第五章「時と宇宙(そら)を越えて……」―2
途中でいじめの表現があるので、苦手な方はご注意下さい。
千紗が気付くと、そこには見慣れない天蓋があった。
それ以前に、体が柔らかな布団の上に横たわっていることに途惑いを感じた。
(一体……ここは、どこ……? 確かあたし……千年前に、飛ばされて……色々あって……それで……。そうだ。香封畏院に入ったんだった。そして……由梨亜と話さなくなって……封香奏祭があって……。それで、その、最後の日に……由梨亜はっ……! 由梨亜が……本条由梨亜じゃなくて、花鴬国の王女様、花雲恭富実樹……で……あたしが、彩音千紗じゃなくって、本条、千紗で……! そうだ。由梨亜……由梨亜はっ?)
ゆっくりと体を起こし、由梨亜を捜して辺りを見渡すと、鈴南がシーツの上に頭を乗せて眠っていたのに目が留まった。
千紗は、少し焦った。
鈴南は本条家に仕えている召し使いだが、本条家は上流貴族の家柄。
たかが召し使いといえども、普通、庶民は本条家の人の目に届く所には雇わない。
庶民は、庭の手入れや召し使いの身の回りの世話をしたり、屋敷を掃除する機械を手入れしたり、台所仕事をしたりする、本当の端者なのだ。
本条家の令嬢に仕えるならば、最低でも下流貴族の娘なのである。
なのに、人前で寝てしまうなんて……それも、自分の仕えている人の前で寝てしまうなんて、とっても恥ずかしいことだ。
少なくても、自分の知っている限り、鈴南はそう考える人物である。
一瞬、千紗は鈴南を起こすことを躊躇ったが、思い切って起こすことにした。
「鈴南……起きてる?」
千紗がそう呼び掛けると、鈴南は一瞬ビクッと体を震わせ起きた。
「お、お嬢様……お……お目覚めですか? これは、申し訳ありませんでした」
鈴南はそう恐縮して謝った後、
「千紗様、少々お待ち下さいませ。今、旦那様、奥方様、侍医をお呼びして参ります」
鈴南はそう言うと慌てて部屋を出て行った。
余程恥ずかしかったのだろうか、可哀想なことに、顔が真っ赤である。
千紗はその間に、鈴南に気を取られてあまり詳しく見なかった部屋を見渡した。
千紗は、自分の記憶の中にある由梨亜の部屋の記憶とこの部屋を照らし合わせたが、やはり、これは由梨亜の寝室だ。
今の千紗の状態から見て右側にある扉の向こうは由梨亜の居間のような所で、千紗が遊びに行くとその部屋でよく遊ぶ。
その更に奥にある扉の向こうは、勉強部屋のはずだ。
いつも、由梨亜の家に遊びに行くと、沢山の部屋が由梨亜一人の為にあることに、呆れ半分、羨望半分の思いを抱えていたことを、はっきりと思い出す。
(……良かったぁ……まだ、由梨亜との記憶を……彩音千紗としての、あたしの記憶を、失ってない……)
その時、鈴南が侍医と由梨亜(ではなく千紗)の父と母を引き連れて戻って来た。
「千紗様、具合が悪い所はありますか?」
そう侍医が問い掛けてきて、千紗はようやく自分の体がどういう状態なのかを確認した。
大した痛みはないが……何だか、よく分からない。
「えっと、少し眩暈がするような……グラグラするような……変な感じです」
千紗が正直に言うと、侍医はあっさりと言った。
「それは、お腹が空かれたからでしょう。ですが、まだ消化のよい物を食して下さい。少しずつ元に戻っていくでしょうから、それまでは我慢して下さい」
侍医は、由梨亜(ではなく千紗)の父と母に言った。
「薬を処方しておきますので朝と夕に飲ませて下さい。あと無理に起こして疲れさせないようにお願い致します。それでは鈴南殿、薬を調合してお渡ししますのでこちらへ」
侍医はそう言うと鈴南と一緒に部屋を出て行った。
「千紗……」
由梨亜(ではなく千紗)の母は、千紗の額にかかっている髪を掻き上げ、優しく、にっこりと微笑んだ。
「千紗、貴女は一日、眠り続けていたのよ。夏休みが明けたその初日に、貴女、一人で、屋上でお弁当を食べていたでしょう? その時、貴女は倒れてしまったのよ。貴女が倒れたと聞いて、本当にびっくりしたわ。心臓が止まったのかと思ったのよ」
「千紗、お前は起き上がれるようになったが、まだ本調子ではない。無理せず寝ていなさい。なにか欲しい物があれば、言ってくれ。できる限りのことは叶えてやるから」
「いいえ。何もないです」
千紗がそう答えると、由梨亜(ではなく千紗)の父は
「そうか。では、何かあったら鈴南に言え」
と寂しそうに言い、部屋を出て行った。
由梨亜(ではなく千紗)の母は、千紗の枕元に座った。
「千紗、もうしばらく眠っていなさい」
由梨亜(ではなく千紗)の母は、千紗を愛おしそうに撫でて、子守唄を謡い始めた。
千紗は、
(十三歳になったのに子守唄か……)
と少々呆れながらも、その手の感触を楽しんだ。
千紗の(実は養)父と(実は養)母は共働きで、幼い頃の記憶は、ほとんど保育所で遊んでいる記憶だ。
物心がついてから、(実は育ての)両親に甘えた記憶は少なく、親としての優しい手をほとんど知らないのだった。
しかも、千紗の(実は養)父が死んでからは、(実は養)母は家計を支える為に今まで以上忙しくなり、休みもほんの少ししか取れなくなった。
そして、その手触りを楽しんでいるうちに、千紗は、深い眠りへと引き込まれて行ったのだった……。
千紗は三日も経つと、元通り元気になった。
千紗は動き回れるようになると、屋敷中の絵や写真、今まで撮った成長記録などを全て確かめたが、恐ろしいことに、全て由梨亜の代わりに幼い千紗が写っていた。
最初は記憶を探っても何もなかったが、しばらく時間が経つうちに、その光景が浮かび上がり、その頃の、自分の本当の記憶が思い出しにくくなり、千紗は鳥肌が立つのをまざまざと感じた。
「ど、して……」
そう、声が漏れるのを、抑えることができなかった。
(あたしは……由梨亜の記憶を、少しずつ失っていくの? だんだん? 少しずつ? だったら……いっそのこと、最初っから、全部奪えば良かったのにっ……!)
そう思うことを……抑えることが、できなかった。
千紗は目覚めてから一週間後、学校へ行くことになった。
そして学校へ行った千紗が教室のドアを開けると、喜色満面の並樹咲が振り返った。
「あら、千紗様!」
そう言うと、驚異的な速さで千紗の前まで来て、その勢いに、思わず千紗は一歩退いた。
「千紗様、お加減は宜しいですか? あたくし、千紗様が学校に来られるようになって本当に嬉しく思います!」
咲はそう嬉しそうに言うと、嫌そうに後ろを振り返った。
「おお、嫌だ。千紗様、ご覧下さいな。この清潔な学校に黴菌がおります。お前達、何をしているの? すぐに追い出しなさい。千紗様にも、このあたくしにも、この黴菌と同じ空気を吸わせるおつもりっ? お前達庶民とは違い、大貴族である千紗様はとても繊細なのですよっ?!」
その言葉に、千紗は由梨亜が転校してきたばかりの頃のことを思い出し、嫌な気分になって眉を顰めた。
けれど、咲に一喝されたクラスメイト達は、咲に目を付けられるのが嫌なのか、続々と動き出した。
「おい、香並、立てよ」
「そうよ。第一、咲様と名前が二字も被ってるなんて、目立ちたがりにもほどがあるわ!」
みんなにいじめられている香並都樹は、優しく大人しい気性の少女である。
だが、そこが咲の癇に障ったのか、都樹は咲にとって、千紗以来である二年振りのいじめのターゲットになっていた。
都樹は、みんなに囲まれ、怯えていた。
「おい、何か言えよ」
「えーっ。黙秘権かよ」
「っつーか、香並にそんな権利なんてあんのかぁ?」
「って言うか、香並に人権ってあったっけ?」
「ないない、絶対ない! って言うか、香並って、人間だったっけか?」
「ああ、こいつは黴菌だ!」
「ええ、その通りです! これからはみんなもそれを黴菌と呼びなさい! それは人でもないし、名前もないのですから! 力でもって、このことを思い知らせなさいっ!」
咲の言葉にクラス全員で笑い、都樹の持ち物を全て都樹に向かって投げ付け、殴り蹴る。
その笑いには、咲は気付いていなかったが、恐怖が滲み出ていた。
本当はいじめたくないけど、言い返したり、参加したりしなかったら、自分がいじめられるから――
自分だけはいじめられたくないし、人身御供が他にいるなら別に、それで――
そういう思いが、このクラスを覆っていた。
しかも、このいじめは、傍観者という者が存在できない。
もし傍観していたのなら……例えば、みんなでいじめている人物を取り囲んでいる時、もし一人だけ取り囲まなかったら、今度はその人がいじめられる。
もし全員でやらなかったら、咲が教育委員会に泣き付き、全員、退学か停学となるだろう。
先生達も、怖いから言いなりだ。
千紗には、その思いが痛いほど分かる。
千紗も、二年前までいじめられた一人だったから。
その思いを、まざまざと付き付けられた張本人だから。
だが、だからと言って無視する訳にはいかない。
千紗は、都樹を庇うつもりだった。
由梨亜が千紗を救ってくれたように、今度は千紗が。
「あんた達っ! もう、好い加減やめなさいよっ!」
「千紗……様?」
咲は呆然としながら言った。
恐らく、五年生の時に転校して来た『本条由梨亜』と、それまでいじめられていた『彩音千紗』という存在が消え、五年生で転校して来た『本条千紗』という存在のみになった為、咲が千紗をいじめていた事実はなくなり、勿論『本条家の令嬢』に咲がいじめを咎められることもなく、いじめが再発したのだろう。
その事実に苛ついた千紗は、途惑う咲を丸っ切り無視する。
「あんた達ねえ、そういう風に嫌々いじめるのって楽しい? 本当は嫌なんだけどって思ってるの、ものすっごく分かるよっ? そうやっても、咲が喜ぶだけ! もう、こんないじめなんてやめてっ!」
千紗はそう叫ぶと、都樹の所に行き、手を差し伸べた。
「大丈夫? 都樹」
「すみません……ありがとうございます、千紗様」
「やめてよ、敬語なんて。他のみんなも」
千紗は、周りをグルッと見渡した。
「今後一切、いじめはやめて。もしあたしの目の届かない所で咲がいじめていたら、すぐにあたしに言って。……咲」
そう言うと、千紗は咲に向き直る。
「今後一切、いじめを禁じます。それがあたしの耳に入ったら、どんなことになるのか分かってるわよね? 本条グループには、そういうようなことをやれるだけの力はあるわよ」
千紗が脅しを掛けると、咲は顔を歪め立ち去った。
「千紗様……本当に、ありがとうございます」
都樹が千紗に向かってお礼を言うと、
「そんな大したことをやったつもりはないわ。だから、お礼なんて必要ないわよ」
「ええ。分かりました、千紗様」
「あ、そうだ。あたしのこと敬語で呼ばないでね。絶対に」
「そ、そんな……本条グループのご令嬢を……」
「だから、そういうことを気にしないでね!」
千紗が強引に押し切ると、都樹は顔を僅かに引き攣らせながらも、何とか言った。
「は……う、うん! ち、千紗、ちゃん!」
千紗は、嬉しそうに微笑んだ。
そしてそれを見た都樹も、ぎこちないながら微笑み返した。
その日、千紗は感覚的にはかなり久し振りに部活へと行った。
「あ~っ! 大丈夫? もう何ともないの?」
「あ、はい。ご心配をお掛けしました……」
「ううん、そんなのは大丈夫よ。でね、その……夏休みにやった、あの百不思議のことなんだけど……」
「やっぱり、悪戯ですか?」
千紗にズバッと切られ、柑奈は絶句した。
「うん……そう。気付いてたの……。何かがっかり。からかいようないじゃない」
「当たり前じゃないですか、柑奈先輩」
千紗と同級生の子が、ガッと近寄って来た。
「ね、千紗。あたし達がやった時に見付けた、この指輪。やっぱり、先輩の悪戯だったんだ。で、千紗が学校休んでちょっと経ってから、先輩達がネタばらしって言って、冗談だったってばらしたの」
その言葉に、千紗は笑って言った。
「やっぱりそうかぁ……なんか、怪しいって思ってたんだよねぇ……。ね、あたし達が見付けたのって、ほんとにその『指輪』だった?」
「うん。そうだよ? 何言ってんの? 千紗」
その言葉に、千紗の顔は笑っていたが、背筋に冷や汗が流れるのを抑えることはできなかった。