6. 化学反応
「はぁ……」
放課後、夢は弁当箱を見つめてため息を吐く。
(結局、食べられなかったな)
「夢さん」
声をかけられて、夢はびくりと肩を震わせる。
「あ、律くん……」
「お弁当、どうしたんですか?やっぱりお昼、食べてないんですね」
「そ、それがね〜お昼に、屋上で、ちょっと……」
「顔が赤いですが……大丈夫ですか?」
「ち、ちがうの。ただ、ちょっとしたハプニングというか、わっ、私〜ッ……」
明らかに動揺する夢の様子に律は眉をひそめる。
「ハプニング?」
「ええと、陽翔くんと、話したの……」
「それだけ、ですか?」
息が浅くなり、目が泳ぐ夢。
「ちっ、近づいた。ひざ枕、したの……」
夢が赤くなって両手で頬を覆った瞬間、律の血の気が引いた。
胸の奥に冷たい衝撃が走る。
(膝枕……夢さんが……?)
乱れそうになる呼吸を、必死に整える。
「それで混乱していたのですね。でも……なぜ、そんな状況に?」
声を出すとき、自分の声がわずかに震えているのを律は悟った。
「偶然……」
夢は視線を逸らし、何かを思い出すように小さく呟く。
「彼を観察したの」
律の瞳が揺れた。
その言葉が、自分に向けられていたものではないと理解するのに、わずかな時間を要した。
「じゃあ、私もう美術室に行くね」
夢が立ち上がる。
「無理しないで、夢さん」
切実な響きを帯びた律の声に、夢は振り返らない。
「うん、お弁当、食べなきゃね」
軽く手を振るような言葉を残し、夢は足早に教室を出て行った。
「あっ……」
まだ、話したいのに。事情を聞いて納得したいのに。それが出来ない律はゆっくりと立ち上がると、呼吸を整えたくて図書室へ向かった。
静かな空間。
適当に手に取った本を開くが、文字は一行も頭に入らない。
(これは、煩悩? いや、心が掻き乱されている)
図書室の窓際。
午後の光が静かに差し込み、机の上に落ちる影が長く伸びていた。
律は本を開いていながら、目の前の文字を追っていなかった。
「ねぇ、あなた」
凛とした声が降ってきた。
律は反応しない。思考の奥に沈み込んでいた。
気配が近づく。椅子を引く小さな音。
やがて、目の前に人影が座る気配がした。
「……本当は眼鏡なんて必要ないんじゃない?」
律の肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げると、ルナがいた。
長い睫毛の影を落としながら、じっとこちらを覗き込んでいる。
「度が入ってない」
ルナは唇を弧にして、にやりと笑った。
「……なんですか、急に」
ようやく律は声を出す。
「あなた、面白いなって」
「はあ」
素っ気なく返す律の様子を、ルナは楽しむように眺めていた。
やがて彼女の眼差しが鋭さを帯びる。
「ねぇ、どうしてあの子に告白しないの?」
律の背筋に、冷たいものが走った。
目の前の彼女に、見透かされたことを悟る。
「なぜそれを貴女に話す必要があるのですか」
「あそこまで分かりやすく、私に見せつけたんだから、説明してよ」
「……分かりました」
少し考えてから、静かに答える律。
「僕は……これから大学に進み、社会に出て、一人の男として責任を持てる立場になって初めて、想いを告げるべきだと思っています。
それが彼女に対する誠意であり、未来を見据えた行動だと考えています」
ルナは目を細め、机に肘をついて律を見つめる。
「ふぅん……でも、彼女はどうかな?」
律は返せない。沈黙だけが落ちる。
ルナは小さく笑った。
「完璧に準備してから、なんて。あなたらしいわ。
でもね、普通は……少しずつ、大人になっていくんじゃないかしら」
律は唇を結んだまま、視線を落とす。
しばしの沈黙のあと、ルナはふと目を伏せ、囁くように言った。
「……まぁ、私もそれが出来ないんだけどね」
その声音には、からかいではなく淡い翳りが滲んでいた。
「え……?」
律が顔を上げたときには、ルナはもういつもの微笑を取り戻していた。
「また会いましょう」
それだけ言うと彼女は図書室を出た。
ルナは一人で廊下を歩いていた。
思考の余韻に浸りながら、足音だけが響く。
「ルナ」
背後から名前を呼ぶ声。
振り向くと、彼女と同じ学年の友人――幸人が歩み寄ってきた。
「また、誰かを観察してたんでしょ?」
軽やかにルナを覗き込んで微笑む。
ルナは肩をすくめ、唇に笑みを浮かべる。
「恋愛なんてね、ただの脳内ホルモンの作用よ。
ドーパミンで舞い上がって、ノルアドレナリンでドキドキして、
オキシトシンで絆された気分になる……結局は化学反応」
「そうやって理屈で切って捨てるところ、ほんとルナらしいよね」
「だって事実でしょ」
「でもさ」幸人は少し声を落とす。
「僕は男の子を好きになるけど、そのとき“これはホルモンだ”なんて思わないよ。
心臓が跳ねて、声が出なくなって、目が合うだけで苦しくなる。
それを化学反応って呼ぶのは簡単だけど……僕にとっては本物なんだ」
ルナは口をつむぎ、一瞬だけ立ち止まる。
幸人は続ける。
「それにね、僕らがここにいるのは――誰かが誰かを好きになったからでしょ。
だったら、それっていいことなんじゃない?」
ルナの横顔に、ふと柔らかな翳りが射した。
「……分かってる」
「ならいいじゃん。あんまり難しく考えなくても」
ルナは小さく笑い、幸人の横顔を見やった。
「あなたがゲイだから、私はこういう話を素直にできるのよ」
「そう? 僕にとっては、ただの親友としての会話だけどね」
ルナは静かに瞼をとじて、深く息を吸い込んだ。
「……そうね。ねぇ、ユキちゃん。ピアノ、弾いてくれない?」
「いいよ」
音楽室、ドビュッシーの《月の光》の音色が響く。
優しさを孕んだ音の粒がひとつひとつ落ち、青春を包んでいった。




