1. 美術室にて
放課後、美術室の窓から差し込む午後の光は、柔らかく埃をきらめかせていた。
高校一年生の藤咲 夢は幼馴染の白河 律をモデルにデッサンをしている。
静まり返った空間に、鉛筆の芯が紙を擦る音だけが響いている。
そこに時折、窓の外から遠く運動部の掛け声が混じった。
グラウンドから届くその声は、律にとってただの雑音だったが、夢にとってはどこか胸を高鳴らせる響きのように思えた。
「律くんって、昔から肌が白いね。窓からの光がよく分かる」
夢はふわりとした声で呟く。
独り言のようでいて、ちゃんと律に届くような声音。
「骨格が整ってるから、描きやすいなぁ。あ、メガネ外してみて?」
「……分かりました」
律は眉をわずかに上げながらも、指先でメガネを外す。
レンズ越しではなく、裸眼の視線が夢に向けられた。
「長いまつ毛に、大きな瞳」
夢は一瞬だけ手を止め、じっと彼を見つめる。そして慌てたようにまた鉛筆を走らせた。
「やっぱり、そのままの律くんの方が、ずっときれい」
律は答えず、ただ静かに姿勢を保った。冷静を装っていたが、胸の奥がわずかに揺れる。
彼女に褒められたことが嬉しいのか、それとも。
──夢のことを思い出すと、どうしても胸がざわつく。
小さい頃から、夢はいつも絵を描いていた。
花の絵、動物の絵、空想の中の絵。描き上げるたびに、
「見て、律くん!」と笑顔で差し出してきた。
人と関わるのが苦手だった自分に、ためらいもなく声をかけてくれたのは、夢が初めてだった。
勉強ばかりしてきた自分にとって、彼女の世界の色は、眩しい光のようだった。
「律くん、もう少し顔をこちらに向けてくれる?」
「……こうですか?」
「うん、完璧」
笑みを浮かべる夢。
風に揺れる髪は深い茶色。光を含むたび、やさしい輝きが走った。昔は短かった髪も、周りを意識したのか、伸ばし始めて。
彼女はいつの間にか手の届かない場所へ行ってしまうのではないか。そんな不安が胸をよぎる。
律はふと、視線を机に移した。そこに積まれた画集の背表紙が目に入る。
『Cy Twombly』
『Paul Klee』
『Wassily Kandinsky』
どれも抽象絵画の巨匠たち。律の眉がわずかに動く。
──夢は、こんな絵に興味を持つ子じゃなかった。
彼女が好きだったのは、ミュシャやクリムト。分かりやすく可憐で、華やかな美。どんな女の子でも憧れるような、装飾的で優美な世界。
それなのに、どうして。
どうして急に、難解で、解釈の揺らぐ抽象画を……。
「……その本、最近買ったのですか?」
思わず律は問いかけていた。
夢は一瞬手を止め、少しだけ照れたように笑った。
「うん。抽象画ってよくわからなかったけど、なんかね…言葉を超えて直接、心に感情が広がるの……」
「こんな落書きみたいな絵が?」
「『untitled』それに、惹かれたの」
「無題……画家は、どういうつもりで」
「ふふふ。まだ分からないけど、出会ってから、気になってしょうがないの。私には描けないから」
夢がふんわりと微笑み、目を細めて、頬を染める。律の胸の奥で、何かが軋んだ。
夢の瞳が、鉛筆を握るその手が、少し遠くを見ている。
まるで、窓の外の眩しい世界へ、心が引き寄せられているかのように。
ちょうどその時、また大きな掛け声が風に乗って響く。
陽射しの下で誰かが走り、笑い、声を張り上げている。
美術室の静けさの中で、その声はやけに鮮やかだった。
律は気づいてしまった。
夢の心が、今、自分ではない「何か」に触れ、動かされていることに。
しばし無言のまま、律はモデルの姿勢を正した。
夢の視線はもう自分を見ていない。それでもいい。彼女が望むなら。
「……集中してください。今までで一番、僕を描く時の視線が乱れてます」
律は淡々と告げた。
その声の裏に潜む痛みを、夢は気づかない。
夢は「ああ、ごめんね」と笑って、再び鉛筆を走らせる。紙の上で形作られていくのは、律の輪郭。けれど、夢の心に浮かんでいるのは、きっと別の光景。
窓から射す夕日が、彼女の横顔を照らした。その姿は、いつか蝶のように遠くへ飛び立ってしまうのだろう。
律はただ、静かに目を閉じ、ひとつ深く息をついた。
──たとえ、その瞳に映るのが僕でなくても。
僕はずっと、彼女を見守り続ける。
美術室の静けさの中で、夢の鉛筆の音だけが響き続けていた。