2-14 西館20F:客室フロア
断末魔が聴こえたのは西の方角からだ。俺と庭鳥島との間に、凄まじい緊張感が走る。後に知ることになるのだが、この時点で予選Aブロックはまだ序盤戦にして、既に生存者数千人を切っていた。
「――なんね!?」
「――この階だ!」
引き寄せられるように、踊り場の扉――そのドアノブを捻り、本館二十階、客室フロアへと足を踏み入れる。目に映る光景――回廊の両端には客室の扉が奥に延びる形で並んでいた。その回廊には、何かを引き摺ったような乾いた血の跡が、無数に遺されている。
「なんだ……?この血痕……」
人の気配はない。ただただ、回廊に敷かれたアブストラクト・パターン――抽象柄のカーペットが、血で真っ赤に染まっているだけだった。その血痕は、回廊をぐるりと一周する形で続いている。明らかに、この場で倒されたのは、一人や二人という次元ではないことは明らかだった。
――この予選Aブロックの会場となる五ツ星ホテル、〈竜宮楼〉。俺たちがいる五十階建ての本館の東西南北方向に、三十階建ての東館、西館、南館、北館が本館を囲うように聳え立っている。そして、本館の五の倍数の階層には、東館、西館、南館、北館へアクセスするための四つの連絡通路が存在する。
誰もいない回廊を、周囲を警戒しながら進み、西館へと続く連絡通路へと至る。ガラス張りで開放感のある連絡通路にも、至るところに血痕が遺っていた。まるで何かに引き摺られたかのような血痕が。その血はまだ新しく、先程の断末魔がこの場所から聴こえたものだと断定するには十分だった。
「――まさか……!庭鳥島!背中に乗せてくれ!」
「せつな、歩くの疲れたと?」
「バカ!地に足着けてたら死ぬんだよ!早く!」
「わ、わかったばい!」
素足を鉤爪を持つ猛禽類のような脚に変貌させ、赤い翼を広げた庭鳥島の背中に飛び乗る。天井ギリギリの高さまで飛び上がる庭鳥島。高度を維持したまま、血に濡れた本館二十階、客室フロアの回廊を翔ける。
「せつな、何かわかったと?」
「おい庭鳥島……なんで去年のファイナリストのお前がわかってねーんだ……」
北館、東館、南館へとそれぞれ続く連絡通路も同様だった。血痕が飛び散り、何かに引き摺られた――否、何かに「轢き殺された」かのような血痕が遺っていた。再び、西館へと続く連絡通路に急ぐ。天井スレスレの位置を飛ぶ庭鳥島――その背中の上で、俺は独り言のように呟いた。
「こんなことができる異能は……やはり……」
「――アイツしかおらんばい」
庭鳥島も確信に至ったようだ。
――昨年の〈極皇杯〉のファイナリスト――世界十五位の女、「黄金郷の鬼神」――馬絹百馬身差。「下半身を馬の肢体へと変貌させる異能」――端的に言えば「ケンタウロス化する異能」――偉人級異能、〈覇駆〉を持つ女。
「馬絹百馬身差……!」
「……アイツ……何人殺ったとね……!?」
――馬絹の本業は占星術師だが、彼女はその異能で、凄まじい速さで戦場を駆ける、砂漠と鉱石の国・〈黄金郷エルドラド〉出身の戦闘民族でもある。
「庭鳥島……!馬絹はヤバい……!潰すぞ、このまま西館へ!」
「せつな!やばかなら行くべきじゃなか!言ってることおかしかばい!」
「慎重に行くとは言ったが逃げ回って勝つなんて言ってねえよ……!」
「…………っ!」
覚悟を決めた様子の庭鳥島は急加速し、西館へと続く連絡通路を突っ切る。その背に乗ったまま、目線を眼前の西館へと向ける。振り落とされないよう、がっしりと庭鳥島のキャミソールを掴みながら。
そして、ゆっくりとスピードを落とす。西館も、想像していた通りの光景だった。西館二十階、客室フロア。その回廊もやはり、何かに「轢き殺された」かのような血痕が各所に遺されている。
「せつな、馬絹と戦うにしても……これじゃどこにおるかわからんばい!」
「恐らく……馬絹はこの〈竜宮楼〉の本館、東館、西館、南館、北館の全ての客室フロアの回廊を周回してるんだ。競走馬並み――いや、それを遥かに凌ぐスピードで……」
――馬絹の策はブッ飛んでいたが、明確だった。連絡通路を経由すれば屋内全てを超スピードで周回できる。そうして、馬絹はこの五ツ星ホテル、〈竜宮楼〉全体に罠を張っている。一歩、客室フロアの廊下――回廊に足を踏み入れれば瞬時に馬絹に轢き殺される。正に人間屠殺場。まるで乗用車が時速百二十キロメートルで往来する高速道路に、人が飛び出すようなものだ。
「それならなおさら馬絹がおる場所が特定できんばい!」
――飛行できる庭鳥島はイレギュラー。通常の出場者は当然、この予選Aブロックの会場である〈竜宮楼〉内を徒歩移動することになる。偉人級異能、〈覇駆〉を持つ馬絹だからこそ作り得た、絶対不可避の罠だ。
「いや、逆だ。周回しているということは、裏を返せば、確実に全ての回廊、連絡通路を通過する。……よし、庭鳥島。ここで下ろしてくれ」
「せつな!危なかばい!」
――馬絹のその驚異的な速度は、凡そ常人が肉眼で追える次元を超越している。その動きを止めるには、体を張るしかない。
「馬絹を止めなきゃ同じ舞台にも上がれねえ、大丈夫だ。負けるつもりもない」
「……わかったばい」
庭鳥島は諦めたように、少し高度を落とす。俺は庭鳥島の背から、回廊の曲がり角へと飛び降りた。そして、頭上の庭鳥島に告げる。
「庭鳥島はそのまま飛んでろ」
「せつな!別にあたしが援護して一対二で戦っても誰も責めんばい!」
「天音や陽奈子、拓生も観てるんだ。仲間に恥じる戦いはしない」
――いや、今俺を画面越しに観ているのは天音や陽奈子、拓生だけじゃない。今この瞬間も新世界中に「観られている」。一切気を抜くな。一瞬の油断が敗退に繋がる。
「でも……!」
――ファーストペンギンという言葉がある。集団行動をするペンギンの群れの中から、天敵が潜む海へ、餌である魚を求めて最初に海に飛び込む一羽のペンギンを指す言葉だ。転じて、その意味は「勇敢なペンギン」。
「庭鳥島には悪いけどな。馬絹を討てるのは……『ファーストペンギン』だけだ」
「…………っ!」
頭上の庭鳥島は何かを言い掛けて、口を噤んだ。俺の意志を飲んでくれたようだ。俺の眼前に延びた高級感のある廊下――その遥か先、曲がり角には三人の男女の姿があった。
十代後半だろうか。若い二人の男と一人の女が、背中合わせで周囲を警戒していた。耳を澄ますと、静寂の中に彼らの、自身を奮い立たせる鼓舞の言葉が聞こえてくる。
「――馬絹を倒せば本戦進出は確実よ!」
「ああ!クラン・〈一揆軍〉!!この中の誰かがファイナリストになって故郷に恩返ししてやろうぜ!」
「大丈夫!俺たち幼馴染の絆はこんなとこで途切れない!」
よく目を凝らせば、彼らの身体は恐怖で震えていた。その言葉は、自分たちを誤魔化すような、か細い、か細い鼓舞だった。
――そのときだった。遥か奥に見えるその三人が突然、爆ぜた。まるで超高速で移動する新幹線に轢き殺されたかの如く。彼らはあまりにも無力で、弾け飛んだ血肉は瞬く間に消滅した。〈犠牲ノ心臓〉の発動――〈極皇杯〉における敗退を意味する。
「――せつな!馬絹が来るばい!」
「わかってる……!」
『掟:攻撃を受けることを禁ず。
破れば、その攻撃を相対する者へと千倍の威力で反射する。』
見えない脅威が迫る。だが、薄らと見えたその迫り来る人影を対象に掟を定めた。びゅうびゅうと風を切る音だけが回廊に響く。冷や汗が額を伝う。
――直後。突然、全身に凄まじい衝撃が走った。まるでトラックに正面からぶつかったかのような、凄まじい衝撃。そのまま俺の身体は後方に摺り下がる。不思議と痛みはない。――〈天衡〉を使っていなければ、間違いなく死んでいた。
思わず反射的に閉じてしまった目を見開くと、眼前には、下半身が馬の肢体となった長身の女が立っていた。焦げ茶色の毛並みが生え揃った、逞しい馬の背中だった。女は毅然とした態度でこちらを見下ろしている。
「吾輩を止めるか、夏瀬の。そこそこやりおるの……」
――罰は……罰はどうなった……!?
「夏瀬の……汝が驚いている理由は……汝が吾輩に放った攻撃のことか?」
「――っ!化物かよ……!馬絹百馬身差……!」
――千倍の威力で跳ね返った自身の攻撃を……無効化したのか……!この女は……!
――「千倍反射状態」の罰。〈十天〉の第五席、大和國綜征――師匠との修行でも試した罰だ。だが全く通じなかった。道理はシンプルで、千倍の威力で自身の攻撃が跳ね返ってこようが、防御するなり回避するなり受け流すなりしてしまえば良い。口で言うのは簡単だが、そもそも攻撃が反射することは想定できない。だが〈十天〉はそれを容易に熟してしまう。これが、今の俺が絶対に〈十天〉に勝てない理由だ。
「そうじゃ。吾輩が馬絹百馬身差である」
馬絹百馬身差――その姿を形容するならば、ギリシャ神話に登場する半人半獣の種族――ケンタウロス。下半身は焦げ茶色の毛並みが生え揃った、立派で逞しい馬。
「そうか。会いたかったよ……」
褐色の肌の上半身は、ファーショール――毛皮の白い肩掛けのようなものを羽織っており、大きな胸を押し潰すようにサラシを巻いている程度。他に衣服は何も身に着けていない。両の手首には白いファーカフスを着けており、髪型は黒髪のポニーテール。凛とした表情のその女は、威圧的に告げた。
「さて、死ぬ前に遺す言葉はあるか?夏瀬の」
「お前の親は、同世代の他の子に大差をつけてゴールできますようにって願いを込めて名付けたのか?」
「名前如き記号に過ぎん。安い挑発は吾輩には通じんよ、夏瀬の」
――この程度の挑発には乗ってこないか。
馬絹は凛とした表情で告げる。その表情から一切の感情の機微は読み取れない。雷霧とも違う、強者の風格を漂わせていた。
「始めようかの、夏瀬の。吾輩と汝の異能戦を」
――コイツを倒さなければ……俺はファイナリストにはなれない。
「闘ろうか、馬絹。屠殺場送りにしてやる」
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