『そんなに手抜きに見えるなら、ご自身で結界を構築されてはいかがですか。』──王宮の結界を一人で支えていた社畜結界師、残業代も手柄も奪われたので、お隣の極北の辺境伯領に転職(契約結婚)いたします
冷え切った石畳から、体温が容赦なく奪われていく。
深夜二時。王宮の結界塔の最上階は、まるで墓地のように静まり返っていた。
窓の外に広がる王都の夜景は美しいが、それを見る余裕などない。
私の視界は、過労と睡眠不足のせいで油膜を張ったように霞んでいた。
「……う、っ……」
指先が凍りついたように動かない。
かじかむ手を口元に寄せ、荒い息を吹きかける。
しかし、指の震えは止まらなかった。
私はレナ。
王宮結界魔術師団に所属する、ただの平結界師だ。
下町のしがない商人の娘として生まれ、偶然にも魔力の「精密操作」という珍しい適性があったため、この華やかな王宮に召し抱えられた。
でもそれが、すべての地獄の始まりだった。
目の前で青白く光る巨大な魔導水晶。
そこから伸びる無数の魔力の糸が、私の全身に絡みついている。
この糸の一本一本が、王宮を包む広大な防衛結界の制御ラインだ。
頭が割れるように痛む。
こめかみのあたりで、ドクドクと不快な鼓動が脈打っていた。
今夜も睡眠時間は三時間に満たない。
「はやく、繋ぎ直さなければ……」
魔力の糸が、深夜の気温低下でわずかに縮み、全体のバランスが歪み始めている。
私は震える指先で糸をつまみ、呼吸を整えた。
魔力を力任せに注ぎ込むのではない。
糸にかかる張力を指先で感じ取り、摩擦をゼロにするように、滑らかに結び目をスライドさせる。
私の術は、力ではなく、気の遠くなるような計算と精密操作による「美しさと無駄のなさ」が本質だった。
そうしなければ、私の平凡な魔力総量では、王宮結界の維持など一時間も持たない。
無駄な魔力消費を極限まで削ぎ落とすことで、私はたった一人で、この巨大な国家結界の八割近くを制御し続けていた。
しかし、その「無駄のなさ」が、周囲の無理解を生んでいた。
結界魔法は、通常なら数十人の魔術師が声を張り上げ、派手な光と爆音を伴って魔力を流し込むものとされている。
彼らの結界は燃え盛る炎のように目立つが、その実、摩擦だらけで無駄が多く、常に魔力を注ぎ続けなければすぐに霧散してしまう。
対して、私が構築する結界は、極限まで抵抗を減らしているため、ほとんど光らない。
ただ静かに、そこにある結界は空気のように透明で、それでいて強固な防衛力を誇る。
だからこそ、周囲の「偉い魔術師」たちには、私がサボっているようにしか見えないのだ。
「おい、またあの雑用係が塔の主面をして居座っているぞ」
翌朝、夜勤明けの私がふらつきながら廊下を歩いていると、すれ違う魔術師たちの冷ややかな陰口が耳に届いた。
豪華な刺繍の施されたローブをまとった高貴な若者たちが、私を汚いものでも見るような目で見下している。
「魔力もまともに輝かせられない無能のくせに、よくまあ毎日毎日、塔の最上階に登れるものだな」
「身分の低い下民を魔術師団に置いてやっている恩も忘れて、いつも不機嫌そうな顔をしおって」
喉の奥が、じわりと痛む。
言い返す気力すらなかった。
彼らは知らない。
彼らが昼間に適当に流し込んで歪ませた魔力ラインを、私が毎夜、血を吐くような思いで整えていることを。
彼らが「俺たちの魔力で王宮が守られている」と自慢している結界の基盤が、私の作った精密なジェンガのようなシステムで支えられていることを。
誰も知らない。
私が一度でも制御を手放せば、この王宮の結界は半日と持たずに瓦解するというのに。
「レナ・クロフォード。副師団長閣下がお呼びだ。今すぐ執務室へ来い」
師団長の命令を伝える伝令の声は、冷淡極まりなかった。
私は乱れたローブを整え、重い足を引きずって執務室へと向かった。
胃がキリキリと痛む。
部屋に入る前に深く息を吸い込んだが、酸素が頭に行き渡らないような感覚がしていた。
扉を開けると、そこには豪華な皮張りの椅子に深く腰掛けた副師団長バルタザールがいた。
侯爵家の次男であり、無能だがプライドだけは天をつく男だ。
そして、その隣には、きらびやかな衣装に身を包んだ王太子ルディルが、興味なさそうに爪を眺めている。
「遅いぞ、レナ。下民の分際で、私と殿下をお待たせするとは何事だ!」
バルタザールが、机を派手に叩いて怒鳴り散らした。
その声が、私の痛む頭に直接響き、目の前がチカチカとする。
「申し訳ありません、副師団長閣下。先ほど結界の調整を終えたばかりで……」
「言い訳など聞いていない! それより、これを見ろ!」
バルタザールが突き出してきたのは、王宮結界の現状報告書だった。
そこには「バルタザール副師団長考案の、新術式による結界維持の成功」と、私の手柄がすべて彼の名前で記録されていた。
「殿下からご指摘があった。最近、王宮を覆う結界の輝きが薄いと。殿下は『まるで結界が張られていないように見えて不吉だ』と仰せだ。これについて、維持の実務を担当している貴様はどう説明する?」
「……殿下、副師団長閣下」
私は乾いた唇を開き、なんとか声を絞り出した。
「結界の輝きが薄いのは、魔力の摩擦を排除し、効率的に流しているためです。これにより、魔術師団全体の魔力消費量は昨年の二割まで削減されています。防衛力自体は、以前の三倍以上に強化されており、魔物の侵入を防ぐ強度は完璧に保たれています」
「黙れ!」
バルタザールが再び机を叩く。
「そんな屁理屈が通用するか! 結界とは、王宮の威光を示す象徴でもあるのだ! 光らない結界など、手抜き以外の何物でもない。貴様が魔力をケチってサボっている証拠だ!」
「サボって……? 私は毎日、十八時間以上も……」
「言い返すな! 下民の分際で口答えするか!」
バルタザールは立ち上がり、私を指差して冷酷に言い放った。
「今日中に、王宮全体の結界の輝きを十倍にし、かつ二重に強化しろ。華やかに、美しく光らせるのだ。それができなければ、貴様を魔術師団から叩き出す。もちろん、これまで下民の貴様を置いてやったという恩義に対する罰金も請求させてもらうぞ」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、張り詰めていた糸がプツリと切れる音がした。
私の体はもう、限界だった。
手の震えは止まらず、今も視界が歪んでバルタザールの顔が二重に見えている。
これで今夜、さらに魔力を二重に注ぎ込めば、私は確実に魔力枯渇で命を落とすのは目に見えている。
命をかけて、健康を削って、睡眠時間を削って、それでも得られるのは罵倒と、手柄の横取りだけ。
私がこのまま倒れても、彼らは「無能が死んだ」と笑うだけだろう。
──ああ、もういいや。
すとん、と心が軽くなった。
責任感も、恐怖も、すべてがどうでもよくなった。
「……わかりました」
私は静かに言った。
「何がわかりましただ! すぐに塔へ戻って作業を──」
「そこまで私の結界が不要で、手抜きとおっしゃるのなら」
私はローブの懐に手を入れた。
そこから、あらかじめ用意しておいた紙を取り出し、バルタザールの机の上に置いた。
何度も書き直して、いつ出すべきか迷っていたものだ。
「本日をもって、王宮結界魔術師団を退職いたします」
「……は?」
バルタザールが呆然とした声を出す。
王太子ルディルも、初めて爪から目を離して私を見た。
「な、何を言っている! 貴様のような下民が、王宮を自ら辞めるなどと──」
「退職の意思を伝える書類です。魔術師団の規定に基づき、本日付けで受理していただきます。これ以上の業務は、私の健康状態では不可能です」
「ふざけるな…誰が辞めるのを許すか!」
「お引き止めいただく必要はありません」
私は一礼もせず、バルタザールの執務室の扉に手をかけた。
「貴様、戻れ!も、戻らなければ国家反逆だぞ!」
背後からの怒声は、もう私の心には届かなかった。
ただ、冷たい王宮をようやく出られるという解放感だけが、私の胸を満たしていた。
王宮の門を出た瞬間、乾いた風が私の頬を撫でた。
空は青く、少しだけ冷たかったが、王宮の地下や塔の最上階の息苦しさに比べれば、まるで天国の空気のようだった。
私はその日のうちに、必要最小限の荷物だけをまとめ、王都を出る馬車に飛び乗った。
向かったのは、王都から最も遠く、魔力干渉が届きにくいとされる極北の地──ヴァルハイト領だ。
馬車の中で、私はとにかく眠った。
何日も、何日も、ただ泥のように眠り続けた。
目が覚めるたびに、体の奥に溜まっていた重苦しい疲労が、少しずつ抜けていくのがわかった。
手の震えはいつの間にか収まり、呼吸が深く吸えるようになっていた。
一週間後、私は極北の防衛都市、ヴァルハイト領の城塞都市に到着した。
そこは雪と氷に閉ざされた過酷な土地だったが、人々の表情は活気に満ちていた。
私は、防衛ギルドの掲示板で見つけた「防衛結界の一時修繕」の募集に応募した。
日雇いの、誰もが嫌がる過酷な現場作業員としての雇用だ。
働かなければこの街でも生きていけない。
とりあえず今日の宿代を稼ぐため、私はその現場に向かった。
「おい、あんた、本当に結界師なのか? ひょろひょろして頼りないが…」
ギルドの現場監督である頑強なドワーフの男が、私の手を見て不審そうに眉をひそめた。
「はい。一応、王宮で結界の仕事を少ししておりました。力のいる作業は難しいですが、綻びの修復なら普通よりはできます」
「まあいい、現場は北壁だ。魔物の爪痕で結界がボロボロになってる。適当に魔力を流して穴を塞いでくれ、日当は夕方に払う」
私は指示された北壁に向かった。
巨大な石造りの城壁の上、冷たい風が吹き荒れる場所に、その結界はあった。
魔物の攻撃を受け、結界のあちこちが擦り切れ、黒い魔力の淀みが絡みついている。
現地の魔術師たちは、大声を上げながら力任せに魔力をぶつけ、淀みを吹き飛ばそうとしていた。
しかし、その乱暴な魔力流のせいで、結界全体の耐久力は逆にすり減っている。
「……無駄が多いですね」
私はぽつりと呟き、北壁の結界制御盤に触れた。
私の指先から、髪の毛よりも細い魔力の糸が伸びる。
その糸を、防衛結界の「綻び」に滑り込ませた。
力で淀みを吹き飛ばすのではない。
結界本来の魔力の流れを読み、その流れに沿って、淀みを絡め取るように魔力糸を動かす。
まるで、複雑に絡まった絹糸を、一本ずつ丁寧に解いていくような作業だ。
すぅ、と結界の淀みが消えていく。
私はその隙間に、自らの魔力糸を滑り込ませ、結界の網目を綺麗に縫い合わせていった。
縫い目が噛み合い、結界全体の張力が均一になると、防衛壁は透明な輝きを取り戻し、強固な防衛力を再現した。
周囲の激しい風の音が、結界が修復されたことで、ふっと遮断される。
「おい……今、何をした?」
大声を上げて魔力を撃ち込んでいた現地の結界師たちが、唖然として私を見た。
彼らは自分たちの魔力がほとんど消費されていないこと、および、目の前の貧相に見える娘が、一瞬で完璧に結界を直したことに気づいたのだ。
「綻びを縫い合わせただけです。これで魔物の爪も通りません」
私はそう言って、額の汗を拭った。
魔力はほとんど消費していない。呼吸すら乱れていなかった。
「素晴らしい」
背後から、低く響く声がした。
振り返ると、そこには黒い毛皮のコートを羽織り、彫りの深い顔立ちをした長身の男が立っていた。
鋭い灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
その圧倒的な存在感と周囲の騎士たちの緊張した様子から、彼が誰であるかはすぐに理解できた。
この極北の地を治める辺境伯、アルド・ヴァルハイトだ。
「無駄が一切ない。魔力の消費を最小限に抑えつつ、結界の網目を完全に再構築した。これほどの技術、君はただの結界師ではないな?」
アルドは私の前に歩み寄り、じっと私の手を見つめた。
過労で傷だらけになり、まだ完全に消えていない王宮時代のあかぎれや傷跡が残る、私の手を。
「君、名前は?」
「レナ、と申します。レナ・クロフォードです」
「レナ。私と共に城へ来い。君と話がしたい」
アルドの瞳には、冷酷さではなく、深い驚きと、そしてどこか焦燥に似た光が宿っていた。
辺境伯邸の執務室は、驚くほど暖かかった。
暖炉ではパチパチと薪が燃え、心地よい木の香りが漂っている。
用意されたソファーに腰掛けると、アルド自身が温かいハーブティーを私の前に置いた。
立ち上る湯気からは、蜂蜜のような甘い香りがしている。
「飲みたまえ、きっと体が冷え切っているだろう」
「……ありがとうございます」
一口含むと、温かい液体が私の胃に染み渡り、緊張がほぐれていくのがわかった。
「さて、レナ…」
アルドが対面の椅子に座り、私をまっすぐに見つめた。
「君の結界術を見た。あれは、魔力の流れを完全に把握し、抵抗を極限まで減らす超精密構築だ。あの術式を使える者は、大陸を探しても数人しかいない。なぜ、あのような日雇いの現場にいた?」
「私は……王宮の魔術師団に所属しておりましたが、技術が未熟で、結界が薄くて手抜きをしていると叱責され、先日退職したところだったのです、それでこの地までやってきて職がないので、日雇いのお仕事を…」
「なんだと?」
アルドの灰色の瞳が、一瞬で鋭く細められた。
部屋の空気が一気に冷え込んだように感じられ、私は思わず身をすくめた。
「あぁすまない、君を怒っているわけではないんだ」
アルドは怯えた私の表情に気付いたのか、すぐに表情を和らげ、深く息を吐き出した。
「王宮の連中は、全員狂っているのか。君のあの技術を『手抜き』だと? あれは、無駄な摩擦を徹底的に排除した、魔導工学の最高到達点だ。魔力を無駄に垂れ流して光らせるだけの結界など、ただの浪費だというのに」
アルドは私の手元に目を向けた。
「その手の傷は、王宮で負ったものだな。どのような働き方をさせられていた?」
「毎日、ほぼ不眠不休で結界の調整をしておりました。私の身分が低いため、師団の結界維持のほとんどを一人で押し付けられていて……手柄はすべて副師団長のものとなっていました」
それを聞いたアルドの顔が、怒りで微かに引きつった。
彼は机の上に拳を置き、低く唸るような声を出した。
「……愚か者どもめ。そんな宝をドブに捨てるような真似を…。そして、君という稀代の才能を、そこまで酷使し、傷つけるとは」
アルドは私を見つめ、姿勢を正した。
「レナ。我がヴァルハイト家は、君を心から歓迎する。私と『永久の専属契約』を結んでくれないか。実質的な、私の妻としての身分保護も含めてだ」
「……え?」
私はあまりの衝撃で驚いて、ハーブティーのカップを持ったまま固まってしまった。
「辺境伯妃という身分があれば、王宮の愚か者どもが君を連れ戻そうとしても、一切の手出しができなくなる。君を保護するための『契約』だ。もちろん、義務的な夫婦の営みを強要するつもりはない。君の安全と平穏を保障するための身分だ」
アルドは真剣な表情で、私の目を見つめ続けた。
「条件を提示しよう。給与は王宮時代の十倍…いや、君が希望する額をだそう。勤務時間は朝十時から午後五時まで。残業は原則禁止。週に三日の完全休日を約束する。そして何より、君の技術を正当に評価し、決して無理な酷使はさせない。…どうだろうか?」
提示された条件は、私にとって天国のような内容だった。
王宮でのあの地獄のような日々が嘘のようだ。
何より、この目の前の強い辺境伯が、私の「職人技」をこれ以上ないほど高く評価し、守ろうとしてくれている。
「……私で、お役に立てるでしょうか」
「君以外の誰も、我が領の結界をこれほど美しく直せはしない。頼む、レナ。君の力を、我が領のために貸してほしい」
アルドの強い、それでいて懇願するような瞳に、私は静かに頷いた。
「はい。喜んで、お引き受けいたします」
アルドの口元が、初めて安堵したように緩んだ。
彼の差し出した温かい手が、私の傷だらけの手をやさしく包み込んだ。
その熱が、私の心の奥まで温めていくようだった。
一方、レナが去った王都の王宮では、大混乱が始ていた。
「おい! 結界の出力が低下しているぞ! どうなっているんだ!」
副師団長の執務室で、王太子ルディルが怒声を上げていた。
窓の外を見れば、王宮を覆っていたはずの青白い光が、見る影もなく歪み、所々が今にも破れそうに明滅している。
「は、はい! すぐに原因を追及しております!」
バルタザールは額から滝のような冷汗を流しながら、魔導水晶の前で部下たちを怒鳴り散らしていた。
「何を遊んでいる! 魔力を注ぎ込め! もっと全力で魔力を送り、結界を強化するんだ!」
「閣下、しかし! すでに師団全員の魔力を限界まで注ぎ込んでいますが、結界の網目に魔力が噛み合いません! 流した魔力が増えるほど、結界の全体の張力が狂っていきます!」
「うるさい! 魔力を輝かせろと言ったはずだ! 光が足りないから結界が安定しないのだ!」
バルタザールは自らも杖を構え、強引に莫大な魔力を水晶に叩き込んだ。
──しかしそれが、最後の一撃となった。
レナが長年かけて構築した、精密な魔力バランスの「ジェンガ」。
その極限まで無駄を省いた精緻な構造の中に、バルタザールたちの乱暴で不純な魔力が大量に注ぎ込まれた結果、全体の均衡が一瞬で崩壊した。
バギィィィン!!!
屋内に響き渡る爆音と共に、魔導水晶に巨大な亀裂が入った。
王宮全体を包んでいた防衛結界が、ガラスが割れるように粉々に砕け散り、光の破片となって霧散していく。
「結界が……消えた!?」
バルタザールが絶望的な声を上げる。
結界が消えた王宮の周囲から、防衛線を失ったことを察知した凶悪な魔物たちの咆哮が、王都中に響き渡った。
王宮の防衛騎士団はパニックに陥り、王太子は顔面蒼白で這いずり回りながら逃げ出した。
「どうしてだ! 今までは俺たちが魔力を流せば、何の問題もなく維持できていたはずだろう!」
バルタザールは髪をかきむしり、叫んだ。
そこで、彼はようやく気づいたのだ。
今までは、自分たちがどれほど乱暴に魔力を注ぎ込んでも、あの「無能な下民」の娘が、毎夜毎夜、そのすべてを精密に修復し、全体のバランスを維持し続けていたのだと。
彼女という唯一の支えを失った魔術師団など、ただの魔力の浪費家集団に過ぎなかったのだと。
「レナだ! レナを連れ戻せ! あいつがいなければ、王宮は魔物の餌食になるぞ!」
バルタザールは狂ったように叫び、レナの居場所を突き止めるために魔導通信機に飛びついた。
極北のヴァルハイト領、辺境伯邸の執務室。
暖房の効いた快適な部屋で、私は新しい結界維持の計画書を整理していた。
ヴァルハイト領の結界は、王宮と違って無駄な装飾がなく、実用重視で構築されているため、私の技術との相性が非常に良かった。
今では、一日の作業時間は数時間程度で、残りの時間はすべて自由時間だ。
睡眠も十分に摂れ、肌のツヤも良くなった。
その時、執務室の魔導通信機が、騒がしい警告音を鳴らし始めた。
「……?」
私が受話器を取ろうとすると、その前にアルドの手がすっと伸びて、通信機を取り上げた。
アルドは冷淡な表情で、通信を開始する。
『レナ! レナ・クロフォードだな!?』
通信機の向こうから聞こえてきたのは、かつての私の上司、バルタザールの狂乱した声だった。
背景からは、魔物の咆哮や騎士たちの悲鳴が混ざって聞こえてくる。
『今すぐ王宮に戻れ! 結界が崩壊した! これは国家の危機だ、お前のような下民でも、今戻れば罪は問わない! 早く戻って結界を張るんだ!』
アルドは受話器を耳から少し離し、極めて冷ややかな声で応じた。
「……どこのどなたか存じ上げないが、私の妻にそのような見苦しい悲鳴を聞かせないでいただきたい」
『な、何者だ!? これはレナの通信機──』
「私は極北の辺境伯、アルド・ヴァルハイトだ。レナは現在、我がヴァルハイト領の最重要結界師であり、私の正式な契約内定者、および婚約者だ」
通信の向こうで、バルタザールが息を呑む音が聞こえた。
『へ、辺境伯……!? なぜ、あんな無能な下民が……。いや、それどころではない! 彼女は王宮魔術師団の所属だ! 国家の法に基づき、即刻送還を要求する!』
「無能、か」
アルドの瞳が、凍てつくような冷たさを宿す。
彼の声の温度が、さらに一段と下がった。
「君たちが『無能』と蔑み、手柄を奪い、心身をボロボロになるまで酷使したその女性こそが、王宮のすべてを守っていた唯一の存在だったのだ。その事実にすら気づかず、追い出した挙句に送還を要求するとは。王宮の魔術師団とは、その程度の大道芸人の集まりなのか」
『くっ……! 結界がなければ王宮が滅びるのだぞ!』
「滅びればいいさ」
アルドは吐き捨てるように言った。
「有能な技術者を正当に評価せず、搾取し、使い潰すような組織など、存在価値はない。レナはすでに正式な手続きを経て退職届を提出し、受理されている。彼女の所属は我が領であり、私の庇護下にある。二度と彼女の平穏を脅かそうとするな。次に不躾な連絡をしてくれば、我がヴァルハイトの軍勢をもって、そちらの防衛を完全に放棄するよう通告する」
『あ、ああ……っ!』
アルドはバルタザールの絶望に満ちた叫びを無視し、通信をぶつりと切った。
「レナ…怖かったか?」
アルドは私に向き直ると、先ほどの冷酷さが嘘のように、心配そうな表情で私の顔を覗き込んできた。
「いえ、アルド様。全然……。むしろ、すっきりいたしました」
私は微笑んだ。
かつて王宮で感じていたあの重苦しい恐怖や息苦しさは、もう微塵も残っていない。
「そうか。ならばよかった」
アルドは私の頭にそっと手を置き、愛おしそうに髪を撫でた。
「これからは、何も恐れる必要はない。君はただ、自分がやりたい仕事を、やりたいようにやればいい。残りの面倒なことは、すべて私が引き受ける」
「はい。ありがとうございます、アルド様」
チーン、と執務室の時計が午後五時を知らせる鐘を鳴らした。
「おや、五時ですね」
私は手元のペンを置き、書類を綺麗に重ねて棚に戻した。
「ああ、定時だな。今日の仕事はおしまいだ。レナ、今夜はシェフが特製の温かい煮込み料理を用意してくれている。一緒に食べよう」
「はい、とても楽しみです!」
私は温かい極上のハーブティーを最後の一口まで飲み干し、辺境伯アルドの差し出してくれた手を握りしめた。
その温もりを感じながら、私は静かに執務室を後にした。
もう、私を凍えさせる冷たい塔も、理不尽な声もない。
ここが、私の新しい、そして本当の職場なのだから。
【完】




