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4. 共通体験

 夢と律が並んで帰路に着く。


 ふと夢が律に尋ねた。


「ねぇ、今日美術室に居た綺麗な人。律も見たでしょう」


「……見ました。綺麗かどうかは、分かりませんけど」


「短時間で解剖図を描いてたよ」


「そうですか」


「えっ、驚かないの?」


「……医学書などを普段から読まれているのでしょうね」


「ミステリアスな美女って感じだったなぁ……」


 隣でほわほわしている夢を横目で見る律。穏やかな時間が過ぎ、やがて律の家に着く。


「お家に遊びに行くの、久しぶりだね」


 大きな門を開けると、モダンな邸宅。清潔で落ち着きのある庭に、洗練された静寂を感じる建築。


「お帰りなさいませ、律様」


「ただいま」


「夢さん、いらっしゃい」


 家政婦さんが出迎えてくれた。


「お邪魔します」と夢は一礼する。


 律くんの両親は仕事で海外に行っていて、お爺様と家政婦さんと暮らしている。


 ーー変わってないな


 律くんの部屋は、無駄なものが一切ないけれど、背の高い本棚にはぎっしりと本が詰まっている。


 高い天井も、廊下に漂う少しひんやりとした空気も。

 大きな家なのに、不思議と居心地がいいのは、ここに律くんがいるからなんだろう。


「では、始めましょうか」


 机に置かれたノートパソコンの画面が灯る。

 白地に黒の文字がびっしりと並ぶ英語の論文――タイトルには、私が最近ずっと気にしていた言葉が並んでいた。


 “抽象絵画と心理学の相互作用について、哲学的観点から”


「専門用語が続くので、段落ごとに意味を分解してお伝えします」


 律は眼鏡を軽く押し上げ、目を細めた。

 滑らかな声が、画面の文字をひとつずつ日本語にほどいていく。


「――ここでは『鑑賞者は画家と絵画を通して共通体験に入る』と述べています。つまり、作者の身体や時間に、鑑賞者が“重なる”という考え方です」


 “共通体験”――その単語が、胸の奥にすっと落ちる。

 あの日、美術室でポロックを見ながら陽翔くんを思い出したように。絵の前に立つだけで、誰かの時間や息遣いがこちらに染み出してくる瞬間。

 それを「言葉」にしてくれる音が、目の前で続いていた。


 律くんは翻訳するだけではなかった。

 難しい語をひとつ言うたび、私の顔をちらりと見て、わずかに言い換える。


「“同調”と言ってもいいかもしれません。夢さんがデッサンで、対象のリズムを指先でなぞるような……そんな感じです」


 私が頷くと、彼の目尻がほんの少し緩む。

 律くんの声が緩やかなリズムを刻んでいるようで、心地いい。


「絵画の“無題”性にも触れています。『言葉の枠を外すことで、鑑賞者はより自由に作者の感情の場に入る』。」


「それが“untitled”の意図なのかな」


 思わず口からこぼれた言葉に、律くんは穏やかに笑った。


 翻訳の合間、彼はときどき喩えを置いていく。

 私の知っている質感に置き換えて、難しい言葉を手触りへと変えてくれる。


 ページが進むほど、胸の中に灯りが増えていく。

 “共通体験”――画家と鑑賞者が、作品を介して同じ場に立つ。

 それはまるで、今の私たちのことのようだ。画面の向こうの学者と、こちら側の私。

 そして二人の間にいる律くんが、言葉の糸をほどき、橋を架けてくれている。


 ――素敵。


 小さく漏れた声に、律くんが少しだけ目を丸くした。


「……ねえ、律くん」


「はい」


「いま、私たちも“共通体験”をしてるのかな。画家と絵と、それを読む人と……それを私に渡してくれる律くんと」


 言いながら、言葉が頬に熱を置いていくのを感じた。

 律くんは一瞬だけ視線を伏せ、そしてゆっくりと頷く。


「ええ。僕は、そう思います」


 画面の光が彼の横顔を縁取る。

 読み上げる声は相変わらず静かで、でもどこか遠くよりも近い場所から響いているようで。


 私は椅子の背にもたれ、彼の声の波に身をゆだねた。

 その調子は、私が分からない顔をすると少しゆっくりになり、分かると早くなる。

 私の呼吸に合わせて、意味がほどけ、結ばれ、またほどける。


 やがて論文は結語へと辿り着く。

「鑑賞とは、孤独に見えて、最も親密な“同席”である」と。

 その一文を、律くんは少しだけ間を置いてから訳した。


 私は口元が自然に緩むのを止められなかった。

 視界の端で、律くんもわずかに笑っていた。


 ――ねえ、律くん。

 あなたが今してくれたことは、ただ翻訳してくれただけじゃない。

 見えない橋を渡るとき、私の手をそっと支えてくれた。

 “共通体験”って、きっとこういう温度のことなんだ。


 静かな部屋で、ゆっくりと優しい時間が流れる。


「……今日はありがとう。すごく楽しかった。」


「夢さんが、嬉しそうで良かったです」


 そう言って、彼は眼鏡に指先を添えた。

 その仕草の影に、言葉にならない何かが揺れるのを、夢はまだ知らない。


 ――君が感じている、言葉では説明できなかった感情を。

 僕も、君からいつも貰っているよ。


「律くんって本当にすごいなぁ。専門的なことの翻訳まで出来るなんて」


「僕はただ和訳しただけです。でも……」


 君が僕の声に耳を傾けて、そっと目を伏せた時、僕は心地よかった。


「でも?」


「夢さんが解釈してくれるから……」


 解釈して微笑んでいるのは君で、その口元のほころびが僕の胸をぎゅっと締め付ける。


「ふふっ。律くんのお陰だよ。ありがとう」


 ほら、こんなに近くで、無防備に笑う。僕はもう子供じゃないのに。


 夢は、幼い頃から僕を気にかけてくれた。

誰もが色眼鏡で僕を見る中、彼女だけはそうじゃなかった。


 空想や絵の話をするのが好きで、僕はそれを聞くのが嫌いではなかった。

 言葉に頼る僕とは正反対で、だからこそ惹かれたのかもしれない。


 中学に入って彼女はさらに女の子らしくなり、告白されても首を振り続けた。恋よりも、彼女の目はいつだって美しい世界を見ていたからだ。


 そんな彼女が、今も変わらず僕に微笑む。

――それがずるいほど可愛らしいことを、僕は口にできないでいる。

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