5. 君が居た
翌日、昼休みに入る頃。
廊下を歩いていると、如月ルナが夢にふいに声をかけてきた。
「ねぇ、面白いもの見せてあげるから着いてきて」
夢は首を傾げながらも、あとを追う。
「ねぇ、あの彼と一緒に、抽象絵画の謎は解けたのかしら」ルナは歩きながら問いかける。
「……律くんが見つけた論文の話ですか?」
「彼が本当に差し出したかったものを理解している?」
「えっ……それは……ええと、噛み砕いて、説明してくれました」
「ふふふ、そう」
ルナ先輩は何が面白いんだろう。なんか会話が噛み合っていない……?
「ついたわよ」
階段を上りきると、最上階の突き当たりに古びた扉があった。
「ちょっとね、ここの扉は開けるのにコツが必要で」
ルナが手を添えてひねると、錆びた蝶番が鈍い音を立てて開いた。
「……屋上?」
陽の光が差し込む。風が一気に流れ込んで、夢のスカートの裾を揺らした。
ルナに促されるまま足を踏み出すと――視線の先に、壁に背を預けて眠る人影。
「……っ」
夢は思わず手で口元を押さえた。
金色の髪に夏の光が透けて、切れ長の目は閉じられ、無防備に寝息を立てている。
朝比奈陽翔だった。
「……」
夢の動揺を見て、ルナは口角を上げる。
彼女は夢の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「観察してみたら?」
「えっ、でも……」
思わず後ずさる夢。その肩にルナの手がそっと触れ、軽く前へと押し出された。
「ほら、見て。男子の大きな喉仏。本物の筋肉もある。石膏像とは違うでしょう?」
ルナの声に導かれるように、夢の視線は彼の首筋へ落ちる。
薄いシャツの下に浮かぶ輪郭。喉の上下に合わせて、かすかに胸元が上下する。
――違う。石膏像や写真とは、まるで。
生々しさに胸がざわつき、夢は慌てて振り返る。
「ルナ先輩、」
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
「……え?」
扉の前に駆け戻る。
取っ手をひねる。――がちゃ、がちゃ。
開かない。
「えっ……」
冷や汗が滲む。
そういえば、さっきルナ先輩が「コツが必要」って……。どうして聞き返さなかったんだろう。
仕方なく戻り、壁際に腰を下ろす。
ほんの少し隣で、陽翔は眠り続けている。
一定のリズムを刻む寝息が、かえって近すぎて、鼓動と重なる。
――起こしたほうがいいのかな。開け方を教えてもらわなきゃ。
けれど、寝顔を見てしまうと声をかけられなかった。
眉間にかかる前髪。長い睫毛。少し乱れた制服の襟。
そこから溢れる温度に、目を逸らせない。
夢は小さくため息を落とした。
――まだ、お昼休みは終わらない。
……もう少しだけ、このままでいいか。
柔らかな風が吹き抜ける。
夢は膝を抱えて座っていた。
隣で眠る陽翔は、壁にもたれたまま微動だにしない。
――と、その身体が、ずるり、と傾いた。
「あっ……!」
重力に引かれるまま、彼の頭が床へと落ちていく。
反射的に手を伸ばしたけれど、思った以上に重くて支えきれない。
結局、そのまま自分の膝へ――。
ぽすん。
「えっ……」
夢は硬直した。
制服のスカートの上、太ももの柔らかさに、陽翔の顔が乗っている。
――膝枕。
状況を理解した瞬間、心臓が破裂しそうに跳ねた。
全身がガチガチに固まり、息すら詰まる。
男子と、こんなに近づいたことなんて一度もない。
もし誰かに見られたら……。
もう、消えてしまいたい。
吹き抜ける風が、彼の髪を揺らす。
ふわり、と鼻をかすめる清潔な香り。――シャンプーだろうか。
見ないようにと思うのに、視線は自然と彼の顔をなぞってしまう。
高い鼻筋。
大きめの口元。
薄い唇。
……やだ、なんでこんなに見ちゃうんだろう。
夢はこっそり息をつき、瞼をぎゅっと閉じた。
――でも、このまま目を覚ましたらどうしよう。
彼に拒絶されたら? 嫌だって思われたら?
胸がぎゅっと縮み、目が回るような感覚に襲われたその時。
「ん……」
彼の眉がわずかに動いた。
次の瞬間、薄く目が開かれる。
「……柔らか……って、夢?!」
「わ、わぁぁ!!」
夢は悲鳴のように叫び、慌てて身を引いた。
陽翔も反射的に跳ね起き、二人の間に気まずい空気が弾ける。
「こ、これは違うんです!」
夢は両手をぶんぶんと振った。
「その、屋上にルナ先輩と来たんですけど、扉の開け方が分からなくて……! それで……っ」
「……あー、なるほどな」
陽翔は頭をかきながら、苦笑いを浮かべた。
「悪い、重かったろ」
陽翔が、まだ少し寝ぼけ声で呟く。
「え、いや……だ、大丈夫……」
夢は慌てて首を振った。
――本当は重かった。けれど、それ以上に。
彼を膝に乗せたまま、ずっと見つめてしまった自分のほうが、よほど恥ずかしくて。
「そっか。……ルナのやつ、扉の開け方も教えずに、一人で戻ったのか?」
「……あはは……」
夢は引きつった笑みを浮かべた。
陽翔はドアを指さして、さらりと言う。
「ドアノブをぐっと押し込んで、左に少し回してから開くんだ」
その時――
ぐぅ〜。
静かな屋上に、あまりにも無防備な音が響いた。
「っ……!」
夢は耳まで真っ赤になり、お腹を抑える。
「あははっ」
陽翔が声をあげて笑った。
「夢、もしかしてお昼食べ損ねた?」
「う、うん……。じゃ、じゃあ私は、もう戻るねぇ〜!」
恥ずかしさに耐えきれず、夢は逃げるように扉の方へ駆け寄った。
両手でドアノブを掴み、言われた通りに動かそうとする。
ガチャガチャ。
「……あれっ……」
聞いたばかりなのに、手が震えて上手くいかない。
「ほら」
背後から、不意に低い声が届いた。
次の瞬間、夢の背中を大きな影が覆う。
陽翔が真後ろに立ち、彼の腕が自分を囲むように伸びてきた。
大きな手が、彼女の細い手に重なる。
温度と重みが一瞬で伝わって、夢の心臓が跳ね上がる。
カチリ。
扉があっけなく開いた。
「お前って、不器用なんだな」
彼が覗き込むようにして笑った。
くしゃっと崩れるその笑顔は、太陽みたいにまぶしかった。
夢は思わず、呼吸を忘れた。




