第五章「時と宇宙(そら)を越えて……」―1
「由梨亜、まず、あたしはどうすればいい?」
千紗は、真剣な目をして由梨亜に問い掛けた。
「うん。まず、この香封珠の力を引き出す為には、呪言が必要なの。それを言った後お願いをするんだけど、お願いの方を聴いて繰り返して」
「うん、分かった」
そう千紗が答えると、由梨亜は香封珠を両手で持ち、目を閉じて呪言を唱え始めた。
それは意味の解らない言葉で、千紗は少しボーっとしていたが、由梨亜が見詰めているのに気付き、その後に言った意味の解る言葉を必死で繰り返した。
「『富実樹の父である花雲恭峯慶、母である花雲恭由梨亜、富実樹を花鴬国へ、千紗を現在の日本州へと戻らせて下さい』」
「『富実樹の父である花雲恭峯慶、母である花雲恭由梨亜、富実樹を花鴬国へ、千紗を現在の日本州へと戻らせて下さい』」
「『その証として、わたくし達の友情の徴を、ここに示します』」
「『その証として、わたくし達の友情の徴を、ここに示します』……っえ?」
「あれ? どうした? 千紗」
「シルシって? 何?」
「ああ、それは今から言うわ。……『その徴として、わたくし達の血を捧げます』」
「『その徴として、わたくし達の血を捧げます』……うっ、血なの?」
「ええ。『この力ある物、「香封珠」に血を捧げるので、わたくし達にその御力を御貸し下さい』」
「『この力ある物、「香封珠」に血を捧げるので、わたくし達にその御力を御貸し下さい』」
「それじゃあ、これで血を」
そう言って由梨亜は、どこで手に入れたのか、今となってはアンティークに等しいほど古い短剣を取り出した。
勿論、千紗は見るのも触るのも初めてである。
由梨亜は、自分の右手で短剣を抜き、左手の人差し指にその刃を当てた。
そして、血が出ている左手をそのままにして、右手で千紗に短剣を渡し、それを千紗は同じように指に当てた。
「…………っ!」
思わず、千紗は顔を顰めた。
たかが左手の人差し指から少し血が出ているだけなのだが、それでも痛いのだ。
しかも、今この世の中では包丁にも安全装置が付けられ、百パーセントに近い確率で指が切れなくなっている為、刃物で指が切れるのは本当に初体験だった。
そして、由梨亜はよく顔を少しも歪めないなと感心した。
由梨亜は千紗の手を取り、二人の左手を、人差し指が付くように合わせた。
そして、混ざって滴り落ちる血を香封珠に垂らした。
そうすると、香封珠は真っ赤なワインの色に輝き、滴り落ちる血を吸収した。
「あっ……!」
と声を上げた由梨亜の回りを光が取り囲み、こちらの世界に来てから、ずっと解かれていた髪が、室内にも拘らず強く吹いている風に煽られ広がる。
そして、由梨亜の少し波打っていた髪が更に波打ち、フワフワと広がり、色は茶色から栗色へと変わり、その毛先が腰に届くぐらいの長さまで長く伸びた。
そして背が四センチほど伸び、顔立ちは変化し、由梨亜の面影は少し残ったが、今までの由梨亜とは到底思えない外見となった。
そして、光の乱舞がやみ、由梨亜は……いや、『花雲恭富実樹』は目を開けた。
けれど、その目の色も、花鴬国王家の血筋特有の、桃色へと変貌を遂げていた。
そこに現れた女性を見ても、耀太も、瑠璃も、鈴南も、クラスメイト達も、部活の仲間達も、『由梨亜に似た女性』、『似ているけれど他人の空似』といった印象しか受けないぐらい、由梨亜は富実樹になった途端、印象が変わってしまった。
長く付き合ってきた千紗でも、ぱっと見には別人に見えるほどだった。
「ゆり、いいえ。貴女は……『富実樹』?」
「ええ、この姿の私は『富実樹』よ。そして千紗、貴女も産まれた時の本当の姿で育っていたのならば、その姿になっていたはずの姿に変えなくちゃね」
『富実樹』はそう言うと、千紗に向かって、手をかざし掛けようとしたが、その途中で、奇々怪々な音を聞き、ピタッと手を止めた。
「ゆ、ふゆ、ふ、ふみ、ふ……」
それは、何とか富実樹のことを『富実樹』と呼ぼうとして、どうしても『由梨亜』と呼んでしまいそうなのを何とか抑えようとしている千紗の声だった。
富実樹は呆れて、伸ばし掛けていた両手を腰に当てて言った。
「千紗、呼びにくいなら、何も無理に富実樹と呼ばなくていいわよ。由梨亜って呼んでいいわ」
それから、富実樹は千紗を眺めた。
「ここまで外見違うのに同じに思えるなんて、千紗って凄いわ。私、そんな自信ないし」
富実樹のその呆れたような言葉に、千紗は少し唇を尖らせて言った。
「だっ、だって外見は変わっても、声の抑揚、顔の表情は全然変わってないし、由梨亜の面影がちゃんと残ってるんだよ? これで別人だと思えなんて……しかも目の前で変わったのに……無理があり過ぎるよ。少なくとも、あたしはそうは思わない」
「だから、そこが凄いのよ。大抵の人は、見た目が変わったら別人だって思うんだもの」
そう言うと、富実樹は千紗の左手を取り、自分の左手と共に香封珠にくっつけた。
そうすると、不思議なことに、流れていた血が止まり、傷跡も癒えていった。
そして、今度は千紗の体を光が取り囲んだ。
その光がやむと、千紗は香封珠からゆっくりと手を離し、部屋に備え付けてある洗面台の方にゆっくりと歩いて行った。
そこに備え付けられている鏡を覗き込むと、そこには、千紗とよく似ているが、千紗ではない別人が映っている。
今まで見てきた、自分の顔とは似ている。
それは認めるが、でも、違う。
まず、髪の色が墨を流したような黒から薄茶色へと変わり、顔立ちも、耀太や瑠璃と似た少し彫の浅い、色白でほっそりとした小顔へと変わっていた。
だが、よく見知った人物が見れば、
「髪染めた?」
「お化粧した?」
「プチ整形した?」
などと訊かれるほどしか変わっていなかった。
「由梨亜、これって……」
千紗がそう呟くと、いつの間にか斜め後ろから鏡を見つめていた富実樹が、自分の姿を苦笑しながら眺め、こう答えた。
「ええ。それが、貴女の本当の姿なのよ、千紗。私がこれから先、この姿で暮らすように、貴女もその姿で暮らすことになるわ」
そう言うと、富実樹は
「千紗、続きを始めるわよ。私達は、これから『花雲恭富実樹』として、『本条千紗』として、行動しなければならないから」
「うん、由梨亜」
二人は香封珠を取り上げ、二人の両手で包み込んだ。
すると、千紗の頭に富実樹の声が流れ込んだ。
『千紗、これから最後の呪言を唱えるから、それを合図が出てから口に出して唱えてね』
『うん。分かった』
『「今、其方の持つ力を解き放ち、我らを正しく元いた場所へと戻し給えよ」。覚えた?』
『うん。分かった。あたし、記憶力は本気になれば凄いんだもの。言えるわ!』
『じゃあ、いくよ。三、二、一!』
「『今、其方の持つ力を解き放ち、我らを正しくもといた場所へと戻し給えよ』っ!」
二人がそう叫んだ瞬間、香封珠が今までになく、直視したら目が瞑れてしまうかも知れないほど、金色と銀色が混じりあった色に輝き、千紗は思わず目を瞑ってしまった。
「千紗……」
富実樹の静かな声が聞こえ、千紗が目を開けると、そこはこの世界に来る時に通った、あの様々な色が氾濫しているトンネルだった。
一つ違うのは、来る時は抗いようのない力で引っ張られていたはずが、今は浮くようにして富実樹と一緒に立っているということだ。
そして、何にも引っ張られてなく、まるで無重力の中に立っているように、けれど、床の上に立っているように足元は安定していた。
「何? 由梨亜。そういえばさ、本条由梨亜と彩音千紗の時は、彩音千紗の方が身長高かったけどさ、花雲恭富実樹と本条千紗だったら、花雲恭富実樹の方が身長高いんだね」
「でも、千紗の身長は大して変わってないわよ。私が大きくなっただけ。っと、今度は千紗が話ずらしたわね。……ねえ、千紗。ここって何だと思う?」
「……? 分からない。由梨亜は分かるんじゃないの?」
「いいえ、分からないわ。ただ、一つだけ分かることがあるとすれば、ここは亜空間だということだけね。私達が生きている通常空間でもなく、異質な異空間でもない……『亜空間』」
「由梨亜……」
「だからね、私、そういうことを知ろうと思うの。地球連邦では、とっくの昔に魔法は存在を否定され、迫害されて細々と消えて逝ったわ。私達がさっきまでいたあの時代……あそこの時代が、『魔法』と言う名称を使わなくても、そう言う『力』をまだ信じている人達のいた、最期の時代なのよ。あの何十年後かには、そういう魔法を信仰する宗教は全てなくなっている。貴族制の、王権制の、復活とともに。だけど……花鴬国にはまだ魔法が残っているの。だから、私はそれを学ぶつもりよ。私は今のところ、それが夢なの」
「由梨亜……嬉しそう! 良かったぁ……最後に由梨亜のそんな顔を見られて」
千紗は、本当に……本当に嬉しそうに、微笑んで、言った。
「千紗……私も、最後に千紗が嬉しそうなの見れて、本当に良かった」
「でも、由梨亜……」
千紗は、先程とは対称的に、哀しそうに目を伏せて言った。
「これで、お別れなんだよね。もう……これから先、会えないかも知れないんだよね」
「大丈夫よ。私、王宮に閉じ籠るばかりの王族にはならないから。だからニュースで私のこと見れるかも知れないし、それに王族が各国を訪れるのも外交関係上あるでしょ? まあ、それで何かに巻き込まれて死んでしまったとしても十四人も弟妹がいるんだもの。問題ないわ。まあ、私は地球連邦だけじゃなくて色んな国を訪れるつもりなんだけどね。そして地球連邦に行った時って、大抵有名な地方を訪ねるでしょ? それなら地球連邦五大経済地方のその三の位置にいる日本州を訪ねても不思議じゃないから、私が日本を訪れることもできるし、その時偶々会えるかも知れないじゃない! だから、また会えるかも知れないよ!」
「……由梨亜。ありがとう。あと……あの、ね、由梨亜。これ」
と、不意に千紗が話し始めた。
富実樹は少々困惑しながら訊き返した。
「何? 千紗」
「これ、あたしがこの前あげた誕生日プレゼント。前、ここ通って行ったでしょう? で、その後病院で目覚めた時、あたし、これ握ってたの。返すタイミングが掴めなくて返せないでいたけど、これで最後だし……だから、これ、返すね」
千紗はそう言い、富実樹にそれを手渡した。
「千紗……ありがとう。本当に……本当に……!」
「あたしは由梨亜の姿をニュースとかで確認できるかも知れないけど、由梨亜はもっと難しいでしょ? それに、あたしの方は次第に由梨亜のことを忘れて、由梨亜は永遠にあたしのことを憶えている……だから、これを見てあたしを思い出して」
千紗がそう言い終えた途端、二つの大きく輝く光が降り、二人を包んだ。
「時間切れなのね……千紗、私、千紗に逢えて本当に良かった……ありがとう!」
「それは、こっちの台詞だよ。由梨亜に逢えて本当に良かった。ありがとう、由梨亜! 花雲恭富実樹としてのこれからの人生を、精一杯生きてね! ……またね、由梨亜!」
「千紗も……千紗も、本条千紗としての人生、楽しく過ごしてよ! 絶対に! またね、千紗!」
その言葉を口にし終えた途端あまりにも眩し過ぎる、爆発したかのような光に包み込まれ、何も見えなくなり、また、何もかも分からなくなった。
しかし、最後の最後まで二人の胸の内に抱えていた想いは一緒だった。
互いに、ありがとうと、出逢えて良かったと感謝する気持ちを抱えて……。