9. 悪意
翌日、放課後の昇降口。
夢は下駄箱を開けて、ふっと目を瞬いた。
「……っ」
黒いビニール袋に入った生ゴミが溢れ出し、下駄箱の中でローファーにべったりとこびりついている。
「なに……これ……」
鼻をつく臭気に、夢は思わず後ずさった。
「うっ……」
足元がすくみ、胸がぎゅっと縮まり、手が小刻みに震える。
(どうしよう……怖いよ……誰か)
気づけば震える指で、幼馴染の名前を押していた。
——律くん。
震える手で電話をかける。
(お願い、電話、出て…)
「はい。」
その声に安堵する。でも、
「律くん、もう学校いないよね?」
震える夢の声に律は何かを感知する。
「どうしたんですか?」
「……ごめん、助けて……」
「何処にいますか? そこで待っていてください」
会話を終えると、夢は下駄箱の前で力が抜けたようゆっくりとしゃがみ込む。
背後で小さな笑い声がした気がした。でも振り向く勇気はなかった。
「夢さん!」
息を切らして駆けつけてきた律。夢の目に涙が滲む。
「ごめん、ごめんね……どうしたらいいか、分からなくて、こ、怖くて」
律は眉を寄せ、すぐに下駄箱を覗き込む。
「これは……」
険しい表情のまま、スマホを取り出して写真を撮った。
「証拠を残しておきましょう」
淡々と告げる声に、夢の胸が少しだけ落ち着く。
すぐさま教師を呼び、事情を説明する律。
夢は無言で汚れたローファーを手に取り、水道に運んだ。
けれど蛇口をひねっても、震える手ではうまく洗えない。
「……っ」
小さな嗚咽が洩れる。
その隣に、静かに律が立った。
何も言わず、ローファーをそっと夢の手から受け取り、自分の手で洗い始める。
「僕もやります。一人で抱え込まないでください」
淡々とした声。けれど、その横顔には確かな優しさがあった。
夢は涙を拭いながら、小さく頷く。
「……先生からスリッパを借りてきました。少し恥ずかしいとは思いますが、今日はこれで帰りましょう」
「うん、ありがとうね……」
──片付けと掃除が終わる頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「今日は、家の車を待たせてあります。スリッパのまま歩かせるわけにはいきませんから」
「……本当に、ありがとう。私、パニックで。きっと塾だったよね。それなのに……ごめんね」
「夢さん、塾なんてどうでもいいんです。知らせてくれてよかった。」
「律くん……」
安堵した様子の夢に、律は僅かに表情を和らげる。
その眼差しは冷静で、けれどどこか鋭く光っていた。
(しかし誰が……こんなことを)
律は唇を噛み締める。
夢はスリッパを履き、ゆっくりと校庭を歩く。
頼りなく音を立てるスリッパは、今の自分みたいに感じられて、胸がぎゅっとした。
少し歩いたところで夢は呟いた。
「律くん、ごめんねぇ……」
「……夢さんは謝らないでください。謝るのは夢さんにこんな事をした人ですから」
少し考えてから、夢はこくりと頷いた。
翌日の昼休み。
律は静かな廊下を歩きながら、心の奥に燻る疑問と苛立ちを抱えていた。
(あれは……偶然なんかじゃない。明らかな悪意だ)
夢の下駄箱に入れられた生ゴミ。
笑って流せるような「悪戯」の範疇を超えていた。
けれど自分は、こうした「陰湿なやり口」に関して知識がほとんどない。
(夢さんを守るために、もっと的確な対処を知らなければ……)
思考の末に浮かんだ顔は、一人の上級生だった。
——如月ルナ。
彼女の優れた観察力。
律は小さく息を整え、校舎裏のベンチに腰掛けるルナを見つけて声をかけた。
「少し、お話よろしいですか」
ルナは文庫本から顔を上げ、形の良い眉をわずかに上げた。
「あら、珍しいわね。あなたから私に声をかけるなんて」
「……夢さんのことで、ご相談があります」
律の眼差しは真剣だった。
事情を淡々と説明する律の言葉を、ルナは黙って聞いていた。
やがて本を閉じ、指先で髪を耳にかけながら口を開く。
「それは嫉妬からきた典型的な嫌がらせね。女子の世界では、割と多いのよ」
「女子に……多い、ですか」
「ええ。放っておけば続くわ。むしろ、エスカレートする可能性が高いの」
ルナの声音は穏やかだが、その奥に確信めいた鋭さがあった。
「……理由は、心当たりない?」
律は言葉を詰まらせた。
(……陽翔か)
ルナはその沈黙を見透かしたように微笑んだ。
「ふふ。全てを口にしなくても顔に出るのね」
「……失礼しました」
「いいのよ。あなたは嘘が下手なだけ」
ルナは足を組み直し、鋭い眼差しで律を見据えた。
「それで、どうしたいの?」
「……嫌がらせをきっぱり辞めさせたいです」
律の声音は低く固かった。
ルナはしばし見つめ、やがて唇に笑みを浮かべる。
「いいわ。」
彼女はスマホを取り出し、画面を律に向けた。
「協力してあげる。その代わり——あなたの連絡先を教えて」
「……分かりました」
律がためらいながら入力すると、ルナは愉快そうに目を細める。
「ふふ。まあ肩の力を抜きなさい。」
「……」
ルナはふっと微笑みながら「面白いわ」と呟き、文庫本を置いた。




