1-45 日向家の一幕
「陽奈子ー!学校に遅刻するわよー!」
「う~ん、あと五分~」
――二〇八八年四月二十八日、〈日出国ジパング〉の某病院。快晴の空の下、日向陽奈子はこの世に生まれ落ちた。母は普通の専業主婦、父は普通の会社員。私は貧乏でも裕福でもない中流家庭の一人っ子として生を受けた。
「おはようママ……あれ?お父さんは?」
「おはよう陽奈子。お父さんならもう仕事に行ったわよ」
まだ眠い目を擦ってリビングに出ると、いつもの光景が私の視界に飛び込んでくる。いつものように母に急かされながら私は味噌汁とご飯を平らげ、登校の準備を済ませると、玄関へ向かった。いつもの朝の光景が、日向家の日常を形作っている。
「ほら陽奈子、早くしないと遅刻するわよ」
「わかってるってママ。行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
会社員の父が三十五年のローンで購入した都内の一軒家。優しい両親の愛を受けて私はすくすくと育っていった。特別目立つ子ではなく、どちらかと言うと、自分の意見を積極的に言えないような暗い子だった。
伸ばした綺麗な黒髪がちょっとした自慢……そんな普通の、何処にでもいるような女の子だった。だが仲の良い家庭で、私は私なりに幸せに育った。両親の愛情に包まれた日々は、私にとってかけがえのないものだった。
――その日の夕方。私は、尻尾を振りながら呼吸する愛犬のタロと戯れながら、家族で夕食後の団欒の時間を過ごしていた。柔らかな夕暮れの光が、その穏やかな時間を優しく照らしている。
「へへっ、タロ。今日も元気だね」
「クゥーン」
「……ねーママ、パパ。私いつ異能授かるのかな」
「そうねえ、いつかわからないけどきっとすぐ顕現するわ」
「そうだぞ。二十歳までにはみんなどうせ顕現するんだから」
夕食の食器を洗いながら答える母に、テレビを観ていた父が同調する。二人のその声には、娘を気遣う優しさが込められている。
「そうだよね……でも早く異能が欲しいなあ」
「陽奈子のペースでいいのよ。焦らないで」
私の指をペロペロと舐めるタロ。その頭を優しく撫でると、温かな毛並みの感触が心を和ませる。
――私の唯一の不安は異能が顕現しないことであった。現代の人間には一人につき一つ、大なり小なり何らかの異能が顕現する。早い人間だと十歳で、遅くとも大抵の場合は十六歳頃には異能が顕現する。
――しかし、私は十七歳、高校二年生になっても未だ異能が顕現しなかった。周囲の友達が異能を使いこなす中、私だけは焦りを覚えていた。その漠然とした焦りが、日に日に大きくなっていくのを実感していた。
「陽奈子、ところで進路はどうするの?進路調査、明日までなんでしょ?」
机に置かれた進路希望調査票を眺める私を見て母が尋ねる。
「はぁ、これも異能次第でもあるんだけどなぁ」
――一昔前は進学か就職かの二択だったと聞くが、今もそれは変わらない。しかし、それは飽くまで下級異能や中級異能の人間は、だ。上級異能以上であれば異能戦によって異能犯罪への抑制に貢献しやすいし、異能戦の戦績に応じて世界六国から受け取った報酬で生計を立てることもできる。
――尤も、上級異能のような上位異能が顕現する者は才覚も優れる者ばかりであるため、異能戦に頼らずとも収入を得ることは難しくない。だが、基本的にはこの異能至上主義の新世界では、どうしても顕現した異能に依存する部分が大きい。異能が顕現しなければ将来の選択肢は限られてしまう。
「陽奈子のやりたいことをやればいいんじゃない?」
「やりたいこと……かぁ」
机に肘を立て、溜息を吐く。私は普通の高校生らしく、まだやりたいことも見つかっていなかった。テキトーに大学に行ってやりたいことを見つけるか、就職するか、異能次第では異能戦をするか……。何れも決定打に欠け、何れにも決め切ることはできなかった。
――翌日、学校。
「――おはよ!ひなこっち」
机に座った私の視界に、二つの太陽の形の髪飾りと金色の髪が映る。
「舞白、おはよ」
この朝からハイテンションの、金髪ツインテールの女の子は青砥舞白。小学校から高校まで、私とずっと一緒にいる親友であり、明るく、笑ったときの八重歯が可愛らしい女の子だ。特別目立たない私と違って、常にクラスの中心にいる人気者だ。
「ひなこっちー!進路希望調査票って明日までっしょ?どうするの?」
「うーん、まだ決め兼ねてて……。舞白は?」
舞白の疑問に、私は荷物を床に置きながら曖昧な回答を返す。教室の中は、やはりと言うべきか、進路の話題で持ちきりだった。
「アタシは就職かなー!異能も下級でガン萎えだし大学行くお金ねーしでマジウケる」
「そっかぁ……私も就職しよっかな」
未だ異能が顕現しない私にとって、いずれ顕現する異能を夢見て就職しない、というギャンブル的選択肢は取れるはずもない。クラスメイトたちが次々と異能を顕現させる中、その選択肢すら持てない自分に、何処か引け目を感じていた。
「え、ひなこっち就職するの!?」
「うん、そうしよっかな」
「じゃあさ!就職先同じになるようがんばろ!」
「うん!ありがと、舞白」
「いぇあ!」
舞白は嬉しそうに八重歯を覗かせて笑った。こうして私は親友と同じ道に進むことにした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――一年後。私は高校卒業と同時に、親友の舞白と同じ都内の食品会社に事務として入社した。社内の休憩室にて親友の舞白と昼食を取る。蛍光灯の下で、二人の会話が弾む。
「あ、ひなこっちもお弁当作った系?」
「うん、こっちの方がコスパいいかなって」
「おかず交換しよーよ!私の唐揚げあげる~!」
「ありがと舞白。じゃあエビフライあげるね」
賑やかな休憩室。入社したばかりで仕事は慣れないが、こうして親友とまた一緒に居られるというのは悪くないかもしれないと私は考えていた。窓から差し込む日差しが、その穏やかな時間を照らしている。
そしてこの一年、結局私に異能が顕現することはなかった。そのことに私は変わらず劣等感を抱えていた。もし私だけ二十歳になっても異能が顕現しなかったら……。心の片隅では常にその不安を抱えていた。
「それにしてもひなこっちと違う部署になっちゃうとはねー」
「一緒が良かったよね~。ほんとに忙しすぎ」
「それな~!てか研修雑すぎじゃね?上司も全員きしょいし!マジ休みたい!」
私は一般事務、舞白は受付事務になり、お互いに忙しない日々を過ごしていた。それでも、こうして昼休みに会えることが、何よりの癒しとなっていた。
「へへ、そうだね。早くゴールデンウィーク来てほしいよね~」
「それな!あ、てかひなこっち!ゴールデンウィークさ、アタシら二人で旅行行くのありじゃね?」
舞白の突然の提案に目を丸くするが、いつものことだ。舞白は多少強引な面もあるが、主体性がない私をいつも引っ張ってくれる。
「ありかも。じゃあ週末ウチで計画立てようよ」
「え、やった!ひなこっちママのご飯よき?」
「もー舞白、仕方ないな~。ママにお願いしとくね」
「ひなこっちありがと!あ、そろそろ昼休憩終わっちゃう!」
休憩室のデジタル時計が表示した時刻は十二時五十七分。そろそろ午後の仕事の時間だ。
「あ、そうだね。じゃあ、舞白またね」
「いぇあ!」
急いで空になった弁当箱を巾着で包み、電子ロッカーに戻す。早足でオフィスルームへ向かい、入口に社員証を翳す。
自分の座席へと急ぐと、職場のお局――木村が腕組みをして私の席に設置された業務用の映像投影型PCの傍で、明らかに不機嫌そうに立っていた。その姿に、思わず足が竦む。
「あ、木村さん……すみません。今戻りました」
「あのさ~日向さん、遅いんだけど。言ったよね?十三時ちょうどには座席に座って業務を始めるようにって」
木村は明らかに苛苛した様子で爪先をトントンと鳴らす。私はその言葉を受け視線の端でPCの時刻表示を捉える。時刻は十二時五十九分からちょうど、十三時に切り替わったところだった。
――時間ピッタリ。休憩を多く取ったわけでもないんだけどな。
その横で次々と休憩から戻ってくる他の同僚たち。木村は彼らを気にも留めない様子で私を睨み付けていた。
「……すみません。次から気を付けます」
萎縮して頭を下げる。私の直属の上司に当たる木村は、新人イビリで有名な四十歳ほどの女性である。彼女は新人の私に対して常に高圧的だった。私は理不尽なこの人が苦手だった。しかし入社したばかりで楯突く訳にもいかない――そう考え、やり過ごすしかなかった。
「あと日向さん、この資料間違ってるんだけど。ちゃんとチェックしたの?」
木村は資料を勢い良く私の机に叩き付ける。木村は要するに、単に私をストレス発散の捌け口にしているのだ。これも日常茶飯事――いつものことだ。
「すみません……チェックはしたんですけど……」
「はあ、ホント使えないわね」
「……すみません。確認してすぐ修正します」
「はあ……」
周囲の社員も強く言えないのか、皆が見てみぬフリをしている状況。私は、私にはこの仕事は向いていないのかもと思い始めていた。
しかし、舞白と同じ会社になんとか内定を得ることができたこと、日も浅いため転職も難しく、異能も顕現しておらず一般職以外の当てもなかったことから、会社を辞めることは選択肢になかった。これくらいのことはみんな乗り越えている――そう思い込んで耐えるしかなかった。
「日向さ~ん、お茶貰っていい?」
「あ、はい!すぐに!」
男性の上司の指示で、私は給湯室に向かった。給湯室に入ろうとすると中から話し声が聞こえた。悪意に満ちた声が、壁越しに漏れてくる。
「はあ、日向さんホント使えない。なんで人事はあんな子採用したのかしら」
「新人の子でしたっけ?正直顔だけって感じですよねー、暗くて地味だし」
「面接で身体でも売ったんじゃないですか?なんて」
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!それ最高!」
――また木村さん。それとその取り巻き。これも日常茶飯事だ。なんだか嫌になっちゃうな。
些細な抵抗――気にしていないというアピールのつもりで給湯室に黙って足を踏み入れる。その一歩が、何処か虚しく感じられる。
「…………」
「あ、日向さん……」
「何?日向さん、何か文句あるの?」
「いえ……」
「いや暗すぎでしょ。行きましょ」
面白くなさそうに去っていく木村と取り巻きたち。何度強く当たられてもこの感覚は未だに慣れない。しかし、舞白や両親に心配をかけるわけにもいかない。耐えれば済む話だと私は思い込み、それ以上は考えないようにしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――そして迎えた週末。今日は待ちに待った、舞白とゴールデンウィークの旅行の計画をウチで練る予定の日だ。舞白が来るのを今か今かとリビングで待つ。
ピンポーン!
リビングに響き渡るインターホンの音。
――舞白だ―――。
階段を駆け下り玄関の扉を開ける。待ち侘びた親友の姿が、そこにはあった。親友は八重歯を可愛らしく覗かせて笑った。
「ひなこっち!お邪魔するね!」
「舞白!入って入って!」
リビングから愛犬のタロが駆け寄ってくる。嬉しそうに尻尾を振る姿に心が和む。
「ワン!ワン!」
「タロ~!久しぶり~!」
舞白はタロを撫でた後、タロと頬擦りをした。タロは舞白のことも気に入っているようだ。その光景が、穏やかな幸せを感じさせる。
「あらタロ、舞白ちゃんが来てくれたからって燥いじゃって。舞白ちゃん、いらっしゃい」
続けてリビングから現れた母が、舞白に歓迎の言葉を投げ掛ける。母の声には、いつもの優しさが溢れている。
「ひなこっちママ!ご無沙汰です!」
敬礼のポーズを取って挨拶を返す舞白。その様に思わず苦笑が漏れる。
「舞白ちゃん、ハンバーグ作ってるから楽しみにしててね!」
「わあ!ありがとうございます!」
「ほらあなた、舞白ちゃんが来られたわよ」
母がリビングの父に声を掛ける。直後、父もリビングから顔を出す。
「おー舞白ちゃん!久しぶりだね。陽奈子が会社でもお世話になってるそうで」
「いえいえ!とんでもないです!すみません、お休みの日にお邪魔しちゃって……」
「いやいや、舞白ちゃんなら大歓迎だよ。寛いでいきなさいね」
「ありがとうございます!」
――普段は能天気で明るい舞白……フランクながら礼節をしっかりと弁えている。私が舞白を好きな理由の一つだ。その明るい人柄に、私の家族も心を開いている。
「舞白、部屋行こっ」
「おけ!」
階段を上ろうとしたところで母から肩を叩かれる。振り向くと、白い箱を渡しながら母が優しく告げた。
「さっき買っておいたケーキよ、舞白ちゃんと食べなさい」
「あっママ、ありがとう」
「ひなこっちママ、ありがとうございます!」
「いいのよ舞白ちゃん。後でご飯できたら呼ぶからね」
「はーい!」
ドタドタと階段を駆け上り、私の部屋の扉を開ける。高校生までは毎週のようにウチか舞白の家で舞白と遊んでいたが、社会人になって忙しくなってからは久々の時間だ。胸が踊ってしまう。少し懐かしい感覚が、心を温かく包む。
部屋に入るやいなや、白い箱を床に置き、二人はベッドに腰掛けた。舞白は徐に女の子らしい小さな鞄から幾つかの雑誌を取り出し、ベッドシーツの上に雑多に並べた。市販の旅行情報誌だ。
「えっ舞白、買ってきてくれたの?」
「へっへっへ!こういうのはアナログに限るからね!」
「ふふ、ありがと舞白」
「いぇあ!」
各々かその雑誌を手に取り、旅行の行き先を検討する。ページを漁る。ページを捲る度に様々な観光地の写真が眼前に飛び込んでくる。
「〈桜和門エリア〉の街並みを観光するのもありよりのありだし……〈常夏諸島ニライカナイ〉の〈渚岐南エリア〉も気になるかも!」
「〈渚岐南エリア〉って去年の〈極皇杯〉の予選Aブロックの会場だよね?」
「いぇあ!めっちゃ綺麗だったくない?」
「確かにいいかもね」
そのとき、階下からインターホンの音が聞こえた。来客だろうか。
「およ?お客さんかな?それでそれで、ひなこっちは気になるとこある?」
「うーん、一箇所に絞るの難しいけど……〈淡墨エリア〉とか気になるかも」
「うわー!それもあり!」
「でも舞白が言ってくれたところも気になるなあ。〈桜和門エリア〉も〈常夏諸島ニライカナイ〉も行ったことないし」
「それな!悩むー」
「え、決めるの難しくない?」
「それ!マジムズい!あ、折角だし陽奈子ママにいただいたケーキ、食べちゃわない?」
旅行情報誌と睨めっこをしていた舞白がケーキの入った白い箱に目線を落とす。その仕草には、いつもの無邪気さが溢れている。
「そうしよっか。あ、小皿とフォーク貰うの忘れてた……」
「じゃあアタシ、ひなこっちママに貰ってくる!」
「え、いいよ舞白!私行くから」
「もう、そう言ってタロの頭撫でたいだけでしょー?」
「あちゃ、バレた?まあ、ひなこっちは雑誌見ててちょ!」
「わかったー」
舞白はそう言うと扉を開けて部屋を飛び出した。ドタドタと階段を降りる音が聞こえた後、突如として部屋に静寂が訪れる。
再び旅行情報誌のページを眺める。しかし、何処か落ち着かない空気が、部屋を満たし始める。
――そして十分後。遅い。あまりにも遅い。舞白が戻って来ない。
――両親共に在宅しているはずだから聞けばフォークや小皿の位置はすぐにわかるはずだ。タロと遊んでいる――にしては静かすぎる。
「もー舞白、何してんだろ」
ベッドから立ち上がり、部屋の扉を開ける。
――すると、酷く不快な空気が家の中に充満しているのがわかった。加えてあまりに静かすぎる。鼻を突いたのは――血の匂いだった。
「えっ……」
何か嫌の予感を感じ取った私は、恐る恐る階下へ下りる階段に足を踏み入れる。足音が、異様なほどに大きく響く。
ギィ、ギィ。
階段を一段、また一段と下りる度に、心臓の鼓動が徐々に激しくなっていく。一段、また一段と下りて、やっとの思いで踊り場に辿り着く。踊り場から更に続く階段を下りるために、身体を右に捻って足の向きを変える。
――そのとき、私が目にしたのは信じ難い光景だった。
――私が目にしたのは――、赤い血飛沫で染まった階段と、廊下の至るところに散らばったモノ――それは人の……腕と脚であった。
――心臓の鼓動が、空間を裂く。
真っ赤な血で染まった玄関に並べられた靴。その靴の傍で、虚ろな目をした舞白の生首が、黄色い瞳でこちらを見て微笑んでいた。
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