2. ひまわり
デッサンの下描きが概ね終わると、夢は鉛筆を置き、静かに口を開いた。
「……もういいよ。ありがとう、律くん」
「……はい」
短く応えた律は、それでもまだ夢の前に座っていたかった。
けれど時計の針は、無情にも塾へ向かう時間を告げている。
後ろ髪を引かれる思いで立ち上がり、かばんを肩に掛けた。
夢は律を美術室の外まで見送り、廊下の向こうに消えていく背中をじっと見つめた。
扉を閉め、ふう、と小さく息を吐く。
机に鉛筆を置き、窓辺へ歩み寄って視線を外へ投げた。
夕陽に照らされたグラウンド。
黄金色の光の中でひときわ目立つ少年の姿があった。
金色の髪を揺らし、サッカーボールを追って走るユニフォーム姿――朝比奈 陽翔
その姿を目にした瞬間、夢の胸に春の日の記憶が蘇る。
──入学したばかりの頃のことだった。
スケッチの題材になる花を探して、校庭の花壇にしゃがみ込んでいたときのこと。
背中に突然、強い衝撃が走った。
「きゃっ」
よろめいて膝をつき、スケッチブックと鉛筆が土の上に散らばる。
振り返った先に立っていたのは、眩しいほどの少年だった。
金色の無造作な髪、耳元には小さなピアス。
息を切らして駆け寄ってきて、真っ直ぐに声をかけてくる。
「おい、大丈夫か」
低い声は、意外なほど澄んでいてまっすぐ胸に届いた。
「あっ……えっ、大丈夫です……」
迫力に呑まれて、夢はしどろもどろになる。
少年は草むらに転がったサッカーボールを拾い上げると、散らばったスケッチブックを軽やかに拾って差し出した。
「ほら。お前って、どんくさいな」
太陽のように明るい笑顔だった。
「おーい陽翔!なにやってんだ!」
グラウンドから仲間の声が響く。
「今戻るわー!」
「あの……」
声をかけかけ、けれど言葉が見つからない。だから、苦し紛れに口をついて出た。
「サッカー部なんですね」
「あー。まぁな。じゃあな、絵、頑張れよー」
それだけ言って、彼は仲間のもとへ駆け戻っていった。
夢はその背中を見送りながら、ぽかんと立ち尽くすしかなかった。
あれからというもの、校内で彼の姿をすぐに見つけてしまう。
金髪の頭、すらりとした背筋、少し着崩した制服。
仲間と笑い合う声。
夢は美術室の本棚から一冊の画集を取り出す。
「……見つけた」
画面いっぱいに広がるジャクソン・ポロックの絵。
滴り、跳ね、ぶつかり合いながらも画面を支配する「動」の力。
――彼の姿はまさにそれだった。
夢はまだ陽翔に話しかける勇気を持てない。
それでも、絵の上に重ねてしまう。
ページの向こうで躍動する色と線の中に、あの日の笑顔を。
夢は制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
胸の奥に込み上げる熱は、言葉にはならない。
──そのとき。
ガラガラッ。
不意に、美術室のドアが開いた。
「お前、まだ居たのか」
振り向いた夢の視線の先に立っていたのは、まさしくその人だった。
金色の髪に、練習帰りの汗を纏った姿。
夕陽を背に受けた輪郭は眩しく揺らぎ、まるで別の世界から切り取られてきたように見えた。
「……あっ」
思わず息を呑み、半歩後ずさる。
心臓が跳ね上がり、喉がきゅっと塞がれて声が出ない。
陽翔は気にする様子もなく、タオルを首に掛けたまま美術室へ足を踏み入れる。
そのまま夢のイーゼルの前に立ち、軽く顎をしゃくった。
「美術部なんだろ。絵、見せてみろよ」
命令のような響きに、夢は慌ててかぶりを振る。
「やっ、恥ずかしいです……」
「いいじゃん、見せてよ」
イタズラっぽく笑い、ひょいと覗き込んでくる。
観念した夢は、そっと身をどかした。
数秒の沈黙。
やがて、陽翔の声が弾んだ。
「わっ、めっちゃ上手じゃん!」
「えっ……。こういうの、興味ないと思ってた」
「いや、めっちゃあるよ。すげーと思う」
真っ直ぐな肯定に、夢の心がふっと緩む。
思わず問いかけていた。
「……好きな画家とか、いるの?」
「あー……比べるほど知らないんだけど……ひまわりとか?」
「ふふっ。それは、ゴッホの絵だね」
微笑む夢。
陽翔は、その笑みをじっと見つめていた。
汗に濡れた額の下の瞳は、不思議そうに細められ、何かを探るように。
「……」
数秒の沈黙ののち、ぽつりと声が落ちる。
「てかお前だったのか。いつも美術室で外、眺めてる奴」
「えっ」
胸が強く跳ねた。
隠していた自分の小さな秘密を、思いがけず暴かれたようで、耳の奥まで熱くなる。
「名前は? 俺は陽翔」
「……藤咲夢、です」
「よろしくな」
手を伸ばしても届かなかった太陽が、いま、私の目の前で微笑んでいる。
胸の奥で羽音のような鼓動が鳴り響き、私は今にも蝶のように宙へ飛び立ってしまいそうだった。




