミアンの表情と、杜歩埜と些南美の懇願するような表情に、ゆっくりと頷いた。
「……分かりましたわ。それくらいならば、容易いことです。元々些南美には婚約者がおりませんし、官吏になる気も市井で働く意思もありません。些南美は宗教家になるという意思を示しておりましたので、何の問題も御座いませんわ」
「富瑠美御異母姉様……」
杜歩埜と些南美は椅子から立ち上がると、その場に膝を付いた。
「ありがとう御座います、富瑠美御異母姉様。この御恩は決して忘れませんわ」
「私もです。本当に、ありがとう御座います」
「いいえ。でも、貴方達がそのことを何年も秘密にしておいたことは、とても驚きましたわ」
「大したことでは御座いませんわ。ただ『賢い異母兄を慕う純粋な異母妹』と『異母妹の面倒見のよい優しい異母兄』を演じていただけですわ」
その場にいた皆がクスッと笑ったその瞬間、リーシェが部屋に入ってきた。
「マリミアン様、そろそろ、時間で御座います」
「まあ……もうそんな時間。それでは富瑠美、杜歩埜、些南美、柚希夜……幸せになりなさい。それが、わたくしの願いです。それと……どうか、峯慶様を――貴方達の父を、宜しく頼みます。それでは、さようなら」
「御母様……さようなら」
「私は、絶対に忘れません。御元気で、母上」
「きっと……また会って見せます。その時までは、さようならですわね」
「さようなら……御元気で」
多種多様の別れの言葉を耳にし、マリミアンは部屋を出て行った。
マリミアンが部屋を出て行くと、些南美が長椅子に座り込んだ。
「御母様……」
些南美の目から、涙が零れ落ちた。
そんな些南美の姿を、誰も慰めることができなかった。
何故なら、彼らも同じように打ちのめされていたからだ。
特に富瑠美は、視線を床に落とし、涙を必死で堪えていた。
(御異母姉様も、御父様も、マリミアン様もいなくなってしまった……御異母姉様には、何も手掛かりがない。御父様は昏睡状態。マリミアン様は、王宮追放……そして、わたくしが王位へ……。まるで、呪われているようですわ。御願いです。御願いですから、御異母姉様……戻って来て下さいっ!)
だが、そんな富瑠美の命を賭けるかのような必死の願いは……決して、叶えられることがなかった。