第九章「総票会」―2
富実樹は、侍女達がベッドを整え、部屋を出て行くのを黙って待っていた。
そして、それを侍女達は
(きっと御疲れなのでしょうね)
と思い、サッサと部屋を出て行った。
その気配が感じられなくなった頃、富実樹は着ていた夜着を脱ぎ捨てて女官服を身に纏うと、『本条由梨亜』に姿を変え、音もなく、誰にも見咎められずに部屋を出て行った。
富実樹は先程いた本宮に戻っていた。
そして、目的があるように見える足取りで、特に人の少ない一画へと向かっていた。
そして、着いた場所は……そこは、あの資料庫であった。
何故そこにいるのかを説明できるのは、富実樹自身と峯慶、由梨亜妾のみだろう。
ガッチャ
ギィ~イ~
ガッ グッ ガッチャン
と、またもや不気味な音を立てて、資料庫の扉が開いた。
富実樹は、ある決心をし、そして今朝見た資料庫の夢を思い出していた。
しかし、それは前の日にこっそり忍び込んだ時と違うところがあった。
まず、視点が違う。
それに違和感を覚え、ふとキエシュの入っているケースに映った自分を見ると、何と『由梨亜』になっていたのだ。
富実樹の意識自体は驚いたものの、体はさっさと歩いて行った。
そして、あの亜空間に通じる紋様の所まで来ると、千紗と一緒に千年前に行った時、病院で見つけたあの交換日記帳から出た銀色の光と同じ光がその紋様から溢れ出て、その光を浴びた『由梨亜』は全く躊躇わず、その紋様の中に足を踏み入れていた。
そして、その中にいる女性と会い、その女性が言葉を口にした時……『由梨亜』には、彼女が何を言っているのか……そして、何語で喋っているのかが解ったのだ。
彼女が示していたのは、地球連邦に還る方法――話していたのは、日本語。
そこで、富実樹は目が覚めたのだった。
富実樹は目が覚めると、今見ていた夢は真実だと、直感的に分かった。
そしてそれが、自分が喉から手が出るほどに望んでいることだということも知っていた。
だから、富実樹は決めたのだった。
総票会が、自分の……『花雲恭富実樹』としての、最後の仕事だと。
勿論、簡単に自分の生まれた国を捨ててもいいのかと問われると、言葉に詰まるだろう。
だが、富実樹は自分の出した考えは……最終論説で述べた自分の考えは、決してこの国の人達には理解してもらえないものだと感じ取っていた。
勿論、投票者は、僅差ではあったが過半数を超えた。
だが、きっとそれは、富実樹の出した、他人には考え付きもしなかった『真新しい考え』に心を動かされたのが大半だろう。
『地球連邦』と『花鴬国』……そこに住む人達の考えは、全く違っていた。
そんな花鴬国では、富実樹という平和的な考えを持った王などは、必要ない。
必要なのは、富瑠美のような考えを持った勇ましい王。
富実樹は、心残りはあったものの、この国の民にとってはもう必要がなくなった自分は、地球連邦に還ってもいいだろうと思った。
それに、王としての責務は、自分などよりも富瑠美の方がよっぽど上手くやれるし、そもそも自分が十三になるまでは、そちらの方が、確定していた未来だったのだ。
心残りは、父の生死と、暗殺者の黒幕、そして杜歩埜と些南美の恋愛。
だが、地球連邦に還っても父の生死は知ることができるし、暗殺者の黒幕も同じである。
杜歩埜と些南美の恋愛に関しても、富瑠美が王位に即けば、その夫は杜歩埜となり、つまりは、些南美は総下になれ、杜歩埜と一緒になれる。
富実樹の心残りは時間が解決するであろう問題で、自分が口出しできる問題でもない。
それらの解決を待ってから行くこともできるが、そうなると次の仕事が入ってしまう。
一旦仕事の区切りがついた今日を逃すと、次の機会はいつになるか分からない。
だから今、富実樹は資料庫へと向かったのだった。
富実樹は由梨亜の姿になると、あの紋様の所まで駆けて行き、一歩足を踏み入れた。
すると、一昨日のように突風が吹き抜け、あの亜空間に飛んだ。
そして、あの女性が現れると、地球連邦の古代語で
『貴女は何を望みますか?』
と訊ねてきた。
富実樹は、今度は激昂せずに、穏やかに地球連邦の古代語で答えた。
「地球連邦に……還ることです」
すると、あの女性が、また問いを重ねた。
それは、一昨日は意味の解らないものであったが、今は、意味が解った。
『その為に、貴女は全てを捨てられますか? その覚悟があるのなら頷いて下さい。何か質問や希望があるのなら、仰って下さい。何か仰る時は、現代の言葉で構いません』
富実樹は静かに深呼吸すると、頷き、口を開いた。
「私は、地球連邦に戻りたいです。今まで、ここで得ていたものを全て捨て去っても。そして、地球連邦に戻った時にして欲しいことがあります。と言うより、変えて欲しいことが」
『何でしょうか?』
「それは……あの、私と千紗を、双子にして下さい。そして、千紗だけは真実を……今までの偽りの記憶も、本当の記憶も、全て覚えているようにして下さい」
『ふ…………双、子?』
その女性は、呆気に取られたように呟いた。
だが、それに対し、富実樹は大真面目に答えた。
「ええ、そうです。今の私が地球連邦に戻っても、戸籍はないですよね? もし本条家に戻るとしたら、千紗は彩音家に戻ってしまう。千紗の本当の両親は、本条耀太と本条瑠璃なのに。けれど、これ以上関係ない人を巻き込む訳には行かないんです。なので、私と千紗が双子になれば……そうすれば、何もかもが解決するんです」
『……そう、ですか。では、どちらを「姉」とするのですか?』
「それは、産まれた順で――の方で」
富実樹は、内緒話をする時のように、女性の耳元で呟いた。
『はい。承りました。富実樹……わたくしの血を継ぐ者よ』
「血を……継ぐ? 貴女は……一体、何者なんですか?」
富実樹は混乱してしまった。
この女性が、生きていた人間だということも、先祖だということも。
『わたくしは、貴女の曾祖母。何故死んだはずのわたくしがここにいるかと言うと、わたくしの孫、峯慶に頼まれてのこと』
(えっと、私の御父様の、御祖母様って……あっ。もしかしたらこの人は……)
「花雲恭、癒璃亜様……?」
花雲恭癒璃亜とは、この花鴬国の元女王で、魔族の力を全て持って産まれた前代未聞の人物であり、その時代はとても平和だったという、富実樹の曾祖母である。
『御名答。さすがですわ。さて、そろそろ行きましょうか? ……そうそう、峯慶と、わたくしと同じ名を持つ由梨亜妾になら、伝言が残せますわよ』
「ええ、それでは、御父様には――と。御母様には――と御伝え下さい。それと……親不孝者で、すみませんと」
『はい。それでは、富実樹。貴女が地球連邦に行っても、元気でいますように』
「はい。……ありがとう御座います、曾御祖母様。それでは……さようなら」
『さようなら、富実樹』
癒璃亜は富実樹のことを暖かい目で見守り、亜空間を、真っ直ぐに下に向かって落ちていく富実樹――いや、もう由梨亜の体になっている富実樹のことを、ずっと見ていた。
そして、由梨亜の姿が消えた時……それと一緒に、癒璃亜の姿も消えていた。
由梨亜妾は、ふと目が覚めて、枕から顔を上げた。
窓の外はまだ暗く、夜明けまではまだまだ遠い。
だが、嫌な予感が……ざわざわと、胸騒ぎがする。
由梨亜妾は微々たる魔力を持っているが、このこと自体は、別に珍しくない。
何故なら、花鴬国の人間で魔族の血が流れていない人間などほとんどいないからだ。
そして、由梨亜妾が使える魔法はないが、鋭い……鋭過ぎるほどの勘を持っていた。
おまけに、その勘が外れたことは今まで一度もない。
だから、由梨亜妾は起き上がった。
由梨亜妾は鋭い勘は持っていたものの、その出来事を特定することはできない。
だから、一番懸念していたこと――峯慶に何かが起こったのではないかと思ったのだ。
そして、由梨亜妾は峯慶の枕元に行ったものの、別に何もなかった。
峯慶は穏やかな寝顔で、月光を浴びていた。
だが、その顔はよく見ると、汗が出ている。
毒を体外から出そうとする働きの為、高熱も出ている。
しかし……言い換えれば、特に変わった様子はない。
由梨亜妾は首を捻り、だが峯慶に何もなかったことに安堵し……眠ろうとその場を動いた瞬間、部屋に突風が駆け巡った。
由梨亜妾が驚き、その風の渦の中心を見詰めていると、その中から人が現れた。
「癒璃亜、女王様……」
由梨亜妾が呻くように呟くと、その人は穏やかな、慰めるような微笑を顔に浮かべた。
そのことで、由梨亜妾は何もかもを察し、その場に崩れてしまった。
そして、嗚咽を漏らし、その頬を涙が滑り落ちた。
そんな由梨亜妾の背中を、癒璃亜はそっと撫でた。
「それでは……癒璃亜女王様がここにいらっしゃるということは、つまり、富実樹はもう、地球連邦へ……!」
『はい。そうですわ。そして、貴女方に伝言を預かっております』
「伝言……?」
『はい。峯慶、目を御覚ましなさい』
癒璃亜のその言葉に、峯慶は目を開けた。
だが、それは癒璃亜の力を持って一時的にしたこと……癒璃亜が術を解くか、一定の時間が過ぎれば、また眠りに落ちてしまう。
由梨亜妾はそのことを知っていた為、手早く峯慶に今の状態を説明し、癒璃亜からの伝言を聞く体勢に入った。
『由梨亜妾には、
「御母様、御免なさい。わたくしは御母様の気持ちを知っていたのに、それに答えることはできません。どうぞ御許し下さいませ」
と。峯慶には、
「御父様、わたくしのせいで毒殺されかかってしまい、本当に申し訳ありませんでした。犯人を捕まえる前に去ってしまいますが、御祖父様に指示し、どのようにすればよいかを託しました。わたくしの代わりに、全てやってもらいます」
と。そして、二人に、
「親不孝者ですみません」
との伝言でした』
癒璃亜の伝言に、由梨亜妾はそっと目を閉じて涙を流し、峯慶は静かに聞いていた。
そして、その伝言を言い終わると、癒璃亜はこう言った。
『さて、わたくしはこれで役目を終えました。逝かせてもらっても宜しいですか?』
その問いに、峯慶は頼み事をした。
「もし……もし、まだこの世にいらっしゃっても宜しいのならば、どうか、富実樹に憑いていてもらえないでしょうか」
『富実樹に……? しかし、あの子は』
「はい。だからこそ憑いていて欲しいのです。もし大臣の座を得ている者が暴走したら、そのことを伝えて欲しいのです。あの子の護りとなって欲しい……守護霊として」
『守護霊、ですか……いいでしょう。富実樹には、確か守護霊が憑いていませんでしたから。地球連邦に行くのは少し骨ですが、やってみましょう』
「嗚呼……ありがとう御座います、御祖母、様」
峯慶はそう言うと、ガクッと頭を垂れ、眠りに付いた。
由梨亜妾はその突然のことに目を丸くしていたが、峯慶の体を元通りにベッドに横たえると、癒璃亜に向き直った。
「癒璃亜女王様、どうぞ御願い致します。どうか……富実樹を、御護り下さいませ」
『由梨亜妾、其方は、このことに不満ですね』
「ゆ……癒璃亜、様……!」
由梨亜妾は、狼狽えた。
自分の心の真実を見事に言い当てられたからだった。
由梨亜妾は、富実樹のことを目に入れても痛くないと思っているが、それは峯慶の前でも露わにしてはいけない感情だった。
富実樹は未成年だが、既に被保護者ではなく、この国の国民全ての保護者なのだ。
だから、そんな富実樹に占有物のように接することは、断じて許されない。
だが、そんな由梨亜妾に、癒璃亜は笑って答えた。
『その気持ちは、母ならば誰にでも共通する想いです。わたくしにも息子が二人、娘が一人いますが、後を継いだ籐聯も、鴬大臣になった奨砥も、他国の王子に嫁いだ梨美亜も、手放したくないほど可愛がっていましたから。そのことを思うと、貴女と富実樹を引き離したのは、可哀想なことでした』
「いいえ、わたくしは、富実樹のことを手放したくないと、一生傍にいて欲しいと思っています。ですが、それはわたくしの自儘な考えでした。富実樹は、わたくし達よりも、地球連邦の友の方が大事なのです。仕方がありません。ですが、それとわたくしがあの子を愛するのとでは、全くもって話が違いますわ。ですから、今までこの国に留まってくれたことに、感謝したいと思います」
『そうですか……それでは、わたくしは富実樹の所に参ります。御元気で、由梨亜妾』
「はい。癒璃亜女王様も、どうか御元気で」
違う字ながら、同じ読みの名を持つ実体と幽体の二人――同じ花雲恭の名を持つ二人は、しばらく見詰め合い、そして癒璃亜は消えた。
由梨亜妾は、そっと涙を流しながら、眠りに戻った。
明日から、富実樹女王が消えたことで様々な懸案が出て来ることは、確実なことだったから。
由梨亜妾にとって血の繋がらない娘、鴬大臣である富瑠美のことも考え、眠りについた。