1-EX1 ペスト医師の第一夜
――その部屋には誰もいない。ブラウン管のテレビに、鳥の嘴のような白いペストマスクを着けた男が映っている。鍔広の黒い帽子、ワックス加工された漆黒のコート、革製の黒い手袋にブーツ、黒のマント――徹底的に露出を避けた格好で、堂々と椅子に座る男。
彼は足を広げ、膝の上で手を組むような形で座っている。椅子に座るペスト医師は、こちらを真っ直ぐと見て告げる。まるで我々に語り掛けるように。
「……御機嫌よう」
ペスト医師の声音は、モザイクが掛かったか、ボイスチェンジャーを使ったかのような声で、体格から何とか男と判別できる程度だ。
「ああ、そんなに穿った見方をしないでくれたまえ。僕はただの新世界の観測者さ」
ペスト医師は一呼吸置いて、再び口を開いた。しかし、ペストマスクに阻まれ、その表情筋の動きを読み取ることはできない。
「少し興味深い話をしよう」
ブラウン管のテレビに映るペスト医師。ザーッというザッピングのような音と共に、映像が少し乱れる。
「鳥は一羽、二羽と数える。牛は一頭、二頭と数える。魚は一尾、二尾と数える。人は一名、二名と数える。モノによって数え方が異なるというのは日本語の特徴の一つだが……これはどうしてなのだろうね?」
ペスト医師は酷く落ち着いた様子で淡々と言葉を継ぐ。
「こんな話がある。動物は死んだ後に何を残すか……即ち、どの部位を食べ残すかによって数え方が決まるという説だ」
誰もいない部屋に、ペスト医師の言葉だけが静かに響く。
「鳥を食べるなら羽が残る。牛を食べるなら頭が残る。魚を食べるなら尾鰭が残る。では人はどうなんだろう?」
新世界の観測者を名乗るペスト医師。彼は何処か暗い部屋にいるようだ。
「人は一名、二名と数える。それは、人が死んだら名前を残すからだ」
淡々と言葉を継ぐ彼の顔は見えない。椅子と彼だけが映るその映像は、時々ザーッと乱れる。誰もいない仄暗い部屋で、ブラウン管のテレビはその映像だけを映していた。
「人は死後に名を残す――興味深い話だが果たして本当にそうだろうか?」
ペスト医師の言葉を皮切りに、少しだけ、空気が張り詰める。
「縄文時代にマンモスに殺されたあの男は?戦国時代の戦で真っ先に散ったあの男は?江戸時代に茶屋の看板娘をしていたあの女は?……誰も名を覚えていないだろう」
不気味さを放つそのペストマスク――取り付けられたガラスのゴーグルが光を反射する。
「――全ては虚構だよ」
映像が、プツンと切れる。ザーッという音と共に、白と黒が交錯する砂嵐だけが画面の中を舞っていた。
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