第八章「あり得なかったはずの凶行」―2
富瑠美は、本宮の富実樹の執務室から離れた所にある、富瑠美専用の執務室に居た。
何をやっていたかと言えば……何と、うたた寝をしていた。
富瑠美の方も文章の推敲が終わり、既に政財大臣の手にキエシュは渡っていた。
今日は仕事を入れてしまうと総票会に差し障るというので、他に仕事は入れていなかった。
なので、推敲が終われば暇である。
そしてぼんやりとして居ると、何時の間にかうたた寝をしていたという訳だ。
富実樹は、扉をノックすると、声を掛けた。
「鴬大臣殿下? 御入りしても宜しいでしょうか?」
……返事がない。
「もし、鴬大臣殿下?」
…………それでも、返事がない。
意を決して、勝手にロックを外し、入ることにした。
「失礼致しますわ」
富実樹が部屋に入った途端、
「…………」
富実樹は固まってしまった。
何と、あの富瑠美が寝ていたのだ。
富実樹はゆっくりと歩み寄ると、肩を揺らした。
「う、う~ん……もう少しだけ……御願い致しますわ……ムニャ」
「………………」
それでも、肩を揺らし続ける。
「駄目、ですわ……あと……あと、少しですから……」
「……………………」
富実樹の頭で、何かがプチッといった。
「富瑠美、呑気に御眠りになられている場合じゃ御座いませんわよ」
富実樹は富瑠美の耳元に顔を寄せ、低い声で言った。
その上、富瑠美の体に手を回し、何とそのまま持ち上げたのだ!
さすがにそこまでされれば、目が覚めない訳にはいかない。
「きゃっ……あ、ら? 御早う、御座います、わ。どう、致しましたの?」
富瑠美は寝惚け眼でぼんやりと呟いた。
だが、次第に目が覚めてきたのか、
「あら、ら……夢、では……!」
と言うと、完璧に目が覚めたようで、慌てて富実樹の手から逃れると、そのままへたり込んでしまった。
「お、おね、おね……何、な、な……か、変わ、って……」
あまりにも慌て過ぎたせいで、ろくに喋れていない。
富実樹は小さく溜息をつくと、富瑠美に向かって言った。
「富瑠美、落ち着いて頂けませんか? そして椅子に御座り下さい。御話はそれからです」
富実樹は、富瑠美を椅子に座らせ、簡単に作ったフルーツジュースを飲ませた。
そして富実樹は峯慶のことを、恐らく富瑠美派がやったということを除き話した。
富瑠美はしっかりしているからこそ、一度憤るともう手が付けられない。
……もう、誰も止められなくなる。
そして、下手をしたら富瑠美派の関わった全員を終身刑にする可能性がある。
そこまで気性の激しい富瑠美を、敢えて刺激するつもりはない。
だが話を聞き終わった富瑠美は拳を握り締め、唇を引き結び、目を怒らせ、般若のような形相になっていた。
それは、思わず富実樹が後退るほどだった。
「ふ、富瑠美……顔が怖いですわ……」
「あら、それは申し訳御座いませんわ」
全然、申し訳なく聞こえない上に、声が怖い。
富実樹が気迫を呑まれ、何も喋れないうちに、富瑠美が口を開いた。
「御異母姉様。犯人は、御分かりになられて?」
「い、いいえ」
「そうですか……身内の恥を曝すようになりますが、わたくしは、鴬大臣派の方がおやりになられたことだと思いますの」
富実樹は、思わずはっと息を呑んだ。
それで、富瑠美には全て分かったようで、フゥ、と溜息をつくと、先程の表情とは打って変わり、意外なことに穏やかな目をして言った。
「やはり、そうでしたの……御父様の御命を狙うなど、御異母姉様の陣営の人間がおやりになられるとは思えませんもの。それに、そのことを御公表されて困るのは御異母姉様ですからね。……許せませんわ。犯人の特定を御急ぎ下さいませんか?」
「す、少し御待ち下さいませ。勿論これは私論で御座いますが……わたくしも戦祝大臣殿も、富瑠美と同じ意見です。富瑠美派の人間がおやりになられたことだと思いますわ。けれど、何一つ証拠が御座いません。去解鏡を使うといっても、許可が出るまで、時間が掛かりますわ。わたくしが勅命を下せばもっと速くできるかも知れませんが、それはそれで後に不穏分子を生み出す原因にもなりかねません。そして時間があれば、結果を伝える者を買収することが可能です」
「で、ですが……何か、方法は御座いませんの? 何か……」
富実樹は少し詰まると、ヒソヒソ声で言った。
「あの……これは秘密にしておいて下さいませ。実は戦祝大臣殿の御家に去解鏡がありますの。今日、それを見てもらえるように御頼み致しましたわ。そして、わたくしは勅命を下しません。それに、去解鏡の結果を発表するのは、戦祝大臣の管轄でもなく、政財大臣の管轄でもない宗賽大臣の管轄です。宗賽大臣殿は特にどちら派と言う訳ではないので、買収の危険があります。なので、今夜買収させます。そして戦祝大臣殿には、御父様を暗殺しようとした方が……まだ、どなたなのかは分かりませんが、その方が御父様の暗殺を謀っていたのではないか、という噂をばら撒くように指示しておりますわ。そしてこのことは他言無用に御座います。話は、以上です。何か御質問は御座いますか?」
キッパリと言い切られると、富瑠美は何を言っていいのか分からなくなり、首を横に振るしかできなかった。
本当は、訊きたいことがいっぱいあったのだが。
だが、富実樹はそれを見るとにっこりと笑い、
「ありがとう御座いますわ。それでは失礼致します」
と言うと、カートの上に空になったコップを乗せ、部屋を出て行った。
廊下を出ると、政財大臣にばったりと出会った。
富実樹は侍女らしく廊下の端に寄ると、頭を下げて通り過ぎるのを待った。
だが、目の前で足を止められてしまった。
「そこの者、面を上げよ」
貴族に、たかが下級侍女が逆らえるはずがない。
ゆっくりと、顔を上げた。
「見慣れぬ顔だな。其方、名は何と申す」
「……わたくしは、ユーリと申します」
あっさりと名前だけを伝える富実樹に、政財大臣は不快な顔をした。
「私は、名を申せと言ったのだ。つまり、其方の身分と全ての名を申せ。この私の命令に従えぬと抜かすか」
……ここで従う、先王付きの後宮勤めの下級侍女などいるはずがない。
なので、それに則ったやり方で、富実樹は答えた。
「あの……わたくしは、貴方様を存じ上げませんの。御無礼なことと存じますが、貴方様は一体どなた様でいらっしゃいますのでしょうか?」
あまりの答えに、政財大臣は絶句した。
「何を……」
「ほんに御無礼なことと存じ上げます。ですが、わたくしは本宮勤めの侍女では御座いません。わたくしは、後宮の先王陛下の下級侍女に御座いますので……」
「なるほど、な。あの前陛下は、自らの娘に下級侍女をさせておったのか」
政財大臣のその勘違いに、富実樹は目を瞠り慌てて言い訳を捻り出した。
「いえ、わたくしの曾祖母は、陛下の曾御祖母様にあらせられる花鴬国第百五十代国王陛下であらせられた、癒璃亜女王様の父君であらせられた、花鴬国第百四十九代国王陛下、襖祥王様の娘に御座いました。つまり、癒璃亜女王様の異母妹ですから、先王陛下との血の繋がりはありますが、娘では御座いませんわ。わたくしと先王陛下は、三従兄妹に当たります」
富実樹のその答えに、政財大臣は目を瞠り、頷いた。
「なるほど。私は、政財大臣のフォリュシェア・アメリア・シャリクだ。私が、其方の身分を訊ねたのは、王家との血の繋がりがなければ、妻にしようと思ったのだが」
富実樹はギョッとし、そして思い出した。
貴族は、王家との血の繋がりがない侍女ならば娶ることができるのだ。
富実樹の祖父であるノワールも、確か妻の内に元侍女がいたはずである。
「だが、そのようなことなら無理だな……そうだ、ユーリとやら」
「は、はい、何で御座いましょうか?」
「先王陛下は、どちらに投票するか、存じておるか」
「はっ?」
富実樹は、本気で
(こいつって……正真正銘の、大馬鹿者?)
と思った。
そのようなことは、訊かないのが礼儀である。
「い、いいえ……ですが、最終論論説で御決めになられると思いますわ」
「存じない、か……」
その口調に、違和感を覚えた富実樹は、フォリュシェアに訊き返した。
「あの、政財大臣様は、どちらに御投票なさるおつもりですの?」
どちらに自分が組していようと、敵対する陣営の意見の方がいいと思った場合は、統計は匿名化されて集計されるということもあり、そちらに投票することができる。
……まあ、フォリュシェアの場合、代表者である為それはないだろうが。
「私が、か? 勿論、鴬大臣殿下の方だ。陛下の御意見も、尊重すべき所はある。だが、現実問題として考えると、鴬大臣殿下の御意見の方が、やりやすいのだ。それに……」
フォリュシェアは、そこで一息付くと、続けた。
「私は、あの小娘の仰ることは、いまいち信用がならん!」
富実樹は、思わず腰を抜かしかけた。
「あの陛下は、まだこの国に来て間がない。だが、鴬大臣殿下は違う。まあ、陛下ももう少しすれば御分かりになられるようになるだろうが……何故戦祝大臣の方が、政財大臣よりも位が高いのか。何故、王家の妻が六人、子供が十五人必要なのか。何故、何人もの王家の人間が宗教家になるのか。そのことが御分かりになられてこそ、私はようやく陛下を信頼できる。しかし、今はまだその段階ではない」
フォリュシェアははっきりきっぱり言い切ったが、そこに富実樹は、ただ敵対心を燃やしているのではなく、王として信用できるか否か、という響きを感じた。
「わたくしは、貴方様に嫁ぐことも、何もできません。それに、わたくしは鴬大臣殿下よりも陛下の方を信頼しておりますわ。ですが、敵方におられる貴方様が、陛下を信用する可能性があり、先王陛下をとても信頼していたということが分かりましたわ」
「な、何、を……」
フォリュシェアは慌てて言ったが、ヴェールに蔽われた人の心を読む訓練を長年積んでいた富実樹には、相手をたかが侍女だと油断している人の心を読むのは朝飯前だった。
「それでは失礼致しますわ。仕事がありますので。わたくしは貴方様と出会えて良かったですわ。貴方様は、陛下の敵では御座いませんと分かりましたから」
それを言い残すと、富実樹は一礼をし、立ち去っていった。
その後姿を、フォリュシェアが見つめているとは思いもせず。
富実樹が遠ざかると、フォリュシェアは、ぽつりと呟いた。
「何と言えばいいのか……気の強そうな、娘であるな。あの娘が王家の血を引き継いでいるとは残念だ。私の好みであったのに……」
そう言うと、富瑠美の執務室をノックし、入って行った。
フォリュシェアはそこで、楽しげに『ユーリ』という下級侍女の話をしたが、それを聞いた富瑠美は、父が意識不明の重体であることを忘れ、大爆笑を堪えたり、真っ蒼になったりするのを堪えるので大変だった。