表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

音の記憶

作者: tagu59
掲載日:2025/10/17

 小さい頃に経験した事、特に楽器は大人になってまた触りたくなることがある。

第一章 お姉ちゃんの部屋


 また、来てしまった。

 先週も来たばかりなのに。


 狭くて、薄暗い部屋。

 ベッドが一つと、壁の時計。

 僕は上半身裸で、腰にバスタオルを巻いていた。

 お姉ちゃんは、胸から下をタオルで包んでいる。


「シャワー行こう。今なら空いてるから」

「うん」


 お姉ちゃんが手を取る。

 その指先の温かさに、いつも少し泣きそうになる。


 ——この時間だけが、僕の現実を忘れさせてくれる。


第二章 夜の工場


 河岸電子工業。

 電子楽器の部品を作る、小さな工場。


 機械の音が夜に溶けていく。

 壁のデジタル時計が「22:30」を示していた。


 社長の秋保さんが、出来上がった部品を検品している。

 白い指、細い首筋。

 どこか音楽家のような雰囲気を纏っていた。


「お腹、空いたでしょ? 夜食、出しますね」

 そう言って見せた笑顔は、工場の蛍光灯よりずっとあたたかかった。


 その夜、港の見えるレストランで食事をした。

 高そうな店。

 僕には場違いで、手が震えた。


「彼女とか、いないの?」

「いないです。……いたこともないです」


 秋保さんはグラスを傾けて、微笑んだ。

「あなたといると、落ち着くの。不思議ね」


 ——あのとき、胸の奥で何かが静かに鳴った気がした。


第三章 告白


 レストランの駐車場。

 車の中、夜の匂いが漂っていた。


「私と、お付き合いしてくれませんか?」


 言葉が、時間を止めた。

 助手席の僕は何も言えず、ハンドルに映る彼女の瞳だけを見ていた。


「子どものころから、あなたが好きだったの。

 カワノ音楽教室で、あなたのエレクトーンを聴いたときから」


 胸が、痛くて、温かかった。


 けれど彼女は続けた。

「……でも、今はね、会社のために結婚しろって言われてるの」


 沈黙が降りる。

 ワイパーがガラスを拭う音だけが響いた。


 ——どんな音よりも苦しい静寂だった。


第四章 音楽の部屋


 僕は、久しぶりに音楽教室の扉を開けた。

 エレクトーンの音が廊下まで響いていた。


「体験レッスンの方ですね?」

「はい。……昔、少しだけやってました」


 講師は微笑み、僕を教室に案内した。

 鍵盤の上に手を置いた瞬間、胸が熱くなった。


 あの日の、お姉ちゃんの笑顔。

 秋保さんの声。

 すべての記憶が音に溶けていく。


 その頃、別の部屋では、教室の社長が女教師に言っていた。

「工場勤めの生徒か。ローンを組ませてでも、新しいエレクトーンを買わせろ」

 彼女は何も言えず、ただ頷いた。


 ——音を愛する人たちが、金の音に縛られていく。

 それでも、僕は弾くしかなかった。



第五章 音の記憶


 春の午後。

 小さなリサイクルホールで、発表会が開かれた。


 僕の演奏する順番が来た。

 タイトルは「帰る場所」。


 指を置いた瞬間、空気が震えた。

 旋律の中に、すべての記憶が流れ込む。


 お姉ちゃんの笑い声。

 秋保さんの瞳。

 工場の機械音。

 夜の街の風。


 すべての音が、ひとつの歌になっていく。


 最後の和音を押した。

 静寂。

 そして、やがて広がる拍手。


 僕は思った。

 ——ああ、僕はようやく「誰かに聴かせたかった」んだ。


 会場を出ると、外は春の風が吹いていた。

 スマホを取り出し、お姉ちゃんの連絡先を開く。

 でも、何も打たずに画面を閉じた。


 心の中で呟く。


 「ありがとう。僕、もう大丈夫だよ」


 風の音、街の音、遠くの車の音。

 世界は音でできている。


 そして、僕の中にもまだ、音が生きている。



終章


 どんなに遠く離れても、

 音は消えない。


 声も、ぬくもりも、想いも。


 それらは、確かに心に残り続ける。


 ——音は、記憶だ。

 そして、記憶は、愛のかたちだ。


 僕はもう、ひとりじゃない。

 世界中の音が、静かに僕を包んでいる。



人は、生きるうちに多くの「音」を失う。

 でも、その音を取り戻す方法がある。

 それは、誰かを想い出すことだ。


 忘れたくない人の声。

 夜の工場のモーター音。

 鍵盤に触れた指の震え。


 それらをひとつずつ思い出すたび、

 僕たちはもう一度、生き始める。


 ——音の記憶の中で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ