3. 解剖図の女神
今日も夢は、美術室に居た。
グラウンドから届く運動部の声に耳を傾けながら、手は止まっていても心は絵を描いている。
思い浮かぶのは昨日の光景。
金色の髪を汗に濡らしながら笑った、あの少年の姿。
「ゴッホのひまわり、かぁ……」
ぽつりと呟いた。
どういうつもりで言ったのかは分からない。けれど彼らしいと思えて、ふっと微笑んでしまう。
その時――。
ガラリ、と音を立てて美術室のドアが開いた。
何気なく振り返った夢は、思わず息を呑む。
部員たちもざわめきを忘れた。
扉の向こうから現れた少女は、まるで一枚の絵画が歩み出てきたようだった。
柔らかく波打つ亜麻色の髪。すらりとした肢体。長いまつ毛の奥に光る双眸は、人を射抜くほどの透明さを持っている。
その存在感に、美術室の空気は一瞬で張り詰めた。
――如月ルナ。
誰もが知る「高嶺の花」であり、まるでミュシャの絵に描かれた女神そのものだった。
「画用紙を、くれないかしら?」
透き通るような声が、夢に向けられる。
「あ、はい……」
差し出す手が少し震えた。
ルナは受け取ると、何事もないように一番奥のテーブルに腰を下ろし、静かに鉛筆を走らせ始めた。
誰も声をかけられない。
ただ、その動きを見守るしかなかった。
やがて三十分ほどが過ぎたころ。
彼女はふいに鉛筆を置き、夢に顔を上げた。
「ねぇ、私の絵を見てくれない?」
恐る恐る近づいた夢は、目にした瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
そこにあったのは――人体の断面図。
繊細なタッチで描かれた筋肉や臓器が、まるでそこに存在するかのように克明に紙面を占めていた。
「これは……」
言葉が喉で震える。
ルナはふっと微笑んだ。
「これは、芸術じゃない?」
「えっと……分からないです……」
困惑を隠せずに答える夢。
「そう。これは芸術のつもりで描いたわけじゃないの」
ルナは楽しげに肩をすくめる。
「医学書にある解剖図の模写よ」
けれど、彼女は何も見ずに描いていた。
きっと頭の中に、すべて刻み込まれているのだろう。
「上手ですね……」
かろうじてそう口にすると、ルナはさらりと言った。
「気に入った? なら、あげるわ」
「えっと……」
受け取るべきか、どうしても迷う。
夢は視線を泳がせるばかりだった。
ルナはじっと夢を見据え、微笑みながら告げた。
「要らないなら、理由を添えてちゃんと断って」
心臓がきゅっと縮む。
けれど、勇気を振り絞って、夢は小さな声で言った。
「……私の好みの絵ではないから、いらないです」
一瞬、沈黙。
次の瞬間、ルナはくすくすと笑い声を立てた。
「ふふふっ……よく言えたわね。その方がお互いのためよ」
その時、美術室の扉が再び開いた。
「失礼します」
静かな声。入ってきたのは白河律だった。
律は夢に歩み寄る。そこに居るルナには目もくれず、夢に向かって真っ直ぐ穏やかな笑みを浮かべる。
「今日は塾がありません。以前、夢が行ってみたいと仰っていたクレープ屋さん、ご一緒しませんか?」
「えっと……」
夢は少し考え、言いにくそうに首を横に振る。
「今日はもう少し、美術室に居たいから……行かない」
「へえ……」ルナは呟く。
この子は誘いを断ったんだ。
律はしばし黙し、思案したように眼鏡の位置を直した。
やがて言った。
「……抽象絵画と心理学の相互作用について、哲学を引用しながら綴られた論文を見つけたのです。僕も気になって調べていました。もしよければ、翻訳しましょうか」
「えっ!あるの? 知りたい……!」
夢の瞳が一気に輝きを増す。
律はにこりと微笑み、軽く頷いた。
「では、行きましょう」
二人は肩を並べ、美術室を後にした。
その背中を見送るルナは、ふと唇に笑みを浮かべる。
「ふぅん……面白いじゃない」
脳裏に浮かぶのは、つい先ほどの光景の断片だった。
夢のどっちつかずな返答。
律が必死に頭を回して、彼女の興味を引こうとする様子。
それらはルナの中で、一枚の「図」として整理されてゆく。
そしてルナはゆっくりと美術室からグラウンドを見下ろす。その瞳には仲間とサッカーをする陽翔が映っていた。
陽翔、簡単に見つけちゃった。あの日、貴方の眼差しの先にあったもの。でもそれは想像してたよりも、複雑で面白いみたい。特にあの律って子……
「ふふっ。必死な天才って、可愛い」
その日、美術室で女神が微笑んだと話題になった。




