屋上の危険な約束
私の名前は佐藤葵、十七歳。
高校二年生の、ごく普通の学級委員長だ。分厚いメガネにおさげ髪、制服のスカートは校則の規定通りの長さで、いつも真面目にルールを守る。
自分でもわかってるけど目立つタイプじゃない。
それでも、学級委員長としては、クラスの秩序を守るのが私の役目だと思ってる。
その日、五時間目の数学の授業中、教室の後ろがざわついていた。
原因はすぐにわかった。クラスのカースト最上位、高橋翔斗だ。
バスケ部のレギュラーで180センチを超える背の高さ。そのうえ整った顔立ちのせいで女子からの人気はダントツ。いつも彼の周りには、笑い声とちょっとした騒ぎがつきものだ。
「でさ、昨日の試合、俺のスリーがバッチリ決まってよ!」
翔斗の声が教室に響く。
隣にいる男子たちが「マジすげえよ翔斗!」と盛り上がる中、黒板に問題を書いていた佐々木先生の肩がピクリと動いた。
まずい。先生、めっちゃ厳しいんだから。私は振り返って、勇気を振り絞った。
「ちょっと、高橋君。授業中だから静かにして。みんなの迷惑になるよ」
声が少し震えたけど、ちゃんと届いたはず。教室が一瞬、静まり返った。
翔斗の目が私を捉える。いつもは軽薄な笑みを浮かべている彼の瞳が、ほんの一瞬、真剣な光を帯びた気がした。
でも、すぐにその口元がニヤリと上がる。
「うぜえな、委員長。真面目かよ、相変わらず」
軽い口調に、教室がクスクスと笑いに包まれる。
翔斗の取り巻きの男子たちが「でた、真面目ちゃん」「委員長、ガチガチじゃん」と囃し立てる。
私の頬が熱くなる。恥ずかしい、とかじゃなくて、なんか……悔しい。
なんで注意しただけで、私がこんな笑いものになるの?でも、学級委員長として、間違ったことは言ってない。うつむきそうになる気持ちをぐっと抑えて、教科書に目を戻した。
授業が終わると、廊下で女子たちの声が聞こえてきた。
「佐藤さん、なにあれ?高橋君に絡むとか、ちょっと目立とうとしてない?」
「地味メガネのくせに、ウザくない?」
女子のリーダー格の美加の声が、わざと聞こえるように響く。彼女の取り巻きが「だよねー」と笑う。
私はカバンを握りしめて、トイレに逃げ込んだ。鏡に映る自分は、いつも通り。分厚いメガネの奥の目が、ちょっと赤くなってるだけ。
「別に……いいよね。ルールを守るのが私の仕事なんだから。私は間違ってない」
そう呟いて、深呼吸した。傷ついてなんかない。気丈に振る舞えば、きっと平気だ。
放課後、教室で明日の時間割を確認していると、机の中に一枚のメモが入っていた。
誰かが置いたんだ。誰?まさか美加?嫌な予感がする。陰湿な罵詈雑言でも書いてあるんだろうか。
ぐっと心を固めて開いてみると、雑な字でこう書いてあった。
『これを見たら、屋上に来いよ。――翔斗』
心臓がドクンと跳ねた。
なに?高橋翔斗?なんで私?美加からの物じゃないことに一瞬だけほっとしたけど、結局嫌な予感しかしない。でも行かないわけにはいかない気がする。
だって……このメモを無視したら、私を取り巻くクラスの空気がもっと悪くなるかもしれない……。
私はメモを握りつぶして、カバンに突っ込んだ。
「高橋翔斗……、何のつもり?」
呟いた声は、誰も居ない静かな教室に小さく響いて、消えた。
☆
窓から茜色の光が差し込む廊下を歩き、屋上の扉を前にして、私の足は鉛のようだった。
カバンの中で握りつぶした翔斗のメモが、頭の中で何度もリピートしてる。
『これを見たら、屋上に来いよ。――翔斗』
何の用?注意したことへの仕返し?それとも、もっと悪いこと?
心臓がバクバクして、制服の襟が汗でじっとりする。
意を決して扉を開けると、屋上には翔斗が一人、フェンスにもたれて空を見ていた。
制服がまるで、オーダーメイドのブランド品かのように錯覚するくらいピッタリ似合う、高い身長にスラリとした長い手足。整った小さい顔。風に揺れる黒髪と、緩く開けたシャツの襟。
正直、悔しいけど絵になる。
少女漫画原作のキラキラ青春映画のワンシーンかよ。
私の気配に気づいた彼が振り返り、ニヤリと笑う。
「お、来たか。遅えぞ、委員長」
「何……用?」
声が上ずる。恥ずかしい。
翔斗が一歩近づいてきて、私は思わず後ずさり。背中がコンクリートの壁にぶつかる。
彼は私の目の前で立ち止まり、ちょっと首をかしげて言った。
「お前、俺の女になれよ。いじめられたくなければな。クラスの空気、わかってるだろ?」
頭が真っ白になった。
え?何?女になれ?彼女ってことだよね?質の悪い冗談……、だよね?
でも、翔斗の目は笑ってない。
いつもみたいに軽薄な雰囲気なのに、どこか真剣で、私の心をぐらっと揺さぶる。本気なの?
「……わかった」
と、口から勝手に言葉が漏れた。翔斗の真っ直ぐな瞳に吸い寄せられるようにこぼれた。
自分でもびっくりした。どうして頷いたの?こんなの、間違ってる。
でも、美加たちのヒソヒソ声が頭をよぎる。あの視線に耐えられる自信なんて、なかった。
翔斗は「約束な。じゃ、明日からよろしくな」と、軽く私の肩を叩いて去っていった。
残された私は、屋上の風に震えながら、呆然と立ち尽くした。
どうして私が?明日から私はあの高橋翔斗の彼女ってこと?あの高橋翔斗が私の恋人、つまり彼氏になるの?
こんなの、わけがわからない……。
次の日から、クラスは一変した。
☆
朝、教室に入ると、女子たちの視線が刺さる。
「佐藤さんが高橋君の彼女?マジありえないんだけど」
「何か弱みでも握ったんじゃない?」
「脅したってこと!?」
美加の鋭い声が、私の耳に届く。むしろ私の方が『いじめられたくなければ俺の女になれ』っていう意味不明な脅しをされてるんですけど。
私はただうつむいて、机に座った。反論したかったけど、言葉が喉に詰まる。
美加の目が、いつも以上に冷たくギラギラしてる。彼女、翔斗に片思いしてるって噂だけど、やっぱりホントなのかな……。
昼休み、翔斗が私の机に近づいてきた。
「お前、いつもそんな髪型なの?おさげ、ダサくね?」
ニヤニヤしながら言うけど、どこか優しい声。私の心臓がまたドクンとする。
からかってるだけなのに、なんでこんなにドキドキするの?
「別に良いでしょ……放っておいて」
と返すのが精一杯。
翔斗は「ふーん」と笑って、バスケ部の友達と去っていった。
放課後、トイレの鏡で自分を見た。地味なメガネ、ダサいおさげ。翔斗の言葉が頭にこびりついて、離れない。
彼の目的って何?ただの遊び?質の悪いイタズラ?でも、あの屋上での目……。
私はメガネを外して、鏡に映る自分をじっと見つめた。いつも通りの冴えない姿。
こんな私に、あの高橋翔斗が本気で好きになるわけないよね。
なのに、胸の奥がざわつくのは、なんで?
☆
あれから一週間、クラスの視線はますます冷たくなった。
美加たちのこっちに向けてくる目とヒソヒソ話は止まらないし、翔斗は毎日私の机にやってきては「メガネ、ずれてんぞ」とか「昼メシ、何食う?」とか、意味不明な絡み方をしてくる。
からかってるだけなのに、私の心臓は毎回バカみたいに跳ねるし。
こんなの、絶対おかしい。
その日、放課後に忘れ物のノートを取りに教室に戻ると、誰かが居る気配がした。
私の机に座ってる翔斗だった。
☆
長い脚を組んで私の机に座る翔斗の手には、私が机に隠してた少女漫画。
表紙のキラキラした王子様キャラが、めっちゃ恥ずかしい。
「……何!?ちょっと!それ、勝手に触らないで!」
私は顔が熱くなって、奪い返そうとした。
翔斗はニヤッと笑って、漫画を高く掲げる。
「こういうの好きなんだ?意外だな、委員長。真面目な顔して、こんなキラキラした恋愛もの読むなんてよ」
からかう声なのに、どこか楽しそう。
私は「からかわないで!返して!」と手を伸ばすけど、彼の長い腕には届かない。くっ、さすがバスケ部。
すると、翔斗の目が少し柔らかくなった。
「お前……去年、図書室でもこれ読んでたよな。すげえ笑顔だった……」
彼の言葉が、ポロッとこぼれるように出て、すぐに口を閉じた。
え?図書室?去年?私の頭がぐるぐるする。
「何それ……、どういう意味?」
声が震えた。
翔斗は「なんでもねえ」とそっぽを向くけど、耳がちょっと赤い。
嘘、絶対何かある。
私の胸がざわざわする。去年の図書室、私が漫画読んでたなんて、誰も気づかないような地味な瞬間。なのに、翔斗が覚えてる?
まさか……あの屋上の「俺の女になれ」って、ただの冗談じゃなかったの?
「返すよ、ほら」
翔斗が漫画を差し出してくる。私は受け取りながら、彼の顔をチラッと見た。
いつもみたいにニヤニヤしてるけど、その奥に何か隠してる気がする。
自分なんかに、あのイケメン高橋翔斗が本気なわけない。
そう思うのに、頭の片隅で彼の言葉がリピートする。
『すげえ笑顔だった……』
それって、どういう意味?教室を出る時、翔斗が後ろから「次は俺に貸せよ、その漫画」と笑った。
私は「……考えておく」とだけ返して、早足で逃げるように廊下を歩いた。
あぁ、心臓がうるさい。
こんなの、少女漫画の読みすぎだよ、絶対。
でも、もし……本当に、翔斗が私のことを……?
いや、ないない!あいつはふざけてるだけ。私はメガネを押し上げて、頭を振った。こんな妄想、ダサすぎる。
☆
教室でのあの出来事から、頭の中は翔斗の言葉でぐちゃぐちゃだ。
『すげえ笑顔だった……』
あれ、なんだったの?考えるたび胸がざわつくけど、クラスの空気はさらに重くなっていた。
美加の視線が特に鋭い。
彼女の取り巻きが避妊用のゴム製品を机に置いて「はいこれ、必要でしょ?佐藤さん、調子乗ってるよね」と微笑みながら囁く。
私はただうつむいて、耐えた。
ある日、放課後。美加とその取り巻きに校舎裏に呼び出された。
「あんた、翔斗と別れなよ。全然似合わないから」
美加の声は冷たくて、でもどこか震えてる。私は唇を噛んだ。
「私は……別になにもしてない」
やっと絞り出した言葉に、美加の目がギラッと光る。
「は?何?自慢?ふざけんなブス!」
「高橋君があんたなんか選ぶわけないじゃん」
「遊ばれてるだけなの、いい加減気付かないの?」
取り巻き達が一斉に喚きだし、美加が一歩詰め寄ってきた瞬間、バンッと音がして、翔斗が現れた。
「おい、何してんだ!」
低い声に、みんなが凍りつく。
「お前ら、葵に何かしたんじゃねえだろうな!?」
翔斗の本気の怖い目。
美加は目を潤ませて「翔斗……」と呟くけど、彼は「どけっ」と押しのけて私の腕を掴んだ。
「行くぞ、葵」
彼の大きな手が私を引っ張る。うっ、力つよ!えっ、ていうか今『葵』って呼んだ?いつも『お前』とか『委員長』だったのに。
☆
連れられた先は、また屋上。
茜色の空の下、翔斗は少し息を切らしながらフェンスにもたれて言った。
「あいつらに何かされたのか?」
私はもっと息が上がっていた。なんとか息を整えながら、
「……ううん、別になにも」
そう言うと、翔斗がほっとした表情になる。
「そっか、良かった……」
良かった、ってやっぱり私を助けに来てくれたってこと……だよね?
今のほっとした顔もさっきの怖いくらいの真剣な顔も見たことが無かった。いつも軽薄そうだったり、余裕ぶってる所しか見せないのに。
少しの沈黙が二人の間に流れる。夕陽が屋上のフェンスをオレンジに染め、翔斗の黒髪をふわりと揺らす風が、私の頬もそっと撫でた。
息切れも収まってきたし、私から何か言うべきなの?と思っていると翔斗がぽつりと口を開いた。
「あの時の『俺の女になれ』って言ったの、冗談じゃない」
翔斗の声が、低く響く。
え?私は息を飲む。
彼は少し照れたように頭をかいて、続ける。
「もっと他のやり方があれば良かったけど、わかんなかった」
そう言って、フェンスをコツコツ叩く指先で少しバツが悪そうに笑った。彼のシャツの裾が、夕陽の光を受けて風に揺れる。
「あの脅しみたいな告白のこと?」
「それだけじゃない。お前の真っ直ぐなとこ、ずっと見てた。去年、図書室でお前が漫画読んで笑ってた時すげえ楽しそうで……なんか……、かわいい!って思って、電気が走ったみたいで目が離せなかった」
翔斗の言葉が、ゆっくり胸に落ちてくる。時間が止まったみたいに、屋上の空気が静かになる。
彼の耳が赤くなってる。いつもニヤニヤしてる彼が、こんな風に照れるなんて。
「……それで、気づいたらお前のことばっか見てた。でも、どうやって話しかけりゃいいか、わかんなくてさ。教室でふざけて騒いだりしたのも、実は……お前の注意を引きたかっただけなんだ」
「えっ……?」
頭がぐるぐるする。教室でのあの騒がしさ、いつも私が注意してたあの瞬間が、全部……私の気を引くため?
あぁ、また心臓がうるさい。
翔斗の目が、まっすぐ私を捉える。
いつもみたいにカッコつけたりしてない。こんな真剣な高橋翔斗、初めて見た。
「私……なんかを?」
声が震える。自分なんかに、こんなイケメンが本気?信じられない。
でも、彼の目が、嘘をついてないって訴えてくる。
翔斗は少しバツが悪そうに笑って、目を逸らす。
「まあ、そういうこと。ダセーよな、俺。自分でもびっくりするくらい、お前にハマっちまってたんだよ」
「わ、私、恋愛とかわかんないけど……あなたのことは、今度からちゃんと見てみる」
全身がもの凄く熱くて震える。胸がぎゅっと締め付けられる。なんとかやっと絞り出した言葉。
翔斗の顔がパッと明るくなる。
「それでいい」
彼はニッコリ笑って、一歩近づいてそっと私のメガネに触れた。フレームが外れる瞬間、夕陽がレンズに反射してキラッと光った。
「お前、目でっかいな」
からかう声に、私の頬が熱くなる。夕陽の中で、翔斗の笑顔がやけに眩しかった。
☆
あの日から、私の毎日は少しずつ変わった。
屋上での翔斗の告白が、頭の中で何度もリピートするたび、胸が温かくなる。
背が高くて運動神経抜群でアイドルみたいに顔が良くて二週間に一度は女子に告白されてるって噂の、あの高橋翔斗が自分なんかを好きだなんて、まだ信じられない。
けど……少しだけ、鏡の中の自分を好きになれた気がする。
試しにおさげを解いて、髪を下ろしてみた。
鏡に映る私は、いつもよりちょっと自信があるみたいに見えた。まだメガネをコンタクトにする勇気はないけど。
次の日、教室に入ると、翔斗が私の机にやってきた。
「お、髪下ろしたじゃん。……なんか、いいな、それ」
彼はそう言って、耳まで赤くしてそっぽを向いた。
私の心臓がまたドクンとする。なんでこの人、こんなことで照れるの?
つい笑っちゃって、「ありがと」と小さく返した。
クラスの視線はまだチクチクするけど、美加は「ふん……もういいわ、あんなブスとブス専」と吐き捨てつつ、どこかスッキリした顔。
彼女なりに、何か吹っ切れたのかな。
放課後、翔斗に誘われて図書室に行った。
並んで本を読むなんて、まるで少女漫画みたい。
私の手元の恋愛漫画を、翔斗がチラッと覗き込んでくる。
「これ、面白い?」
彼の声がちょっと楽しそう。私は「うん、結構」と答えて、ページをめくる。
静かな図書室に、本の音だけが響く。
なんだか、落ち着く。
「なあ、葵」
翔斗が急に名前で呼ぶから、ビックリして顔を上げた。名前で呼ばれるのはまだ全然慣れない。
「次はお前が俺に告白しろよ。こういう漫画みたいに」
ニヤッと笑うけど、目が少し真剣。私の頬が熱くなる。
「……考えておく」
そう返すと、翔斗は「マジか、楽しみにしてるぜ」と笑った。
その笑顔が、夕陽の屋上みたいに眩しくて、胸がきゅっと締め付けられる。
恋愛なんて、まだよくわからない。
でも、翔斗とこうやって少しずつ距離を縮めていくの、嫌いじゃない。
いや、たぶん……好き。
図書室の窓から差し込む光の中で、私はそっと微笑んだ。これから、どんなページが待ってるのかな。
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