1-33 バッドスメルが踊る雨
御宅拓生の言葉に、糸目のチャイナドレスの女――李蓬莱はゆっくりと振り返った。
「まだ……やるアルカ?」
その言葉に対し、小生もゆっくりと身体を起こす。痛みで全身が悲鳴を上げるが、構っていられる余裕はない。
「これじゃあ仲間に顔向けできませんからな!」
「結構しぶといアルネ。ならば――」
いつの間にか、脚の震えは止まっていた。もう、怖くない。再び、李蓬莱は片脚立ちで両手を開き、構えを執った。
――上級異能、〈香薫〉。百キロメートル先の線香の香りすら探り当てるほどの、鋭敏で特異な嗅覚を得る異能。勝つ方法は……。
「――死ぬアル」
突然、空を切って眼前に李蓬莱が迫り、拳を振りかぶる。小生は虚空から、充電式のコードレス高圧洗浄機を取り出した。そして、李蓬莱の整った顔面を目掛け、中の水を勢い良く噴射する。
――すると、李蓬莱の顔が、苦痛に歪む。李はその場に蹲るようにして、鼻を摘んだ。
「――くせぇアル!」
鼻を突くような、途轍もない悪臭が室内を満たしている。高圧洗浄機から噴射された水は――ただの水ではなかった。
「おえっ……何を……したアルカ……?」
嗚咽混じりに李が言葉にした疑問。小生は、それに応じることなく続け様に、李の顔面を目掛けて高圧洗浄機から噴射を続ける。淀んだ色の液体に、李蓬莱のチャイナドレスが濡れる。李蓬莱の全身が、強烈な悪臭に包まれてゆく。
「――くっさ……!くせぇアル!鼻が曲がるアル!」
「『シュールストレミング』はご存知ですかな?」
「おえっ……!しゅーる……すとれみんぐ……アルカ?」
「世界一臭い食べ物と言われる、塩水漬けのニシンの缶詰ですぞ!」
「豚サン……!まさか……!」
――そう。この高圧洗浄機にぶち込んだ液体は、シュールストレミングの汁ですぞ。
「ご名答!名付けて、必殺!『シュールストレミングジェット噴射』ですな!」
そう言い放つと同時に、高圧洗浄機を虚空に戻し、次に大きなトランポリンを取り出した。ドスン、と音を立てて床に置かれるトランポリン。
「――ああっ!くせぇアル!」
「至って普通の嗅覚の小生ですら気を失うほど臭いですからな……。鼻が利く李女史には効果抜群ですな……!」
「――やめるアル!ワタシが悪かったアル!負けたら殺されるアル!」
未だ鼻を摘んだまま、身動きが取れない様子の李蓬莱。〈香薫〉の異能を持つ李には効果は覿面だ。
「油断して異能をバラしたことが貴殿の敗因でしたな……!」
小生は透かさず、床に設置されたトランポリンに飛び乗った。天井に届くほどの高さまで、飛び上がる。散乱する全自動麻雀卓、床に捨てられたスパイクシールドやマジックハンド、淀んだ色の液体で濡れた床に、蹲る赤いチャイナドレスの糸目の女――そこからの景色は、その戦闘の経過全てを物語っていた。
――それと同時に、御宅拓生の勝利すらも。
「勝負ありましたな!」
急降下――。臀部――尻持ちを着くような体勢で、李蓬莱の頭上に急速に落下する。
「――死ぬのは嫌アル!死ぬのは嫌アル!」
糸目の女―――小生を見上げる彼女は、敗北を確信していた。ただただ、意味のない命乞いが室内に響いた。直後――。
――ドスーン!――地響きにも近い、衝撃音。背中から小生の臀部の下敷きとなった李蓬莱。小生がゆっくりとその場に立ち上がると、李蓬莱は気絶していた。
「フフン!小生のお尻は鉄のように硬いですぞ!」
身を任せるようにして、床に座り込む。悪臭で満たされたその空間の中、安堵の溜息を吐く。そして、その喜びを噛み締めるようにガッツポーズ。
「――やりましたぞ!小生が……〈竜ヶ崎組〉の幹部を討ち取りましたぞ!」
こうして、〈神威結社〉・御宅拓生と〈竜ヶ崎組〉・幹部――李蓬莱の異能戦は、御宅拓生の逆転勝利にて幕を閉じた。
床に散らばったスパイクシールド、マジックハンド、トランポリンを片付けに取り掛かる。――と言っても虚空に戻すだけなのだが。満身創痍の身体に鞭を打つ。
「この身体では……雪渚氏の援護に行っても足手纏いですな……」
上階――二階の物音は激しさを増す。雪渚氏と〈竜ヶ崎組〉・組長――竜ヶ崎龍の戦闘が激化していることは明らかだった。
「この調子だと……建物が倒壊するかもしれませんな……」
ふと、気絶した李蓬莱に目を向ける。びしょ濡れのその女を背負い、扉から外へと出る。降り頻る雨の中、ロータリーの外周に構えるプレハブ住宅の壁を背に、座り込んだ。
空を覆う暗雲は黒さを増し、それは不吉の予感のように小生に忍び寄る。
「……雪渚氏や天ヶ羽女史は大丈夫ですかな」
――いや、お二人はばあちゃんの恩師。小生よりもずっと優秀な方々……負けるわけがありませんな。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――一方、天ヶ羽天音サイド。〈神屋川エリア〉、プレハブ街を囲う城壁付近、その車道上。
「――どこまで逃げるおつもりなんですかねェ!?」
〈竜ヶ崎組〉・幹部――計大車輪は、下半身の車輪を目紛るしく回転させ、天ヶ羽天音を追い掛けていた。メイド服を着た、白髪のウルフカットの女――〈神威結社〉・天ヶ羽天音は全速力で車道を駆け抜けてゆく。ブルンブルンと、バイクを空ぶかししたような音だけが雨が降り頻るプレハブ街に響いていた。
「全く……執拗いですね」
「逃がしませんよォ!?」
天ヶ羽天音は街の端まで訪れたところで、突然、足を止めた。眼前に〈神屋川エリア〉を囲う城壁が聳え立つ。
「……ここまで来れば、人の目もありませんね」
「諦めましたかァ!?賢明というものですねェ!?」
天ヶ羽天音は後方へと振り返り、計と目を合わせる。彼女のその瞳には、確かな信念が宿っていた。雨が、二人が立つ車道を激しく打ち付ける。
「――さようなら」
「――なっ!?」
彼女がニコリと微笑み、消えた――ように見えた。それが、〈竜ヶ崎組〉・幹部――計大車輪が「最期」に見た光景だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――再び、夏瀬雪渚サイド。〈竜ヶ崎組〉・事務所、二階。血塗れの二人の男が、死力を尽くして戦っていた。
〈竜ヶ崎組〉・組長――竜ヶ崎龍が放つ拳にこちらも拳を合わせる。その衝撃に骨が軋む。その度に全身の意識が霞む。
しかし、それは眼前の金髪オールバックの男――竜ヶ崎龍も同様のように見受けられた。男の左腕と背中にかけて彫られた龍の刺青が不気味な光沢を放っていた。
「貴様……巽を救う気か?」
「そんな大層なもんじゃねーよ。単にあんたが気に食わないだけだ」
「抜かすな……!嫌よ嫌よで世が渡れるか……ッ!」
「支配される痛みはよく知っているからな……!反吐が出るんだよあんたは……!」
俺の拳が竜ヶ崎龍の腹を捉える。竜ヶ崎龍は背後に吹き飛ばされ、壁に激突する。建物全体がグラグラと不安定に揺れる。そのとき、強烈な臭いが俺の鼻腔を刺激した。
「……なんかくせーな。ああ、お前の小物臭か」
何かが腐ったような、鼻が曲がる強烈な臭い。それは階下から微かに漂ってくる。
――この臭い……シュールストレミングか?拓生の奴、何しやがったんだ……?
「――三下が……ッ!俺様は偉人級異能だぞ!貴様に勝ち目はない……ッ!」
突然、眼前まで迫った竜ヶ崎龍の回転蹴り。それを辛うじて腕で受け止める。
「……手こずってんじゃねーか」
――クッソ。コイツ……全身骨折しているハズだろ……。なんてタフネスだ……。
「偉人級異能、〈帝威〉――この異能によって、俺様の拳は貴様より『一だけ』重い!俺様の頭脳は貴様より『一だけ』賢い!俺様のスピードは貴様より『一だけ』速い!それが!貴様が絶対俺様に勝てない理由だ!」
――偉人級異能、〈帝威〉――全てにおいて相手のステータスを『一だけ』上回る異能……。即ち、事実上、相手の完全上位互換になる異能というわけか。
――竜ヶ崎が「誰も兄貴には絶対に勝てない」と言っていたのはこれが理由か。
「お前みたいな小物でも偉人級なんだな」
「戯言を……ッ!」
――瞬間、確実に俺を殺すために放たれた、竜ヶ崎龍の蹴りが俺の視界を覆った。その蹴りを、首を傾け、間一髪で避ける。その蹴りは壁を穿つ。
その衝撃で、既に限界を迎えていた建物が、天井から、壁と共にガラガラと崩れ落ちた。二階部分が完全に雨晒しとなる。
視界の端――外のロータリーの奥には、美しい所作で佇む天音や満身創痍で座り込む拓生の姿が見える。
「――せつくん!」
「――雪渚氏!こっちは全員無事ですぞ!」
――天音と拓生は勝ったか。
座り込む拓生の側には赤いチャイナドレスに身を包む女――〈竜ヶ崎組〉・幹部の李蓬莱が立っており、俺たちの戦闘を静かに見守っていた。何かに期待するような、そんな目で。
「――雪渚ァ……」
「――雪渚!頼むのだ!」
そしてその近くには、傷だらけの竜ヶ崎に、その身体を優しく支える羊の着ぐるみの女――手毬の姿もあった。その近くのプレハブ住宅の屋根の上には〈十天〉・第七席――日向陽奈子の姿もあった。
「「――やっちまってくれ!!夏瀬雪渚!!」」
「「――組長を倒してくれ!!!」」
声を上げたのは、先程までロータリーの車道上で倒れていたハズの大勢の〈竜ヶ崎組〉の構成員たちだった。彼らは立ち上がって、まるで、敵であるハズの俺を応援しているかのように思える。
「裏切り者共が!弱者の分際で……ッ!」
相対する竜ヶ崎龍が怒りを露わにする。男が振るう拳を受け止め、反撃の一撃を食らわせる。
「……ぐは……ッ!」
――そうか。竜ヶ崎龍の発言からも読み取れることだ。この男は、〈神屋川エリア〉に住む住民を十六年間もの間、恐怖で支配していた。
――だが、それだけではない。部下たちすらも、同様に恐怖で支配していた。誰も竜ヶ崎龍に勝てずに、部下たちはその支配を受け入れるしかなかった。
更なるカウンターの一撃が、俺の頭を激しく揺さぶる。脳が、揺れる。
「俺様はこの異能と暴力で全てを支配してきた!妹も!親も!住民も!部下もだ!俺様の思い通りにならない人間に生きる価値等ないッ!!」
視界の端に映る竜ヶ崎巽――その長い黒髪の女が曇る。〈神屋川エリア〉の人々を救うため、兄に挑み続けた彼女の十六年間が、想像を絶する地獄であったことは、想像に難くない。雨が、一段と激しさを増す。
「全部あんたの所有物じゃねーよ。屑が……クソ親を思い出す」
「所有物だ!貴様すらもなッ!」
「じゃあ所有物が直々にあんたを殺してやるよ」
「抜かすな……!」
「飼い犬に手を噛まれる気分を存分に味わえよ」
――青年・夏瀬雪渚にとって、五度目の異能戦。それは、最終局面を迎えていた。
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